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夢のあと  作者: 緋桜
番外編 皇帝は荊冠を戴く
105/114

ⅩⅢ.クラリス=アッシェン


 帝都を離れようと思う、と告げると、目の前に座る淑女は驚かなかった。

 クラリスの言葉を予想していたかのように、「そうですか」と静かに答えた。


「……領地に戻られるのですか?」

「行き遅れの小姑なんて、居つかれても迷惑なだけですわ。絶対に戻って来るなと釘を刺されました」

「では……」

「セイレーヌに孤児院があるでしょう。あちらに行こうと思います」

「セイレーヌに……?」

「あそこはブリティックスも近いですから、コーレルの村から流れてきた孤児が多いようです。薬師も足りないらしいですし、ちょうどいいですわ」


 明るく言うクラリスに反比例するように、淑女――アンジェリカの表情は翳っていく。

 氷のような美貌と冷静さから「氷華の女帝」と呼ばれるアンジェリカだが、まったく表情を変えないわけではない。

 心を許した者の前では、多少の変化を見せる。

 クラリスは自分が、アンジェリカにとっての数少ない「心を許した相手」だと自負していた。


「そんな表情なさらないでくださいな。誰かが泥をかぶらなければいけないんですもの。仕方のないことですわ」

「……陛下が、あんなことをおっしゃるなんて思いませんでした……」

「まぁ、ね。わたくしも驚いたけれど、間違ってはおりませんのよ。側妃を死なせておいて御咎めなしだなんてありえませんもの」


 スケープゴートは必要でしょう、と微笑むと、ますます苦い顔をされた。

 アンジェリカには何の非も無いのに、旧知の不遇に心を痛めてくれるのだ。


 アンジェリカはクラリスにとって再従姪に当たる。

 一言で言えば遠縁、少し詳しく言うならクラリスの父方の祖母の姪がアンジェリカの祖父、つまりは初代サルヴァドーリ皇爵に嫁いだ、という縁戚関係だった。

 そのためアンジェリカとの間に血縁関係はあるが、クラリスの実家アッシェン伯爵家は皇家に連なる家系ではない。

 それでも皇爵家に嫁げる家門なだけあって歴史も古く名家と言って構わない家門だ。

 そのため幼い頃は皇爵令嬢であり皇太子の婚約者であったアンジェリカとの交流を許されていた。

 サルヴァドーリ皇爵家にアンジェリカと歳の近い女児はおらず、行儀見習いの模範もかねての遊び相手としての白羽の矢がクラリスに立ったのだろう。

 世代で言えばクラリスはアンジェリカの親世代だが、両親にとっては遅くに生まれた子だったため、二人は七歳しか離れていない。

 クラリスお姉さま、と慕ってくれるアンジェリカのことを、クラリスも妹のように可愛がっていた。


 けれどきっと、アンジェリカはその頃のことはあまり覚えていないだろう。

 クラリスが十五歳になった頃、一時アンジェリカとの交流は途絶えた。アカデミーを卒業するクラリスが、薬師を志したためだ。

 デビュタントに向けての付添人や婚約者探しに精を出す両親に自身の進路の希望を伝えると激怒され、皇爵家との交流どころではなくなった。

 何とかデビュタントは無事終えたものの話は平行線で、結局クラリスはアカデミー卒業と同時に家を出た。

 当時の社交界に与えた衝撃は、我ながら、相当なものだっただろう。

 名門アッシェン伯爵家の長女が嫁にも行かず働きに出るというのだ。

 戻ってきて大人しく嫁に行けという再三の両親からの手紙を無視し続けた結果、最終的には勘当された。

 クラリスの弟が伯爵位を継いで両親が隠居した今も、和解はできていない。


 当時家出同然に屋敷を飛び出したクラリスは、師の家に転がり込んだ。

 師はかつては宮廷薬師も務めていたこともある一代子爵の男性で、当時で確か六十近かった。

 好々爺然としていながらどこか食えない人物で、彼に弟子入りできたのは、クラリスが彼の妻に気に入られたからだ。

 一人息子とその嫁との折り合いが悪く、「貴女が嫁に来てくれたらよかったのにね」と何度も言われたほどに、夫人はクラリスのことを気に入ってくれていた。

