ⅩⅤ.クラリス=アッシェン
クラリス視点のアンジェリカの過去です。
後半パートはアデルがセイレーヌに移住する少し前の時期のお話。
※虐待の描写が含まれます。苦手な方はご注意ください※
クラリスがアンジェリカと初めて会ったのは、クラリスが十二歳、アンジェリカが五歳の春、サルヴァドーリ皇爵家の茶会でのことだった。
当時皇爵邸には毎週のようにサルヴァドーリ皇爵家と縁のある家門の人間が招かれ、茶会が開かれていた。
いずれもアンジェリカと同年代から少し年上の令嬢がいる家で、アンジェリカと同年代の侯爵家以上の令嬢が招かれていた。
おそらくは皇爵令嬢たるアンジェリカの遊び相手の吟味が行われていたのだろう。
クラリスもその一人だった。家柄は伯爵家で少し劣るが、遠縁のよしみで捻じ込まれていたのだろう。
クラリスの父はアンジェリカの父にとっては従伯父にあたり、クラリスの祖母は侯爵家の出身だ。
伯爵令嬢とはいえクラリスの参加はそこまでは不自然ではなかったはずだ。
初めて出席した茶会でアンジェリカと言葉を交わした記憶は無い。
両親に挟まれてテーブルの端の方に座り、皇爵夫人の隣に座るアンジェリカを見ていた。
初めて彼女を見たとき、天使がいると思った。
まるで大聖堂の壁画からそのまま出てきたような美しさに、思わず目を奪われた。
端から見ればクラリスはただ喋らずにぼんやりと座っているだけに思えただろう。
帰宅後、両親からは叱られた。もう少し皇爵夫人やアンジェリカに気に入られるような振る舞いをしなさい、と。
具体的にどのように振舞えばよかったのかと尋ねると、口答えをするなと更にこっぴどく叱られた。
きっと両親にも具体策など無かったのだろう。
両親の説教をよそに、初めての茶会の一月後、クラリスは再び皇爵邸に招かれた。
その次はまた一ヶ月後、その次は二週間後、と段々間隔が縮まり、やがて毎週のように呼ばれるようになった。
おそらくは皇爵家のオーディションを突破したのだろう。当然両親は大喜びだった。
二回目以降の訪問からは両親は同伴せず、子どもたちだけが五、六人ほどずつ招かれるようになった。
毎回呼ばれる子もいたし、一度見たきり姿を見せなくなった子もいた。
もっともクラリス自身も毎回呼ばれていたかどうかかはわからないけれど。
皇爵邸に招かれるようになって初めのうちはメイドに見守られながらの客間で歓談をしていたけど、メンバーが固定されていくと次第にお茶の淹れ方や刺繍の講習会が開かれるようになった。
他にも朗読会や香比べを行うこともあった。
今思えばあれは、所謂淑女教育だったのだろう。
皇爵家お抱えの家庭教師の講義を受けられるなんて贅沢な話だが、令嬢の多くはアンジェリカと同年代で、クラリスより二つ三つ年下の子も何人かいたけれど、ほとんどは五歳から七歳くらいだった。
そんな幼い子どもにとっては淑女教育どころか黙ってじっと座っておくこと自体苦行だろう。早々に音を上げてぐずり出す子も多かった。
そんななか、アンジェリカは年上の令嬢たちに混じって大人しく座り、折り目正しく講義を聞いていた。
家庭教師の質問にも堂々と答え、年上の令嬢たちと比べても誰よりも優秀だった。
最初から、アンジェリカは他のどの女の子とも違っていたのだ。
五歳にして既に淑女とは何たるかを心得ていたのか、常に凛として皇爵令嬢にふさわしい気品のようなものを漂わせていた。
同じ年代の子どものように泣き喚いたり騒いだりしない。自分がどう振る舞うべきかきちんと理解していたように見えた。
そんな彫刻や美術品のように美しい、浮世離れした雰囲気を持つアンジェリカだが、なぜかクラリスに懐き、慕ってくれた。
