ⅩⅣ.ルーカス=ジュエリアル
前回更新分から数年後、レオンハルトが三歳になってしばらくした頃のお話です。
マリアンヌがいなくなった。
たったそれだけのことで、ルーカスの世界から光が消えた。
もう二度と会えない。この世界のどこにもマリアンヌはいない。
あの甘い声で名前を呼ばれることも、夏の空のような瞳に見つめられることも、花がほころぶような笑顔を見ることも、柔らかな身体を抱きしめることも叶わない。
その現実に、耐えられない。
けれどどんなに嘆いても絶望に打ちひしがれても、変わらず日は昇る。
太陽は世界を照らし、風は木々を揺らし、雨は大地を潤す。夜になれば空には星が瞬き、そうしてやがて再び朝がくる。
マリアンヌが生きていた頃と変わらず、日々は過ぎていく。
そのことが許せなかった。
マリアンヌがいなくなっても以前と変わらず回り続ける世界を呪った。
マリアンヌがいなくなっても以前と変わらず日々を生きる自分の薄情さに絶望した。
けれどそれでも、絶望の中にも救いはあった。
セレスティアはルーカスの心に寄り添い、献身的に支えてくれた。
マリアンヌを求めて苦しむルーカスを抱きしめ、慰めてくれた。
同じ哀しさをわけ合う相手がいることで、ルーカスは救われた。
哀しみが癒えたわけではない。それでも少しずつルーカスは立ち直っていった。
立ち直らなくてはいけなかった。
ルーカスは、皇帝だから。
たった一人の皇妃のために、歩みを止めるわけにはいかなかった。
むしろ哀しみを紛らわすために、ひたすら公務に打ち込んだ。
そうしていくうちに時は流れ、マリアンヌが亡くなってから三度目の秋がきた。
彼女が産んだ息子は、いつの間にか三歳になっていた。
ー・-・-・-・-・-
太陽の光を溶かしたような金の髪。
神話に出てくる女神様のようだと言うと、驚いたように目を丸くしたあと愉快そうに笑った。
そして「私は女神ではなく神に仕える天使なのですよ」といたずらっぽく耳打ちされた。
三十を超えた大の男が天使を自称するなんて、今にして思えば随分と図々しいが、あの頃のルーカスはすっかり間に受けて信じていた。
それほどまでに彼は眩く、美しかった。
女神と見紛うばかりに美しいその男と初めて会ったのは、ルーカスがまだ十にも満たない頃のことだ。
父よりいくつか年上で、父の友人だというその男は、儚げで今にも光の中に消えてしまいそうだった父とは違い、自身が光を放っているかのように生命力に満ち溢れていた。
基本的には穏やかでおっとりとしているのに、時折子どものようにはしゃいだり奇天烈ないたずらを仕掛けてきたり、奔放でつかみどころのない男だった。
けれどそんな不思議な男のことを、父は誰より信頼していた。親友であり兄であり片腕なのだと、恥ずかしげもなく言っていた。
常に父に寄り添い、支え、父の傍で微笑んでいたその男がルーカスの臣下となり義理の父となるだなんて、あの頃は想像もしていなかった。
「今……何と申した」
問う声がかすれていることに、自分でも気付いた。けれど震えなかっただけ褒めてほしい。
それほどまでにルーカスは、この男と対峙すると平静ではいられない。
この国で最も高い身分にありながら、この男を前ではそんなものは意味を成さない。どうしようもなく心が乱れる。
それを悟られないよう取り繕うことで精いっぱいだ。
幼い頃はもっと簡単だった。
幼い頃は、この美しくて愉快な男のことを何の疑問もなく慕っていればよかった。
身体の弱い父の代わりのように抱き上げてくれる腕に、素直に甘えていればよかった。
今のルーカスにはもう、それはできない。
そんなことを望むような年齢でも、ましてや許されるような立場でもない。