 クラリスも「本当に嫁になったら多分仲が悪くなっちゃうと思いますよ」と軽口を返せるほどには、彼女のことを好きだった。


 師の元で学びながら師のコネを十分に使い、女性初の宮廷薬師となったのは、その二年後のことだった。

 アンジェリカとの交流が再開されたのもその頃だ。

 当時十一歳のアンジェリカは、皇太子の婚約者として皇太子妃教育のためによく登城していた。

 「宮廷」での偶然の再会に驚いたし、彼女がクラリスのことを覚えてくれていたことは素直に嬉しかった。


 宮廷薬師となって三年ほど経った頃、師の家を出て城下に小さな家を借り一人で暮らし始めた。

 その後筆頭薬師になると、「宮廷」に部屋を与えられそこで寝泊まりするようになった。

 もう十五年、実家には帰っていない。弟が何度か様子を見に来たが、結婚し伯爵家を継いだ頃から顔を見せなくなった。


 この十五年、いろいろなことがあった。

 夢を叶えるために必死で勉強して、周囲の嘲りも妬みもすべて黙殺し、利用できるものは何でも利用した。

 師のコネも正妃の縁戚という立場も存分に利用し、「宮廷」内での後ろ盾も手に入れて、誰にも邪魔されない地位と権威を手に入れた。

 ――はずだった。


 築き上げた砂楼は、一夜にして崩れ落ちた。


 三ヶ月前、薬師として第二皇妃の出産に立ち会ったクラリスは、同時に彼女が息を引きとる瞬間にも立ち会った。

 あっと言う間だった。

 難産に耐えやっと皇子を産み落とした皇妃は、そのまま出血が止まらず、息を引きとった。

 医師も薬師も、何もできなかった。


 死の淵で皇妃はずっと生まれた皇子の将来を案じていた。

 そして最期に皇帝の名を呼び、そうして力尽きた。


 彼女はきっと、皇帝のことを愛していたのだ。

 皇妃としてではなく、女として。

 「ごめんなさい」。そのことばに一体どれだけの想いが込められていたのだろう。


 それからしばらくして、クラリスは皇妃の産褥死の責任をとって宮廷薬師の職を辞することになった。

 同じく立ち会った宮廷医師は公爵家の家門の人間だ。腕もいい。今回は不運だっただけで、彼の首を切ればのちのち自分たちの首を絞めることになる。

 その点薬師は替えが利く。

 下っ端の首を切ったところで誰も納得しない。筆頭薬師で勘当された伯爵令嬢のクラリスは、格好のトカゲのしっぽだ。

 薬師の部下たちはどうしてクラリスが、と憤慨してくれたが、クラリス自身は妥当な落としどころだと納得していた。


「それよりもわたくしは正妃殿下の方が心配ですわ。……第三皇妃殿下が身籠られたって話でしょう」


 第二皇妃の死後、皇帝がようやく第三皇妃との床入りを済ませた、という話はクラリスの元にも届いていた。

 侍女たちの噂話ではなく、報告として上がってきているのだ。

 もはや恥じらうような年齢でもないとはいえ、城中の人間に床事情を把握されているなんて、クラリスだったら耐えられない。

 皇族とは、本当に不自由で窮屈だ。

 そんなことに十年近く耐えてきたのだから、アンジェリカの忍耐強さには頭が下がる。


「えぇ。来年の夏に御出産の予定です。……二度と、マリアンヌ妃殿下と同じ轍を踏まぬよう万全を期すつもりです」

「……」


 クラリスが「心配」しているのは、そこではない。

 もちろん薬師として民として第三皇妃の無事を願う気持ちはある。

 しかしそれよりも心配なのは、アンジェリカの立場だ。


 マリアンヌの死後、皇帝がアンジェリカと距離を置くようになったことは公然の秘密であり、周知の事実だ。

 おそらくは棺の間での口論が尾を引いているのだろう。


 正妃であり皇爵家の後ろ盾があり第一皇子の生母というアンジェリカの立場は盤石なものに思われているが、実際にはそう頑強なものではない。

 このまま皇帝が第三皇妃を寵愛し続け万が一にも皇子を産めば、それも揺らいでしまうかもしれない。

 アンジェリカの父であるサルヴァドーリ皇爵は清廉な人物と目されているが、何よりも秩序を重んじる。