同年代の令嬢たちとおしゃべりするよりもクラリスにかまってほしがり、お気に入りの絵本を読んでとせがんだり膝に乗ってきたりと甘えてきた。
何が彼女の琴線に触れたのはわからないけれど、他の年上の令嬢たちと比べてもクラリスに一番懐いていたように思える。
幼い頃のアンジェリカは、今よりずっと笑う子どもだった。
駄々をこねたり泣き喚いたりはしない、感情豊かとも言えなかったけれど、時折見せる子どもらしさが可愛かった。
甘いものが好きでショコラに目を輝かせ、プレゼントに贈った金糸雀を可愛がり、いっしょにピクニックに行ったときはクラリスの手をつかんで離そうとしなかった。
「クラリスお姉さま」と呼んで慕ってくれるアンジェリカのことが、可愛くて仕方なかった。
妹ができたようで嬉しかったし、一方で御伽話のお姫様のように完璧な女の子に慕われているということがクラリスの優越感を刺激しなかったと言えば嘘になる。
特別な子に慕われている自分も、特別な人間になったような錯覚をした。
アンジェリカがクラリスにだけこっそり秘密を打ち明けてくれたことも、その勘違いに拍車をかけた。
『クラリスお姉さまは、もうオトナなの?』
あれは確か、アンジェリカが七つになったばかりの頃。
その頃にはクラリスだけが皇爵邸に呼ばれることも少なくなかった。
そういうときは淑女教育の講義は行われず、アンジェリカの部屋で本を読んだりおしゃべりをして過ごすことが多かった。
『大人……ではないわね。まだ』
『じゃぁいつからオトナ?カーティスお兄さまはオトナ?』
『カーティスお兄さまって……ディルク侯爵家の?確かわたくしより年下よね?じゃぁまだ大人じゃないと思うわ』
『クラリスお姉さまはなんさいなの?なんさいからがオトナ?』
『わたくしは十四歳よ。大人は……そうね、十五歳でデビュタントを迎えたら大人の仲間入り、とは言われているわね』
『じゅうごさい……』
『どうしてそんなことを訊くの?』
読んでいた本にしおりを挟んで閉じ、アンジェリカに向き直って尋ねると、そろそろとアンジェリカが寄ってきた。
誰もいない二人きりなのに、誰にも聞かれないようにとクラリスの耳に顔を寄せる。
『ナイショよ。わたし、オトナになったらルークとケッコンするんですって』
『け……っ』
『お母様がいってたの』
重大な秘密を打ち明けるように声を潜めてアンジェリカは言った。
否、今のは正真正銘、「重大な秘密」だ。
「ルーク」とは、彼女の再従兄にあたるこの国の第一皇子、ルーカス=カレン=ジュエリアルの愛称だ。
アンジェリカと同い年である皇子は、帝位継承権授与前のため国民の前に姿を現すことはない。
公表されているのは名前と二つ名、それから肖像画のみだが、再従兄であり幼馴染であるアンジェリカから話はよく聞いていた。
泣き虫でわがままで無鉄砲で、とっても優しい男の子なのだと。
『ケッコンしたら、おしろでルークといっしょにくらすんでしょう?』
『え……えぇ……そうね。おそらくは……』
『じゃぁはやくケッコンしたい。オトナになるまであと……はちねん?もあるのね……』
まだ七年しか生きていないアンジェリカは、困ったように唇を尖らせる。
珍しく年相応の子どもらしい表情に、けれどクラリスは自分の動悸を静めることに必死だった。
「結婚したらお城で暮らす」。
それは、皇子がいずれ皇太子になり、アンジェリカが皇太子妃になると言っているようなものだ。
元々貴族の結婚に政治的思惑が絡むことは常のことだが、皇族の場合、その比ではない。
くわえてサルヴァドーリ皇爵家は、二代前まで皇族だった。