この国に四人しかいない公爵の位をもつ男、ギルベルト=ランチェスター。
この男はルーカスにとって政において最も信頼のおける臣下であり、亡き妻の父、つまり舅でもあった。
歳を重ねてなお美しいという形容が相応しいギルベルトは、彼の娘であるマリアンヌとよく似ている。
正確にはマリアンヌがギルベルトに似ているのだが。顔立ちより何よりギルベルトの夏空に似た蒼い眸は、マリアンヌの瞳を想い出させる。
その蒼眼でルーカスを見つめながら、ギルベルトは再び口を開いた。
「第二皇子殿下を我がランチェスター公爵家へ迎え入れること、お許しいただきたく存じます、と申しあげました」
ルーカスの問いに、ギルベルトは一言一句違わず先刻の言葉を繰り返した。
口調も口元も穏やかなのに、ルーカスを見つめる瞳には非難の色が滲んでいる。
出会ってからもう二十年以上経つが、ギルベルトにそんな瞳を向けられるのは初めてだった。
そんな目で見ないでと、泣き崩れたくなる。
何もかも投げ出して、ルーカスだってつらいのだ、苦しいのだと泣き喚いてしまいたい。
衝動と理性がせめぎ合う。この男の目の前でだけはそんなことは許されないと、理性が衝動を押し留める。
吹き荒ぶ心の内を悟られないよう平静を装うことに必死だった。
そのせいだろうか。ギルベルトの言葉の意味を、何度聞いても理解できない。
「……なぜ?ランチェスター小公爵には、すでに後継となる小公子がいるはずだ。確か……レオンハルトより一つ年上で、健在だと聞いているが」
「勘違いをなさっているようですが陛下。公爵家の後継としてではなく、私の子として公爵家に迎え入れたい、と申しあげているのです」
「なんだと……?」
「理由は御自分の胸に訊いてみてください」
臣下としてはあまりにも不遜、無礼な物言いに、ルーカスはピクリと眉をひそめる。
ギルベルトの態度が気に障ったわけではない。
穏健派として知られ、自身の性格もおっとりとしていて穏やかなギルベルトがここまで強気な態度に出る理由がわからなかったためだ。
彼の言うように自分の胸に訊いてみても、まるで見当もつかない。
「おわかりになりませんか」
「……」
「陛下はあの日の『お願い』を、忘れてしまわれたと見える」
「願い……」
「私の宝物を献上する代わりに、必ず大事にしてくださると」
「……っ」
「我が娘マリアンヌを娶るときにお願いしたはずです。娘のことを側妃として尊重し、決してないがしろにするような真似はしてくださるな、と」
ルーカスを断罪するかのような言葉に、何も言えなくなる。
「あの日」がいつのことで「お願い」が何のことなのか、急に思い出した。
「思い出した」ということはつまり、今の今まですっかり忘れてしまっていた、ということだ。
あれは今から五年以上も前のこと。ギルベルトが公爵として皇家からの求婚を正式に承諾したときのことだった。
当初ギルベルトは、自身の娘を側妃として召し上げることを渋っていた。
臣下の立場で拒むことなどできないと理解しながらも、のらりくらりとかわしながら返事を先延ばしにしていた。
あの手この手ではぐらかし続けること数ヶ月、周囲の説得に根負けしたのか或いは心変わりするような何かがあったのか、ようやく了承したギルベルトはルーカスにある「条件」を突きつけてきた。
『陛下が正妃殿下のことを何より深く愛していらっしゃることは存じております。同じだけの御寵愛を我が娘にも賜りたいとは思っておりません。ただ娘の皇妃としての立場と、娘自身の尊厳をお守りいただきたいのです。公爵家としても私自身も、それ以上は望みません』
『愚かな父親の願い、どうか心にお留め置きいただけましたら幸甚に存じます』
そこにいたのは、娘のことを大事に想うただの父親だった。