 娘の立場を守るための策を弄するようなことはしない。

 これまではそれでよかった。

 第二皇妃の父であるランチェスター公爵も、穏健派と言われ己の地位や権力に固執しない人物として知られている。

 もちろん由緒ある公爵家の当主なのだ。評判通りの清廉潔白な人物だとは思っていない。

 だが彼もまた秩序を重んじる側の人間であることは確かだ。


 一方で、第三皇妃の父親であるブラッドリー公爵は、非常に野心家で狡猾な人物だ。

 権力に執着する俗物で、強硬派でもある。未成年の娘を側妃の座にねじ込んだように、孫を皇太子にしようとしてもおかしくない。

 そうなったとき、ブラッドリー公爵にとって邪魔になるのはアデルバートとアンジェリカの存在だ。

 その危険性に気付いていないわけがないのに、アンジェリカが案じるのは皇帝のことばかりだ。


「第三皇妃殿下まで身罷られたら、きっと、今度こそ陛下は壊れてしまいます」

「……」


 本当にそうだろうか。

 皇帝のことを案じるアンジェリカを見つめながら、クラリスは小さな疑問を抱く。

 今の皇帝は、まとも(・・・)なのだろうか。


 第二皇妃が亡くなったあの日、皇帝は第二皇妃の亡骸にすがって恥も外聞も無く泣き叫んだ。

 肌が粟立つほどの慟哭は、今も耳に残っている。


 クラリスの知る皇帝は、どちらかというと穏やかな人物だった。

 「戦神」という異名が似合わないほど穏やかで、柔らかな物腰の青年だった。

 そしてアンジェリカのことを何よりも大切にしていた。

 彼の皇太子時代、アンジェリカとふたりで庭園を散歩しているところをよく見かけたが、こちらが見ていて恥ずかしくなるほどアンジェリカに夢中だった。

 アンジェリカを見る目が、大切だと、いとおしいと言っていた。


 だから四年前、皇帝が側妃を迎えたことに驚いたし、その側妃を寵愛し始めたことも信じられなかった。

 あんなにもアンジェリカを溺愛していた皇帝が他の女に情を移すなんて、と。


 だから第二皇妃の亡骸にすがって泣く姿を見て目を疑ったし、関わった医師薬師産婆すべての人間の首を刎ねろと命じる怒声に耳を疑ったし、暴挙を咎めるアンジェリカにまで罵声を浴びせたことが信じられなかった。

 あのときのアンジェリカの心中を思うと、胸が痛い。

 幼い頃からずっと支え続けてきたアンジェリカに、何という仕打ちをするのかと思った。

 あの瞬間クラリスが抱いたのは失望だった。

 泣き崩れる惨めな姿よりも、アンジェリカをないがしろにすることが許せなかった。


「正妃殿下は、どうして陛下が側妃を迎えることをお許しになったのですか?」

「……わたくしの意思など関わりないことです」

「いいえ。正妃殿下が本心から嫌だとおっしゃれば、誰も無理強いできなかったはずですわ。あの頃の正妃殿下には、その資格があった」


 当時、アンジェリカは第一皇子であるアデルバートを産んでいた。

 もしもその後第二子、第三子もアンジェリカが産むと主張すれば、周囲も無碍にはできなかったはずだ。

 子を産んだ正妃は、それほどまでの力を持つ。

 現に先帝が側妃を迎えなかったのは、皇帝の生母である皇太后ベアトリスの意向によるものが大きい。

 もちろん先帝ヴィンフリートが病弱だったせいもあるけれど、何より皇太后は他の女が夫の子を産むことを決して許さなかった。


「……皇子がアデルバートだけでは、城内の不安を招きます。あの子は身体が弱すぎる。それはアッシェン嬢もよくご存じでしょう?」


 確かに薬師として何度もアデルバートの処方をしてきた。

 生まれつき心臓の弱いアデルバートは呼吸器系にも疾患を抱えており、しょっちゅう発作を起こしていた。

 祖父に似て身体の弱い皇子は、このままでは先帝と同じ道を辿るのではないかと、臣下たちの誰もが危惧している。


「じゃぁ尚更、貴女がもう一人二人産めばよかったでしょう。もちろんできる確証はないけれど、あの頃貴女たちはまだ十九よ。戦後の処理もようやく落ち着いてきて、それなのに側妃を迎えるのは早計だったんじゃないかしら」