その末裔たるアンジェリカが皇太子に嫁ぎ、いずれは皇妃となる。
その意味を考えれば、そうやすやすと口に出すことはできない「秘密」だ。
『……アンジェは、皇子殿下と結婚したいの?』
これまで皇子のことを語るアンジェリカから、彼への特別な好意のようなものは感じられなかった。
むしろ皇子についての話の大半は、彼の我儘に振り回されて迷惑している、という愚痴のようなものが多かった。
七歳の子どもに本気ですいた惚れたもないだろうが、少々早熟、恋に恋するお年頃ならば恋愛感情めいたものを抱いていても不思議ではない。
だがアンジェリカからは一切伝わってこないのだ。
『ケッコンしたいわけじゃないけれど、お母様がしろっておっしゃるから』
案の定、クラリスの問いにアンジェリカは淡々と答えた。
けれどその答えに、クラリスはかすかな違和感を抱いた。
皇爵夫人に命じられたから、早く大人になって結婚したい。
結婚したいわけではないのに、早くしたい。
幼子の発言など矛盾だらけで一過性の無いものばかりだが、このときばかりは違和感を無視できなかった。妙な胸騒ぎがした。
『アンジェ……』
『わたしがいったって、お母様にはナイショにしてね』
そう言ってアンジェリカはクラリスから離れ、読書を再開した。
アンジェリカが「お母様が言っていた」としか言っていなくて、父親である皇爵に一度も言及していないことに気付いたのは、メイドがお茶のお替わりを持って来たあとだった。
―・ー・ー・ー・ー・ー
アンジェリカとの交流は、クラリスがデビュタントを迎える少し前まで続いていた。
途絶えた理由について、クラリスのアカデミー卒業後の進路のせいだとアンジェリカは思っていたようだが、本当は違う。
クラリスは、逃げ出したのだ。
あれはクラリスが十五歳になった年の夏の日のことだ。
あの頃クラリスは月に二度ほどの頻度で皇爵邸に呼ばれ、アンジェリカや皇爵家の選んだ令嬢たちと「交流」していた。
他の令嬢たちも招かれている場合は、一刻ほど皇爵家お抱えの家庭教師の講義を受け、そのあとは皆家からの迎えを待つ間、それぞれが思い思いに過ごすのが常だった。
歓談したり本を読んだり庭園を散歩したりと様々だが、やはり皆、アンジェリカと過ごしたがった。
それが皇爵令嬢と親交を深めておくよう親に言われてきたためか彼女たち自身のアンジェリカに対する純粋な好意のせいかはわからないけれど、アンジェリカ自身も彼女たちの思惑を察していたのだろう。
不公平にならないよう巧みに調整しながら誘いに応じていた。
ちなみにクラリスはと言うと、毎回一人で本を読みふけっていた。
時折気を使った誰かが庭園の散歩に誘ってくれることもあったが、そうでなければ基本的には読書に没頭したかった。
あの日もいつも通り講義を受け、いつも通り皇爵邸の書庫から借りた本を読みながら家からの迎えを待っていた。
いつも通りでなかったのは、皇爵家のメイド長がアンジェリカを呼びに来たことだ。
クラリスの母親より年嵩のメイド長は、客人たちに優雅な礼を見せたあとアンジェリカに向かって奥様――皇爵夫人がお呼びです、と告げた。
アンジェリカの母であるアマーリエ=サルヴァドーリ皇爵夫人は、クラリスにとっては義理のはとこにあたる。
血のつながりのない、歳も離れている彼女のことを、クラリスはよく知らない。もしかしたら、話したこともなかったかもしれない。
皇爵夫人は、クラリスが皇爵邸を訪ねてもめったに顔を見せない。
最初の茶会こそ女主人として客をもてなしていたが、二度目以降は出迎えも案内もすべて執事やメイドが行っていた。