父親とは娘のことをそんなにも大切に想うものなのかと、初めて知った。
あのときの「お願い」に自分が何と答えたのかは、もうよく覚えていない。
けれどきっと、了承したのだろう。
マリアンヌを側妃に迎えることについて、ルーカスにはずっと負い目があった。
彼女との結婚は政略でも何でもない。ただのルーカスの身勝手だ。
本当は側妃を迎えるつもりなんてなかった。
側妃の話を出したのはアンジェリカの気を引きたかっただけだ。
かつてルーカスの母がそうしたように、アンジェリカが嫌だと言ってくれれば取り下げるつもりだった。
それなのにアンジェリカはあっさりと受け入れ、こともあろうか自ら率先して側妃選びに参加した。
臣下たちを先導する姿に、引くに引けなくなった。
結果多くの人間、国中をも巻き込んで望まぬ結婚をする羽目になった。
当時ルーカスはアンジェリカ以外の女を愛するつもりはなかったし、愛せるわけもないと思っていた。
それでも側妃を迎える以上、子どもは産んでもらわなければいけない。
国事として迎えた側妃に手を付けないなど許されないことくらいは、ルーカスだってわかっていた。
可哀想だと思った。
ルーカスの身勝手に巻き込まれて人身御供のようにその身を差し出される女を、哀れだと思った。
自分が招いたことなのにまるで他人事のように思う自分はひとでなしだ、とも。
せめてものつみほろぼしに、新たな妃のことを大切にしようと思った。
妻として愛せなくとも妃として大事にしよう、と。
それは新たな妃への憐憫と同時に、ギルベルトへの義理立てもあったかもしれない。
十七で父を亡くし、即位してからずっとルーカスを支えてくれた彼には、感謝していた。
その恩に報いるため彼の「お願い」を叶えてやりたいと思ったとしても、何ら不思議はない。
それなのに今の今まで忘れていたのは、当のマリアンヌとの初対面があまりにも衝撃的すぎたせいだろう。
初対面の衝撃だけじゃない。
マリアンヌは存在そのものが強烈で型破りで、新鮮だった。彼女と過ごした日々はいずれも鮮やかだった。
令嬢らしからぬほど感情豊かで天真爛漫、奔放な彼女に振り回されてばかりいた。
それがちっとも嫌じゃなかった。
太陽のように笑う彼女の存在に、何度救われたかわからない。
立場も打算もエゴも弱さもすべて包んで愛してくれた。
もらった分と同じだけの優しさを返したいと思った。
いつしかルーカスは、ギルベルトの「お願い」とは関係なく、マリアンヌを大切にしたい、愛したいと願うようになっていた。
勝手な話だ。
愛することはないと彼女を傷つけておきながら。
その罰だろうか。報いだろうか。
ルーカスの子を産んだマリアンヌは、二十歳という若さで天上の神々の元へと旅立ってしまった。
眠っているようにしか見えない美しい死に顔を前にルーカスを襲ったのは、言いようのない絶望。
そして後悔と自責だった。
ルーカスが側妃を望まなければ、ルーカスが彼女を愛さなければ、ルーカスが子など産まさなければ、マリアンヌが死ぬことはなかったかもしれないのに。
ルーカスの愚かさが、マリアンヌを死へと導いた。
マリアンヌを死なせてしまったルーカスを、責める者はいなかった。
当たり前だ。この国の長、皇帝たるルーカスを糾弾できる者などいない。
彼の父であるギルベルトでさえ、恨み言のひとつも言わなかった。
けれど本当は何を考えていたのか、心の内まではわからない。
責められても、恨まれても仕方ない。
それだけの罪をルーカスは犯したのだから。
魂の幸いを願う司祭の祝詞が、ルーカスを呪う呪言に聞こえた。
「……そなたの娘のことは、本当に残念なことだと思っている。私の力が及ばないばかりに、あのようなことに……」
