ⅩⅡ.ルーカス=ジュエリアル
前回更新分から二ヶ月後、マリアンヌ出産時のお話です。
本編で散々言われているのでネタバレも何もないですが、つまりはそういうことです。
もしもここでマリアンヌが亡くならなければルーカスはもちろんレオンの人生も全く別のものになっていたんだろうなぁと思いつつ、ただどちらの方がよかったのかはわかりません。
ほんのすこーーーし閨事を思わせる描写があるので、苦手な方はご注意ください。
世界から、音が消えた。
そう錯覚するほど、何の声も聞こえなかった。
部屋の中には大勢の人間がいて、ルーカスに何かを話しかけているはずなのに、誰の声も聞こえなかった。
「……マリア……?」
寝台の中、眠る妻の名を呼ぶ。
まばゆい金の髪も知的そうな眉も長いまつげもすっと通った鼻梁も形の良い唇も昨日見たときのままなのに、夏の空のような瞳がルーカスを見つめることはもう二度とない。
甘くやわらかな声で呼ばれることも、滑らかな頬が薔薇色に上気することも。
眠っているようにしか見えないのに、白い服を着て寝台に横たわるマリアンヌは、もう二度と目を開けることはない。
マリアンヌの魂は、天上の神々の元へと旅立ったのだ。
戦場で嫌というほど死体を見てきたはずなのに、マリアンヌの死に顔はあまりにも美しく、死んでいるなどとは到底思えなかった。
けれど生気の無い頬に触れると、ゾッとするほど冷たかった。
ここにいるのは血の通わぬ、物言わぬ骸だ。
「あ……あ……マリア……どうして……どうして……っ」
立っていられないほどの哀しみに、ルーカスは思わず膝をつく。
皇帝になってから臣下の前で跪くなど、初めてのことだった。もちろん涙を見せることも。カーティスの前でさえ、泣いたことはないのに。
マリアンヌの胸に縋りつき、声を上げて泣いた。泣いても泣いても哀しみが尽きない。
どうして、と繰り返す。
答えは返ってこないのに。
昨日の夜、マリアンヌが産気づいた。
陣痛に苦しむマリアンヌの傍にいてやりたかったが、皇帝であるルーカスが不浄とされる出産に立ち会うことは許されない。
せめて産室に向かう間、苦しむマリアンヌの手を握ると、痛みを紛らわそうとしたせいもあるのか、今までにないほど強い力で握り返された。
大丈夫です。わたくしたちの子どもを、産んできますね。
脂汗を額に滲ませながら微笑むマリアンヌの表情は今まで見たどの彼女より美しくて、「わたくしたちの子」と言ってくれたのが嬉しくて、痛みに耐える彼女のために何もできない自分の無力さが恨めしくて、それでももうすぐ会える我が子に胸を震わせていたのに。
子を産んだマリアンヌは、そのまま息絶えた。
マリアンヌが産室に入ってからまんじりともしない夜を過ごし、夜が明けても生まれていないことに焦り、初産だから時間がかかっているのだろうと宥められ、執務室で机に向かうも一向に身が入らず、今か今かと待ち続けたルーカスの元に届いたのは、第二皇子誕生の報せ。
そして第二皇妃の訃報だった。
半日以上にわたる難産の末男児を産んだマリアンヌはそのまま出血が止まらず、命を落とした。
医師の処置も間に合わず、あっという間だったらしい。
ルーカスの元に報せが届いたのは、すべてが終わったあとだった。
身体を浄められ、服も着替えさせられ、死化粧を施されたマリアンヌを見ても、信じられなかった。
信じたくなかった。
こんなことになるくらいなら、マリアンヌを失うくらいなら、子どもなど要らなかったのに。
彼女のいないこの世界に、価値なんて無い。
「……医師を呼べ」
「陛下……」
「医師と産婆と、マリアの出産に立ち会った者、すべてここに連れて来い!皇妃を死に追いやるなど、何たる大罪!命をもって償え!!」
「落ち着いてください、陛下……っ」
「さぁ早く!!私の手で直々に首を刎ねてやろう!」
「陛下……っ」
自分でも何を言っているのかわからなかった。