屋敷の主人でもある彼女の夫、ディートリヒ=サルヴァドーリ皇爵はたまに様子を見に来ることもあるが、皇爵夫人は屋敷の奥に籠ったままだ。
否、屋敷にいるのかどうかもわからない。
そんな皇爵夫人がわざわざアンジェリカを呼びつけたこと、不思議に思うべきだったのだ。
メイド長に促されてアンジェリカが部屋を出て行くと、残されたクラリスは再び読書に没頭した。
以前から皇爵邸の書庫にある本はどれも好きに読んでかまわない、と皇爵に許可をもらっていた。
アッシェン伯爵家では本を読んでいるとあまりいい顔をされないので、ここぞとばかり読み耽る。
クラリスの両親は、学のありすぎる女は嫁の貰い手が無くなると危惧し、クラリスが詩集以外の本を読むことを嫌がる。
それもあって最近は皇爵邸で何をしているのか、詳細までは両親に話していない。
きっと両親はクラリスが皇爵邸で刺繍やお茶といった淑女教育に勤しんでいると信じている。
医学書や薬学書を読み漁っていると知ったら卒倒するかもしれない。
知識を得られる貴重な機会に読書に没頭していたクラリスは、いつまで経ってもアンジェリカが戻ってこないことについて特段気にしていなかった。
一人、また一人と令嬢たちが帰っていくなか半刻以上が経過した頃、皇爵家のメイドがクラリスにアッシェン伯爵家からの迎えが来たと伝えに来た。
もうそんな時間かということに驚き、ようやくアンジェリカがまだ戻ってきていないことに気付いた。
令嬢たちも皆帰り、いつの間にか客間に残っているのはクラリスだけだった。
集中しすぎて周りに全然気を配っていなかったことが、急に申し訳なく、後ろめたく思えた。
それでも、あの日のクラリスは、どうかしていた。
帰る挨拶をするため、アンジェリカを探しに行くなんて。
クラリスが皇爵邸に出入りするようになって、結構な期間が経過していた。
幼いアンジェリカに手を引かれ、屋敷の中を探検したこともある。
出会ったばかりの頃のアンジェリカは、そういう子どもらしいこともする子どもだったのだ。
大人びていたけれど、年相応の好奇心や素直さももっていた。
はにかむように笑うアンジェリカは本当に、天使のように愛らしかった。
それがいつの間にかめったなことでは感情をあらわにすることがなくなっていた。
淑女として常に冷静に慎み深く。感情を乱すことなく優雅に振舞うことが淑女の嗜みであり義務だ。
そういった意味ではアンジェリカは、皇爵令嬢として申し分ないほど立派に成長していっている。
だからクラリスはアンジェリカが甘えて膝に乗ってこなくなっても本を読んでと強請らなくなっても手をつなぎたいと言わなくなっても、それが彼女の成長の証なのだと思って気にも留めていなかった。
客間を出たクラリスはアンジェリカを探すため、長い皇爵邸の廊下を供もつけずに一人で歩いた。
デビュタント前のクラリスには付添人はいないし、皇爵家の若い使用人たちは伯爵令嬢であるクラリスを若干軽んじている節がある。案内を断ると、あっさりと引き下がった。
何度思い返しても、どうしてあの日クラリスは自分があんなことをしたのかわからない。
一人で皇爵邸を徘徊したせいで、見てしまったのだ。
皇爵夫人がアンジェリカを打っているところを。
『何度言えばわかるの!?皇子殿下に気に入られることが貴女の役目なのよ!?どうしてそれがわからないの!?』
『ごめんなさい……お母様……』
『貴女は皇太子妃になるの!そのために生まれてきたのよ!そうじゃなきゃ意味無いの!!』
『痛い……やめてお母様……っ』
『ほらそうやって口答えばっかり……っ』
あの日クラリスは、アンジェリカの自室の扉をそっと開けてしまった。