「いいえ、陛下。妃殿下のことではございません。医師も産婆も手を尽くしたと聞いております。あれは、避けられぬ悲劇。……きっと、娘の運命だったのでしょう」
「……」
髪と同じ色の金のまつげの奥から覗く蒼の瞳からは、感情が伺えない。
本心なのか、建前なのかもわからなかった。
「私が申しあげているのは、第二皇子殿下のことです」
「レオンハルトの……?」
「おそれながら、皇子殿下は我が娘が残してくれた唯一の「宝」です。あの子が命懸けで産み落とした忘れ形見なのです。私はあの子と同じだけ、殿下のことが大事で愛おしい。あの子の分まで殿下を幸せにすると、あの子の墓前に誓いました。それは陛下も同じだと信じておりました。……ですがどうやら、私の勘違いだったようですね」
「……随分な言い草だな、ギルベルト=ランチェスター公爵。誰に向かって口をきいているのか、わかっているのか?」
「皇子殿下が今、『後宮』内でどのような扱いを受けておいでか、陛下は御存知ないのですか?」
「何……?」
ルーカスの圧力に屈さず、ルーカスからの問いも黙殺し、ギルベルトは尋ねる。
やはり不遜な態度に怒りよりも困惑の方が勝る。普段ならばギルベルトはこんな挑発的な物言いはしない。
皇家に次ぐ権力を有するこの男は、けれど決して驕慢な人物ではない。
公爵としての品位と威厳を保ちつつ居丈高に振舞うことはしない、非常に穏やかな性格として知られている。
だが彼が常に笑みを絶やさないのは、性情からくるものだけではない。
自らの感情をそうやすやすとは悟らせないようにだ。
女神のような笑顔は人を魅了し、相手の目を眩ませる。そのギルベルトが今日こうして笑みをとり去りルーカスに対する非難を隠そうとしないのは、それだけ彼が本気だということなのだろう。
ギルベルトは今日、何らかの「覚悟」をもってこの場に臨んでいる。
でなければ人払いを請い、カーティスまで退出させる理由が無い。
二人きりの謁見の間で、臣下であるはずの男に気圧されそうになる。
「……どのような扱い、とはどういう意味だ。あの子には侍女も侍従も十分な数をつけているはずだ」
「十分な数……ですか。ではそのうちのほとんどが職務を放棄していることはご存知ですか?」
「なんだと……?」
「若い侍女……妃殿下の御逝去後に付けられた侍女は皆、どうせなら第二皇子殿下ではなく、第一皇子殿下付がよかったとこぼしているそうですよ。そのせいか侍女頭が目を離すとすぐに持ち場を離れるそうです。侍女同士でおしゃべりに興じ、与えられた業務をこなさないと。その皺寄せが侍女頭や古参の侍女にいっているようです。
侍女の職務怠慢だけではございません。給仕の順は一番最後で、時々冷めたスープが運ばれてくることもあるそうです。お召し物や調度品もここ数ヶ月新調されていないとか。皇家お抱えの職人は、正妃殿下と第三皇妃殿下の元にしか呼ばれていないそうです」
「そんな……」
「また先の殿下の御誕生日には、貴族からの祝いの品は数えるほどしか届かなかったと聞きました。第一皇子殿下や皇女殿下の元には毎日のように御機嫌伺いの贈り物が届けられているというのに」
「……」
「やはり御存知ありませんでしたか」
驚くルーカスとは対照的に、ギルベルトはどこまでも冷静だ。――冷静すぎるほどだ。
問う声も見つめる瞳もどこまでも静かで、そこに浮かぶのはもはや非難や怒りではなく、諦念だった。
「……そのような報告……私の元にはきていない」
「陛下が御興味を示されないからでしょう」
「……ッ」
「陛下は第一皇子殿下と第三皇妃殿下ばかりを御寵愛なさって、第二皇子殿下の元にはめったにお訪ねにならないと伺いました」
「……それは……」