けれど絶望のあと押し寄せた怒りを、どこにぶつけたらいいかわからない。
何に怒ればいいのか、誰を責めればいいのかわからない。
確かなのは、誰の首を刎ねたところでマリアンヌは戻らないということ
そんなことはわかっている。けれど。
「おやめください、陛下」
狂乱の中に場違いなほど涼やかに響いた声に、ルーカスは思わず動きを止める。
棺の間に現れたのは、アンジェリカだった。
騒ぎを聞いて駆け付けたのか、美術品のように美しい顔は珍しく強張り、少し青ざめていた。
正妃の出現に医師や侍女たちが慌てて跪くなか、アンジェリカはゆっくりとルーカスに近付いてくる。
「医師たちに落ち度はございません。それ以上の暴挙はおやめください」
「だが……っ」
「彼らはきちんと役目を果たしました。妃殿下のことは残念ですが、彼らを責めても詮無きこと。そんなことをしても、妃殿下は還ってきません」
「……っ」
「そんなことよりも、陛下には今すべきことがあるでしょう」
咎めながらもルーカスを見つめるアイスブルーの瞳は静謐の水面のように澄んでいて、何の感情もうかがえない。
取り乱すルーカスに、軽蔑も同情も抱いていない。
いつもそうだ。
彼女は、いつだって正しい。
常に正しく、理想を語る。貴族として皇族として、正妃として皇帝としての正しい道を説き、己もそれを全うする。
決して折れない旗標のように、ルーカスに道を示す。
本当はずっと気付いていた。
ルーカスが皇帝に相応しいわけではない。
彼女が正妃に相応しいのだと。彼女こそが、人の上に立ち民衆を導くべき人間なのだ。
それでもよかった。
なにものにも侵されることのない彼女の高潔さに惹かれ、憧れ、愛した。
彼女に相応しい男になりたいと、彼女に愛されたいと願った。彼女に愛されるために皇帝になった。
愚かな男だ。
すべては惚れた女を手に入れるための茶番だったのだ。
彼女に愛されていないことに気付いたとき、それでも諦めきれなくて、何とかして彼女の気を引こうとした。
側妃を迎えようかと考えている、と告げたのは、彼女の嫉妬心を煽りたかったからだ。
そんなのは嫌だと、アンジェリカ以外の妻など許さないと言ってほしかった。
それなのに、嫌がるどころか少しも興味を示さないから、引くに引けなくなった。
自ら側妃の選定を行う妻に、もはや笑ってしまいたかった。
そうして、ルーカスは望んでもいない側妃を迎える羽目になった。
「羽目」だなんて、酷い言い草だ。
ルーカスの愚かさが、すべての悲劇の始まり――元凶だったのに。
否、悲劇だなんて生ぬるい。
すべてはルーカスの身勝手さが招いたルーカスの罪。
ルーカスの愚かさが、マリアンヌを死へと追いやったのだ。
ー・-・-・-・-・-
マリアンヌの死をきっかけに、ルーカスとアンジェリカの仲は、氷よりも凍てついたものになった。
公の場――臣下や民の前では以前と変わらず仲睦まじい夫婦を演じる。
けれど私的な会話を交わすことはなくなり、月に一度の夜の渡りも無くなった。
アデルバートと三人で過ごしているときも、互いの存在を黙殺するようなった。
一方で、ルーカスが第三皇妃のセレスティアと本当の意味で夫婦になったのは、マリアンヌの死から一週間後――彼女の葬儀の夜だった。
葬儀までの間、ルーカスは自分がどのように過ごしていたのか、よく覚えていない。
マリアンヌの訃報を聞いてしばらくの間は彼女の棺の傍で絶望に打ちひしがれていたが、やがて誰か――おそらくはカーティス――にいい加減にしろと叱責され、引き剝がされた。
抵抗する気力さえ無くて、その後は言われるままに公務をこなした。
こなした、と言ってもルーカスがしたのは決裁書にサインするくらいで、おそらくはカーティスとアンジェリカが代わりに行っていたのだと思う。
あの頃の書類をあとから見返しても、内容は少しも覚えていなかった。