そして部屋の中の光景に、目を疑った。信じられなかった。
アンジェリカを罵りながら手を振り上げる皇爵夫人は、何かに取り憑かれているようだった。
それでも顔や腕、服から出ているところは狙わないのは、多少なりとも冷静さが残っているからなのか、それとも手慣れているせいなのか。
おそろしくて、声も出なかった。
クラリスの両親も厳しい人だけれど、叩かれたことはない。
暴力に訴えることは知性の無い低俗な人間がやることだと教えられてきた。
それならどうして今、アンジェリカは叩かれているのだろう。
『―――クラリス嬢?』
『……っ』
名前を呼ばれ、立ちすくんでいたクラリスは弾かれたように振り返る。
立っていたのは銀の髪に瑠璃色の目をした、三十過ぎほどの男性――アンジェリカの父、ディートリヒ=サルヴァドーリ皇爵だった。
『そんなところで一人で何をしているんだい?』
威圧感の無い、優しい落ち着いた声だった。
けれどクラリスに向けられた視線は冷たく、射抜くように鋭い。
関係性だけを言うなら再従兄であるはずの男のことが、心の底から凍りついてしまいそうなほど、怖かった。
『……ごきげんよう、サルヴァドーリ公。本日は、お招きありがとうございます。家から迎えが参りましたので、そろそろお暇しようと、アンジェリカ嬢に挨拶を、と……』
『娘は部屋の中に?』
『はい……。皇爵夫人とご一緒のようです』
クラリスの返答に、皇爵はピクリと眉を動かす。
彼は、知っているのだろうか。自分の妻が娘に何をしているのか。
『……わざわざ丁寧にどうも。娘には私から伝えておこう。迎えが来ているのだろう?早く帰った方がいい』
『え……』
『いつも娘の相手をしてくれて礼を言うよ、クラリス嬢。これからも変わらず仲良くしてやっておくれ。
それから、御父上のアッシェン伯爵にもよろしく伝えておくれ』
『―――ッ』
具体的なことは何も言われていない。けれど直感的にわかった。
この男は、知っている。
知っていて、見て見ぬふりをしているのだ。
それを、クラリスにも強要している。
誰かに話したら、アッシェン伯爵家もただではすまない、と。
そのあと自分が皇爵に何を言ったのか、覚えていない。何も言えるわけがないのだ。一介の伯爵令嬢が、皇家の血を引く皇爵になど。
こわくて、おそろしくて、クラリスはその場を逃げ去った。
あの日クラリスはアンジェリカを見捨てたのだ。
ー・ー・ー・ー・ー・ー
あの日を境に、クラリスが皇爵邸に招かれることはなくなった。
疎遠の理由をアンジェリカはクラリスの勘当騒ぎのせいだと思っていたようだが、本当は違う。
皇爵家の秘密を知ってしまったクラリスを、皇爵が未来の「皇太子妃の側仕え」として不適だと判断したのだろう。
その後アンジェリカと再会したのは、クラリスが宮廷薬師として城に出入りするようになってしばらく経った頃だった。
十の祝いを迎えたルーカスが無事に帝位継承権を授与され立太子すると、同時にアンジェリカとの婚約も発表された。
公爵夫人の思惑通り皇太子の婚約者となったアンジェリカは皇太子妃教育のために城に出入りするようになり、「宮廷」内で働くクラリスと偶然鉢合わせたのだ。
再会したアンジェリカは、クラリスの知る彼女ではなくなっていた。
彫刻のような美貌はますます磨かれ皇爵令嬢としてどこへ出しても恥ずかしくない立派な淑女へと成長していたが、その顔から笑顔は完全に失われていた。
幼い頃の子どもらしい無邪気さなど、みじんも感じられなかった。
後悔した。
あの日、アンジェリカを見捨てたこと。
何もできなかったかもしれないけれど、何かできたかもしれないのに。