「陛下が第一皇子殿下のことを何より大切に想い、慈しんでいらっしゃることは存じております。……同じだけの御寵愛を、レオンハルト皇子殿下にも賜ることはできなかったのでしょうか」
「……」
そんなことはない。レオンハルトのことも、アデルバートと同じくらい大切に想っている。愛している。
そう嘘を吐くことが、どうしてもできなかった。
レオンハルトのことをないがしろにしたつもりはない。
しかし、ではアデルバートと同じだけの愛情を注いできたかと訊かれると、頷くことはできない。
愛情を抱けるほど、レオンハルトと関わってこなかった。
レオンハルトのために父親らしいことなど、何ひとつしてこなかったのだ。
「レオンハルト皇子殿下は我が公爵家の娘が産んだ、陛下の血を引く尊き御方。その殿下がどうして臣たる侍女に侮られ軽んじられなければならないのでしょう」
「……」
「皇妃たる母を亡くし、父君たる皇帝陛下にも顧みられぬ皇子がどのような扱いを受けるか、陛下は少しもお考えになりませんでしたか?」
「……」
問う声に、何も言い返せない。何を言っても言い訳にしかならない。
ギルベルトの視線を避けるように、ルーカスは瞼を伏せる。
諦念と失望が綯い交ぜになった眸に見つめられることに、耐えられなかった。
マリアンヌの夏空のような蒼眼は、この男から受け継いだものだ。
彼女が産んだレオンハルトの眸は、何色だっただろう。彼女と同じ蒼か、ルーカスと同じ銀灰色か。
そんなこともわからないほど、ルーカスはレオンハルトのことを何も知らない。
何ひとつ見ていなかった。
病弱なアデルバートとは違い、レオンハルトは病気ひとつせず健やかにすくすくと育っている。
そんな報告を真に受けて、己の目で確かめようとしなかった。そんな資格、無いと思っていた。
「……陛下」
「……」
「我がランチェスター公爵家は、第一皇子殿下が立太子されることに異存はございません。この先、新たに皇子が誕生されたとしても我が公爵家は第一皇子殿下を支持するとお約束いたします」
「……」
「代わりにレオンハルト皇子殿下を公爵家に迎えることをお許しいただきたい。臣に下ったとしても皇家へと忠誠を誓い、兄君たる第一皇子殿下をお支えし、国のために尽力するようお育て申しあげます」
瞑目しうなだれるルーカスに、ギルベルトは堂々と言い放つ。
それは公爵としてはあまりに危うい発言だ。
それでもかまわないという、覚悟の上なのだろう。
ルーカスには、理解できない。
どうしてレオンハルトのためにここまでできるのか。
ギルベルトが娘のためならば皇帝にも意見するほど父性にあふれた人物だということは知っている。
けれど娘と孫では、過ごした時間の長さもかけた愛情の量も違うはずだ。
ルーカスの知る限り、ギルベルトとレオンハルトは数えるほどしか会ったことはない。
国民への「お披露目」も済んでいないルーカスはめったに「後宮」から出たことはなく、祖父と孫の関係とは言え二人は気軽に会えるような仲ではない。
それなのに、それでも情は湧くものなのだろうか。孫だという理由だけで、愛せるものなのだろうか。
ならば息子であるのに手放しに愛することができないルーカスは、きっと父親失格なのだろう。
「……未成年の皇子の降下など、前例がないだろう。あの子が今いくつだと思っている?今降下したところで、皇爵位は与えられない」
「ですから、降下ではなく養子としてお迎えしたいと申しあげております。このまま『後宮』内でないがしろにされるくらいならば、皇位継承権など与えず、公爵家に返していただきたい。きっと娘も、それを望んでいるはずです」
「――ッ」
そんなこと、わかっている。
ルーカスには、レオンハルトを育てる資格なんて無い。
ルーカスは、レオンハルトから母を、マリアンヌから未来を奪った張本人なのだから。