 口調が昔の者に戻ってしまっていることに、クラリス自身気付いていなかった。


 今更口を出しても仕方ないと、一介の薬師が口を出すような問題ではないとわかっている。

 だがもうすぐその任も解かれる今、アンジェリカの姉代わり(・・・・)として知りたかった。

 そもそも、当時から側妃の輿入れには違和感を覚えていたのだ。

 あれほどまでにアンジェリカを溺愛していた皇帝が、世継ぎも生まれて順風満帆ななかどうして、と。

 アンジェリカ一筋の皇帝はたとえ臣下から側妃を勧められたとしても決して首を縦に振らなかっただろう。

 他の女に割く時間があるのならアンジェリカと過ごしたいはずだ。

 実際皇帝は戦後の処理に忙殺されるなか、合間を縫ってアンジェリカとアデルバートの元に足繁く通っていた。

 離れていた分、親子の時間を何より大切にしているように思えた。


 そんな皇帝に側妃を迎えるよう説得できるとしたら、きっとアンジェリカによる発案だけだ。

 それ以外に皇帝を説得する方法など無いだろう。

 だからずっとクラリスは、アンジェリカの方から皇帝に側妃を迎えるよう進言したのだと思っていた。


 だがアンジェリカは淡々とクラリスの予想を否定する。


「……陛下が望んだことでしたから」

「え……?」

「陛下が御自身が側妃を迎えたいとおっしゃったんです。でしたらもう、わたくしに言えることは何もありません」


 何を言っているのか、理解できなかった。


 そんなはずない。

 皇帝がそんなことを言うはずない。

 けれど混乱するクラリスを置き去りに、アンジェリカはもっと信じられないことを言い出した。


「……きっと陛下は、わたくしに子を産んでほしくなかったんだと思います」

「は……?」

「アデルバートを産んだとき、怒っていましたから」


 そんなわけない。

 皇帝のアンジェリカへの寵愛ぶりは社交界どころか国民中が知っているほど有名だった。

 皇太子時代からアンジェリカしか目に入っていないようで、横恋慕した令嬢は軒並み返り討ちに遭っていた。

 そんな皇帝が、アンジェリカとの間に皇子が生まれたことを喜ばないはずないのに。


「それでも陛下は、アデルバートのことを慈しみ大切にしてくださいます。わたくしの正妃としての立場も常に尊重してくださっています。……これ以上望んでは、罰が当たります」

「そんな……」

「幼い頃から陛下は皇子としての、皇太子としての義務を課され、重圧を背負ってこられました。わたくしのことも、婚約者として正妃として尊重してくださいました。もうそろそろ、せめて御傍に置く妃くらいはご自分の好きにさせてさしあげるべきでしょう」