それはクラリスの人生において最大にして最悪の後悔――罪だ。
「クラリス」
窓際に座って物思いに耽っていたクラリスは名を呼ばれ、視線を室内へと戻す。
部屋の中に入ってきたのは、柔らかな蜂蜜色の髪をした三十前後の青年だった。
「ローレンス」
名を呼ぶと、それを入室の許可ととらえたのか青年――ローレンスは室内に入ってくる。
本来なら未婚の貴族女性が異性と二人きりになることは褒められたことではない。
けれどローレンスは神に仕える身――聖職者であり、厳密に言うならば今この部屋の中にいるのはクラリスと彼の二人だけではなかった。
「姿が見えないと思ったら、やっぱりクラリスといたんですね」
「エドと喧嘩したそうよ。謝るまで絶対に許さないんですって」
「おやおや」
クラリスの傍まで歩いてきたローレンスは、膝をつき、しゃがむ。
そしてクラリスの膝に頭を預けて眠る幼子の頭をそっと撫でた。
この幼子の名はロイ。
家名は無い。平民の出身で、国境近くのコーレルの村から流れてきた戦争孤児だ。
五年前、クラリスは皇妃の産褥死の咎を負い、帝都を離れてこのセイレーヌに移り住んだ。
本来なら身一つで来るつもりだったが、アンジェリカの計らいで街のはずれにある孤児院の院長を任されることとなり、院の一室に部屋も用意してもらった。
机と本棚、薬品が並べられた鍵の付いた棚、女一人が寝そべれるだけのベッドが置かれた小さな部屋。
ここがクラリスの終の棲家だ。
一方ロイが孤児院に入ったのはクラリスよりも少し前、今から六年ほど前だったと聞いている。
先の戦争で両親を失い、隣の村の親類を頼ったもののその親類も生活が立ち行かなくなり三つのときに孤児院に入れられたのだと。
ロイだけではない。
親を失ったり口減らしのために捨てられたり、ここで暮らすのはそういう子どもたちばかりだ。
十五歳までの子どもが暮らすこの孤児院で、ロイは十歳ながら古株で、年少の子どもたちに慕われる兄貴分だ。
不愛想で口数は少ないが面倒見はよく、手先も器用でよく年少の子たちに遊び道具を作ってやっている。
とはいえまだ十歳。これくらいの年齢の子どもにとって年齢差はたった一、二歳でも大きなものだろう。
一つ上のエドと喧嘩して、よほど完膚なきまでに打ちのめされたのか泣きながらクラリスの部屋に飛び込んできた。
クラリスの膝に顔をうずめてぐじぐじとべそをかいているうちに、泣き疲れて眠ってしまった。
必死に大人ぶっていても、まだまだ甘えたい盛りの子どもなのだ。
「最近反抗期が始まったと思っていたのに、クラリスにはそうやって甘えるんですね」
最後にロイの髪を一撫でし、ローレンスは立ち上がる。
優男と言う形容がふさわしい、柔和な顔立ちと華奢な体躯をしたローレンスだが、存外背は高い。
座ったままのクラリスが見上げようとすると、長時間なら少し首が疲れてしまいそうだ。
聖職者の証である聖刻印の刺繍が施された白いローブを纏ったローレンスは、この孤児院に隣接する教会に所属する神父だ。
姓は知らない。貴族の出身なのか平民なのかも。
以前それとなく尋ねてみたが、聖職を志したときに過去は捨てたと言って教えてくれなかった。
だからクラリスは、彼のことをただのローレンスと呼ぶ。
「あら。やきもちかしら?」
「ロイもエドも、もう一緒に寝てくれなくて寂しいです」
「ふふふ。大人になっている証拠ね」
そう広くない孤児院では、七歳以上の子は男女分かれて眠るけれど、六歳以下の子は男女区別なくクラリスと一緒に眠る。
神父であるローレンスは孤児院ではなく教会で寝泊まりしているが、時折男子部屋に泊まることがあった。