レオンハルトの傍にいていいはずがない。
それでも。
「……そなたの想いはよくわかった。しかし、レオンハルトを今公爵家の養子に、という要求は吞めない」
これは父としてではない。皇帝としての判断だ。
レオンハルトはギルベルトの孫である前にルーカスの息子だ。この国の皇子なのだ。
ルーカスの血を引く皇子が二人しかいない現状で、レオンハルトを臣籍に下らせることはできない。
ならば今、ルーカスにできることは、一つしかない。
「要求ではございません、陛下。要望です」
「……レオンハルトの処遇については見直す余地がある、と言うことはわかった。進言、感謝する」
きっとギルベルトの本当の目的はこれだ。
いくら側妃の子とはいえ、皇子を養子に迎えることなど公爵家の力をもってしても不可能に近い。
ならばレオンハルトのためにギルベルトができるのは、彼を取り巻く状況を改善するようルーカスに約束させることぐらい。まんまと言質をとられたわけだ。
「陛下が懸命な御判断をしてくださること、祈っております」
「……」
ルーカスを見つめたまま奏上するギルベルトに、この男がマリアンヌの父親だという事実を改めて思い知らされたような気がした。
マリアンヌはいつだって、ルーカスをまっすぐに見つめてくれていた。
皇帝としての姿も、ただのルーカスとしての姿も、すべて目に焼き付けておきたいのだと言って、笑っていた。
ー・-・-・-・-・-
幼児特有の柔らかな腹に回した手の震えが、動悸が収まらない。
全身が心臓になってしまったように、バクバクと早鐘を打っている。
あと数秒反応が遅れていたらと思うと、生きた心地がしなかった。
ギルベルトの謁見を終えたルーカスは、その足でレオンハルトの部屋を訪ねた。
彼の進言の真偽を確かめるためだ。
ギルベルトが嘘を言っているとは思わない。
彼がレオンハルトを手元に置いておくために侍女の怠慢をでっちあげるような男ではないということくらいはわかっている。
そのうえで自分の目で確かめなければならないと思った。
今までレオンハルトに関する報告を鵜呑みにして関心をもとうとしなかった代償が今なのだから。
レオンハルトの部屋に入ったルーカスは、心臓が止まるかと思った。
窓のすぐ傍に置かれたテーブルの上に乗ったレオンハルトが、その窓から身を乗り出そうとしていたからだ。
考えるよりも先に身体が動いた。
開けた扉を支えていたカーティスを押しのけ窓際まで走り、レオンハルトの襟首を掴んで机から引きずり下ろした。
レオンハルトを抱きとめた反動で横転し、背中を強かに打ちつけた。
それでも驚愕による興奮のためか、痛みはなかった。
「―――何をしている!!死にたいのか!?」
怒鳴りつけると、ルーカスの上で茫然としていたレオンハルトはビクッと全身をすくめる。
そして見る見るうちに表情が歪み、声を上げて泣き出した。
「陛下!ご無事ですか!?」
「……私より、この子を」
「は……。皇子殿下……こちらへ……」
慌てて駆け寄ってくるカーティスにレオンハルトを預けようとする。
もしかしたら無理に引っ張ったせいでどこか痛めたかもしれない。
怒鳴りつけたことで怯えさせてしまったのなら、ルーカスが傍にいない方がいいだろう。
しかしレオンハルトはなぜか泣きじゃくったままルーカスにしがみついてきた。
ルーカスの足の間に向かい合わせで座り込み、額をルーカスの胸に押し付けてくる。
「レオンハルト……?」
「皇子殿下、どこか痛いところはありませんか?」
カーティスの問いにもいやいやと頭を振ってますます強くルーカスにしがみつく。
泣いているのはルーカスが怒鳴ったせいのはずなのに、どうして離れようとしないのか。
「陛下」