「何言ってるの……?」


 まるでそんな、皇帝がアンジェリカを傍に置いていたことが義務で重荷だったような言い方。

 そんなこと、あるわけないのに。


「待って。アンジェ。貴女きっと、何か勘違いしているわ。陛下は……」

「もう、疲れました」

「―――っ」


 少し、困ったように微笑むアンジェリカは、見とれるほどに美しくて。

 きっともうクラリスが何を言っても彼女は受け入れはしないということがわかってしまった。


「きっとこれからは、セレスティア妃殿下が陛下のことを御傍で支えてくださることでしょう」


 それはまるで自分の役目はもう終わりだと言っているようだった。

 否、「まるで」ではない。きっともう、アンジェリカは皇帝のことを見限ったのだ。


 昔から、アンジェリカは皇帝に対し常に従順だった。

 幼い頃は皇帝のわがままに振り回されて腹を立てることもあったが、皇太子妃教育が始まった頃、クラリスと再会した頃にはそれもなくなった。

 常に皇帝に寄り添い、支え、従う。

 彼の命には決して逆らわない。

 きっと逆らうという発想もないのだろう。

 皇帝の意思が、彼女の意思だった。

 無理しているわけでも自分を偽っているわけでもない。

 アンジェリカは、そういう風(・・・・・)に育てられたのだ。


 アンジェリカは、生まれてすぐルーカスの妃候補となった。もしかしたら、母の胎の中にいる頃から決まっていたのかもしれない。

 幼い二人の婚約は、アンジェリカの母であるサルヴァドーリ皇爵夫人が強く望んだためだ。

 クラリスにとっては義理のはとこにあたる皇爵夫人は、昔から皇族妃の座に強く執着していたらしい。

 本当は彼女自身が先帝妃の座を狙っていたという噂も聞いたことがある。

 皇太后が側妃の存在を決して許さなかったため渋々アンジェリカの父である当時のサルヴァドーリ小皇爵に嫁いだのだ、とも。

 その際皇爵夫妻は先帝とある密約を交わしていた。夫妻に娘が生まれたら、皇太子妃とする、と。

 その約束を果たすため、皇爵夫人は皇帝の誕生から二ヶ月後、娘を産んだ。

 先々帝と同じシルバーブロンドの髪をもつその娘は、未来の正妃として血統も家柄も申し分なかった。

 そうしてその皇爵令嬢――アンジェリカは、皇爵夫人の思惑通り生まれて間もなく次期皇太子の婚約者に内定したのだ。

 それほどまでに皇爵夫人の執念はすさまじく、むしろ裏を返せばアンジェリカは、正妃になるために生まれてきたようなものだった。

 そのための厳しい教育を幼い頃から受けてきた。

 淑女教育に皇太子妃教育、皇妃教育。

 すべてはルーカスに相応しい妃となるため。

 アンジェリカの人生はすべて、ルーカスのためにあったようなものだ。


 それなのに当の皇帝は若い側妃に入れ込み、アンジェリカのことを顧みない。

 諫めるアンジェリカを罵倒し、傷つけた。


 クラリスはそれが許せない。

 腹立たしい。


「……でも、ほら、考えようによってはアレよね。これからは好きなことができるわね。今まで陛下の御守りで大変だったでしょう。少し肩の力を抜いて、好きなことをすればいいわ。皇子殿下と過ごしてもいいし、旅行とか……」


 言葉を重ねれば重ねるほど、アンジェリカの表情が曇っていくのがわかった。

 元気づけたいだけなのに、どうしてうまくいかないのだろう。


「……クラリスお姉さま」


 随分、懐かしい呼称で呼ばれた。

 一体いつぶりだろう。少なくともアンジェリカがデビュタントを迎えてからは、「アッシェン嬢」と公称で呼ばれていた。


「陛下のために生きることが、わたくしの生きる意味でした。わたくしは陛下をお支えするために存在しているのだと思って生きてまいりました」

「アンジェ……」

「その役目が果たせなくなった今、わたくしに存在する価値などないのかもしれません」

「――そんなわけないでしょう!!」


 生まれて初めて、テーブルを叩いた。

 淑女ではありえない行動と大声に、アンジェリカは目を丸くした。

 けれどそんなことではクラリスの怒りは収まらない。棺の間で皇帝に向けた以上の怒りが、腹の底から湧き上がってくる。


「いいこと?アンジェ。貴女はね、正妃である前にアンジェリカなの。わたくしの大切な妹分よ。貴女の価値は正妃であることだけじゃない。貴女が貴女であるということだけで、十分に価値があるのよ」


 アンジェリカの困惑した表情が、腹立たしくて仕方ない。

 こんな簡単で当たり前のことが理解できないなんて、一体皇帝は今まで何をやってきたのだろう。

 彼が誰よりアンジェリカのことを大切にしてくれているのだと、信じていたのに。


「……貴女はもう、十分頑張ったわ。これからはもう、自由に生きなさい」

「……自由……」

「責任を放棄しろ、と言っているのではないのよ。ただ貴方の心は貴女だけのものよ」

「……」


 クラリスの言葉に、アンジェリカは結局頷くことはなかった。


 これまでの生き方を否定して新しい道を選ぶなんて、そう簡単にできることじゃない。

 それでもクラリスは、アンジェリカの未来が明るいことを願っている。

 誰にも軽んじられない、心穏やかに過ごせる未来を。


 そんなことで自らの罪が赦されるなんて思っていないけれど。



セシル視点の番外編に出てきたレディー・クラリス視点のお話です。

カーティスもクラリスもアンジェリカの遠縁ですが、カーティス(ディルク侯爵家)はアンジェリカの母方の、クラリス(アッシェン伯爵家)は父方の遠縁で両家に血縁関係はありません。

ちなみにクラリスはルーカスにとっては「母方の祖父の兄の妻の父方の従弟の子」にあたります。

こちらも血縁関係はありません。

カーティスも頑張ればつながりますが、もはや他人です。


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