そういうとき、年少の子らの間で誰がローレンスの隣で寝るか争奪戦が起こるらしいが、最近のロイはもうその争いに参加してくれないらしい。
いつまでも子どもだと思っているのは、大人だけなのかもしれない。
「……ローレンス」
「はい」
「今日、正妃殿下から文が届いたの。来年……夏が終わる前に、第一皇子殿下が離宮にいらっしゃる、って」
「皇子殿下が……?」
「御静養のためらしいわ。期間は不明。ときどきは帝都に戻られるけれど、基本的にはこちらで過ごされるそうよ。その間……御滞在中の薬師を、わたしに任せたいんですって」
「……それは……また……」
「不思議な縁ね。あの子を見捨てたわたしが、今度はあの子の息子の傍に、だなんて」
薬師を志した理由に、贖罪の気持ちが少しも無かったとは言えない。
宮廷薬師となることでアンジェリカを守れたら、と期待はしていた。
もう二度と、誰にも彼女を傷付けさせないように。怪我も病もすべてクラリスが治してみせる。
そう己に誓ったはずなのに、結局は帝都を追われ彼女の傍を離れざるを得なくなった。
それなのに、今度は彼女の息子の御守りをするのだという。
彼女の夫、この国の君主によく似た美しい少年。
「宮廷」にいた頃、薬師として何度も接したことがある。
彼女の幼い頃よりずっと無邪気で子どもらしくて、春の陽だまりのように笑っていた。
何度死線をさまよっても折れない心をもち、周りを気遣う優しい子だった。
周りを不安にさせないように、優しく笑う子だった。
「ロイの方が皇子殿下より一つ年上よね。歳も近いし、仲良くしてくださるかしら」
「……」
一国の皇子――来年の春には皇太子になっている――が、平民の孤児と顔を合わせる機会なんてあるはずない。
それがお互いわかっているから、ローレンスは何も言わなかった。
クラリスも、それ以上何も言わずに眠るロイの頭をそっと撫でた。
【本編では出てこない親世代の設定】
ルーカスの親世代の設定です。出す余裕がないのでここで放出。例によって読まなくても大丈夫です。
■ルーカスの両親
・父:ヴィフリート=ジュエリアル
・母:ベアトリス=カレン=ジュエリアル
■アンジェリカの両親
・父:ディートリヒ=サルヴァドーリ
・母:アマーリエ=サルヴァドーリ
独身時代のヴィンフリートとアマーリエは恋人同士。アカデミーで出逢い、交際が始まる。
その後ヴィンフリートが十六歳のとき正式にベアトリスとの婚約が決まる。その際カンベルク皇爵家(ベアトリスの生家)が出した条件が、「側妃を迎えないこと」。ベアトリスには他にすきな男がいたのにヴィンフリートに嫁がなくてはいけなくなったため、せめてもの嫌がらせのつもりで出した条件。アマーリエは抵抗したが、無理やり別れさせられディートリヒと結婚させられる。その際バルシュミーデ侯爵家(アマーリエの生家)が皇家に出した別れる条件が、「子ども同士を結婚させること」。あとから知り、結局親にとっても自分は政略の道具でしかないことを知り、アマーリエ絶望。
結婚後、何やかんやで仲を深めていくヴィンフリートとベアトリスのことを聞き、更にアマーリエ絶望。心を病み、アンジェリカを正妃にすることに執着していく。
一方ディートリヒはずっとアマーリエのことがすきだった。ヴィンフリートとベアトリスの結婚の際臣下として暗躍したが、私情がゼロだったとは言い切れないので負い目がある。その反動で清廉潔白であろうと努めるも、心を病んでいく妻に対しては罪悪感から盲目的に。娘は大事だが、妻の方が大事。さりげなく娘をかばうけれど、妻を咎めることはしない。
結論アンジェリカ可哀想。