「……」
カーティスに促され、恐る恐るレオンハルトを抱きしめた。
ルーカスの腕にすっぽりと収まる小さな身体。四つ年上のアデルバートに比べ、あまりにも小さく頼りない。
こんなにも小さな身体で、必死に泣いている。
生きているのだと、急にそう思った。
「何事ですか!?――へ……ッ陛下……ッ」
レオンハルトの泣き声を聞きつけたのか、侍女が二人入室してきた。
そしてレオンハルトを抱きしめるルーカスを見て、青ざめる。
入ってきたということは、今まで室内にいなかったということだ。
専属侍女と呼ばれる皇族付侍女は、主の許し無く傍を離れることはできない。
三歳のレオンハルトが、そんな命令を下すはずがないし、万が一下したとしても、真に受けていいはずがない。
誰に非があるかは明白だ。
「こ……皇帝陛下におかれましては……御機嫌麗しく……」
「なぜこの子が一人でいた」
震える声で述べる奏上を遮り、問う。
ルーカスが訪ねてきたとき、室内にはレオンハルト一人だった。
本来常に主の傍に侍るはずの乳母も侍女もおらず、だからこそ訪問者のカーティスが扉を開けたのだ。
部屋に入ったルーカスの視界に入ったのは、開いた窓の傍のテーブルの上で遊ぶレオンハルトの姿だった。
最初から開いていたのかレオンハルトが開けたのかはわからない。どちらにしろ、
もしもルーカスが入ってこなければ、レオンハルトはあのまま身を乗り出して窓から落ちていただろう。
レオンハルトの部屋は三階にある。窓の下にはクッションになるような木も無い。落ちたらまず助からない。
ルーカスが訪ねてきたのは本当にたまたまで、運がよかったとしか言えない。
まだ三歳の、物の分別もついていない幼児を一人放置することの危険性を彼女たちは理解していないのだろうか。
言いようのない怒りが込み上げてくる。
それは職務放棄した侍女たちに対してだけではない。
こんな事態を招いた自分自身にもだ。
蒼白になり、必死に言い訳する侍女たちの言い分を切り捨て、その日のうちに暇を言い渡した。
二人の侍女はいずれも伯爵家の令嬢で、解雇となれば経歴に傷がつき良縁が望めなくなると父親である伯爵から抗議がきたが、知ったことではなかった。
皇子の命より大事な伯爵家の縁談などあるはずがないのだ。
当事者の二人の侍女を解雇し、後日「後宮」内で聞き取り調査を行った。
結果二人以外にも職務怠慢者が炙り出され、一律解雇にした。レオンハルト付の侍女八人のうち五人が該当者だった。
きっと侍女に限らず給女や下女にも範囲を広げれば、もっと大勢が処罰対象になるだろう。
とはいえそれでは「後宮」が回らなくなる。
専属でない者を解雇してしまえばアンジェリカやセレスティアの生活にも支障が出かねない。
五人の侍女は、いわば見せしめだ。
今後彼女たち同じことをすれば、同じ道を辿るのだと。
最初にクビにした二人の侍女以外の解雇は、侍女頭の復帰を待ってからにした。
レオンハルトの侍女頭は、マリアンヌが公爵家から連れてきた彼女の元レディースメイド、ハンナ=ロマ伯爵家夫人が務めていた。
元々は第二皇妃付侍女頭でもあった夫人は、主の死後も「後宮」に残っていた。
公爵家ではマリアンヌの乳母も務めていたという夫人は、献身的にレオンハルトに尽くしてくれていたらしい。
本来の身分は自分より高い若い令嬢たちと衝突しながらも、必死にレオンハルトを育ててくれていた。
その無理がたたったのか心労が重なったのか、騒動の数日前から体調を崩し、伏せっていたらしい。
自分の不在の間、くれぐれもレオンハルトから目を離すことのようにと他の侍女たちに言いつけておいたようだが、若い侍女たちはそれも無視した。
彼女たちにとって、監視の目が無い羽を伸ばせる絶好の機会だったのだろう。