腹心であるカーティスが二心ある人物でなくて本当によかった。
葬儀の手配も国民への発表も彼女の生家ランチェスター公爵家への連絡も、すべて誰かがやってくれた。
ルーカスはただ泣いて、哀しんでいるだけだった。
生まれた子に会ったかどうかも覚えていない。
少なくとも、抱く気になどなれなかった。あんなにも楽しみにしていた我が子の顔を見たくなかった。
気が狂いそうな絶望のなか、マリアンヌの葬儀は滞りなく行われた。
ランチェスター公爵家の人間はもちろん、国中の民が若すぎる皇妃の死を悼み涙していた。
皇妃として公の行事に出ることはなくても、社交界での彼女の人気は根強いものだった。
葬儀も終盤に差し掛かるなか、ふと、セレスティアが参列していないことに気付いた。
マリアンヌをあれほど慕っていた彼女がなぜ、と不思議に思い侍女に尋ねると、マリアンヌの死に強いショックを受けて倒れたのだと知らされた。
高熱を出し、熱が引いたあとも食事が喉を通らず、寝込んでいるのだと。うわごとでマリアンヌのことを呼び、泣き続けていると。
いてもたってもいられず、その日の夜、セレスティアの元を訪ねた。
不埒な考えなど微塵も無かった。ただセレスティアのことが心配だった。
ただそれだけだったはずなのに。
気付けば手を伸ばしていた。
否、手を伸ばしたのがルーカスとセレスティアどちらが先だったのかはわからない。
ただ、二人とも同じだった。ひとりでは立っていられない絶望に耐えられなかった。
凍えた身体を温めたくて、灯った熱を分け合うように、彼女を抱いた。
破瓜の痛みに耐える苦悶の表情に、シーツに咲いた赤い印に、セレスティアが生きているのだと実感できた。
その夜ルーカスの背中につけた傷に、きっとセレスティアも同じことを思っていたのだろう。
ルーカスの腕の中で、セレスティアはぽつりぽつりと自分のことを語り始めた。
大好きだった姉が死んだとき、本当に哀しかったこと。
その哀しみを、マリアンヌだけがわかってくれたこと。
大好きだった姉の姿をマリアンヌと重ねていたこと。
マリアンヌと過ごす時間が本当に大切で幸せだったこと。
いつの間にか、マリアンヌのことを一番大切に想うようになっていたこと。
大好きなんて言葉では足りないくらいマリアンヌのことを愛していること。
彼女のいない世界を生きていくことが哀しいこと。
けれど彼女の最期の言葉を思うと、後を追うこともできないこと。
『どうか、どんなときも、陛下を一番に愛して。あの御方を決して一人にしないで』
それがマリアンヌと最後に会ったとき、彼女がセレスティアに告げた言葉なのだという。
涙が止まらなかった。
そんなにもマリアンヌに愛されていたのだという事実と、そんなにも愛してくれたマリアンヌを喪ってしまったという現実に、自分の愚かさを呪った。
泣き崩れるルーカスをぼんやりと眺めながら、お姉さまに愛された陛下が羨ましい、とセレスティアは言った。
だからお姉さまの分も、今度はわたしが陛下を愛するの、と。
恍惚な表情で笑うセレスティアは、ゾクリとするほど女の顔をしていた。
ずっと妹のように慈しんできた妻が、知らない女に見えた。
憎くないのかと尋ねると、そんなわけないと首を振った。
お姉さまが愛した陛下を、憎めるはずないと。
きっとセレスティアはわかっている。理解している。
ルーカスが犯した罪も、その罪の意識にルーカスが苛まれていることも。
わかっていて、マリアンヌへの愛に殉じるためにルーカスを赦すのだ。
まるで、呪いだ。
愛しているから哀しくて、愛しているから縛られる。
もがけばもがくほど抜け出せない。
からめとられて身動きが取れない。
それでもルーカスは弱いから。
一度手にしたぬくもりを手放すなんてできない。
うつろな瞳をした少女を抱きしめながら、傷を舐め合うように、熱を分け合うように寄り添った。