夫人は自身の監督不行き届きの責任をとるべく辞職を申し出てきたが、ギルベルトがそれを許さなかった。
あの日の夫人に落ち度は無く、またレオンハルトは彼女によく懐いている。
夫人がいなくなればレオンハルトが寂しがる、と説得し、辞職を取り下げさせた。
ルーカスも異論はなかった。
新しく雇い入れた侍女は皆、いずれも公爵家からの紹介だった。
本来ならば専属でない後宮侍女を昇格させるべきだが、聞き取り調査の結果をふまえると、任せられる者はいなかった。
宮廷侍女にも、皇族付侍女の基準に達する者はいなかった。
やむを得ずギルベルトの申し出を受けることとなった。
新しい侍女の多くは公爵家で働いていたレディースメイドや元ナニーメイドらしい。
いずれも皆優秀で、信用のおける人物だとギルベルトのお墨付きだ。
ギルベルトには改めて謝罪し、レオンハルトの降下について要望を取り下げるよう懇願した。
二度とこのようなことが起きないようにする。レオンハルトの処遇には細心の注意を払う。二度と誰にも軽んじさせることのないようにすると、約束した。
ギルベルトは了承こそしなかったが、それ以来降下の話を持ち出すことはなかった。
ギルベルトとの約束通り、以降ルーカスはレオンハルトの元を定期的に通うようになった。
また同じ頃、セレスティアがレオンハルトの後見人に名乗りを上げた。
それまでレオンハルトに一切の興味を示さなかったのに、どういう心境の変化かと思ったが、渡りに船ではあった。
公爵家出身の皇妃ならば後見人として申し分ないし、なさぬ仲であろうとマリアンヌの子にセレスティアが危害を加えることは決してないと信用できた。
昼間セレスティアの元で過ごすようになったレオンハルトは、すぐにセレスティアに懐いた。
彼女が産んだ第一皇女である異母妹のことも可愛がり、仲良くしているようだった。
一方で、ルーカスとレオンハルトの距離はあまり変わらなかった。
ルーカスが訪ねて行ってもどこか緊張した面持ちを見せるばかりで、甘えたりはしてこない。
抱き上げようとしてもセレスティアや侍女の後ろに隠れてしまい、ちっとも寄ってこない。
先日怒鳴りつけたことが尾を引いているのだろうか。ではあのときしがみついて離れなかったのは何だったのか。
幼子の考えていることはさっぱりわからない。
照れていらっしゃるのですよ、とセレスティアは笑うが、どうもそうは思えなかった。
それでも顔を合わせる機会が増えると、どうしたって情は湧く。
セレスティアの後ろに隠れながら少し舌足らずな口調で一生懸命に話す姿は、素直に可愛いと思えた。
けれどレオンハルトを可愛く思えば思うほど、胸の中に刺さった棘が痛みを増していく。
レオンハルトが笑うたび、昏い感情が胸を過ぎる。
セレスティアを本当の母のように慕い甘える姿に、胸が締め付けられる心地だった。
こんなにも可愛い子を残して、マリアンヌはどうして死ななければいけなかったのだろう。
命を懸けて産んだマリアンヌではなく、この子から母親を奪ったルーカスがこの子の傍にいるなんて、許されるのだろうか。
罪悪感が胸を苛む。
マリアンヌと同じ夏空のような瞳を向けられるたび、責められているような心地になる。
それはレオンハルトが長じるにつれてますます強くなっていった。
日を追うごとに、レオンハルトがマリアンヌに似てくるからだ。
マリアンヌと同じ瞳、同じ顔でルーカスを見つめてくるレオンハルトの存在に、気が狂いそうになる。
そうして思い知らされる。
こうなることがわかっていたから、レオンハルトを避けていたのだと。
結局ルーカスは、いつも自分のことばかり。
愛しいと思うのと同じくらい、レオンハルトのことが怖かった。




