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夢のあと  作者: 緋桜
番外編 皇帝は荊冠を戴く
102/114

Ⅹ.ルーカス=ジュエリアル


前回更新分から数ヶ月後のお話です。

セレスティア視点の番外編の裏側もちょっぴりあります。

ほんのすこーーーし閨事を思わせる描写があるので、苦手な方はご注意ください。



 彼女との出逢いは奇跡だと、ルーカスは今も思っている。


 ルーカスの前に現れた、救いの女神。太陽のようにルーカスの世界を照らし、凍えた心を融かしてくれた。

 幸せだった。

 愛し愛される歓びを、マリアンヌが教えてくれた。

 けれどその幸せも、長くは続かなかった。


 ルーカスが新たに側妃を迎えることになったのは、マリアンヌと結婚して二年が経とうとした頃だった。

 彼女との間に子ができなかったためだ。


 子どもなど要らない。皇子ならばアデルバートがいる。子など産めなくても、マリアンヌさえ傍にいてくれたらそれでいい。


 それはルーカスの偽りない本音だったけれど、皇帝としての立場を考えると、そんなことは言えなかった。

 現在、帝位継承権を持つ皇族は三人。ルーカスの亡き父、先帝の異母弟と、その二人の息子だ。

 今はルーカスにとっては叔父にあたる先帝弟が皇太子の座にあるが、アデルバートが十歳になり立太子すれば叔父は帝位継承権を返上し、その息子たちも臣籍に下る予定だ。

 そうなると帝位継承権を持つ者はアデルバートだけになる。大臣たちはそれが心もとないのだろう。

 また、他国との国交を鑑みると皇女の存在も不可欠だ。

 冷たいと言われようと、皇室や王室同士の婚姻が政治的手段として有効だということはルーカスもわかっている。

 そもそも、マリアンヌを側妃に迎えたときも建前上はアンジェリカ以外の産んだ皇子の必要性を説いたためだ。

 そうして迎えたマリアンヌのことを愛してしまったからと言って、新たな側妃を迎えることを拒むことはできない。


 結局、アンジェリカと同じようにルーカスもまた皇帝としてしか生きられないのだ。


 大臣たちによる選定の結果、四大公爵家のブラッドリー家の長女を第三皇妃に迎えることが決まった。

 そのことをマリアンヌに伝えると、美しい顔が見る見るうちに歪んでいった。

 夏空を思わせる蒼い瞳は大きく見開かれ、眉間には深い皺が刻まれ、白皙の肌は血の気が引いていっそ蒼く見えるほどだった。

 驚愕とも怒りとも違う、鬼気迫る表情だった。


 日頃から笑ったり怒ったり忙しいマリアンヌだが、そんな表情は初めて見た。

 尋常ではない様子にどうしたのかと尋ねると、浅い呼吸を繰り返し、震える唇で「嫌です」と答えた。


 第三皇妃など迎えてほしくない。

 ルーカスの皇帝という立場は理解している。仕方のないことだとわかっている。けれど、割り切れない。

 ルーカスが新しい側妃のことを愛したらと思うと、淋しくて仕方ない。

 ルーカスを一番愛しているのもルーカスに一番愛されるのも自分がいい。


 幼子が駄々をこねるように言い募るマリアンヌを思わず抱きしめた。抱きしめずにはいられなかった。


 ルーカスの腕の中でマリアンヌは、困らせるようなことを言ってごめんなさい、嫌いにならないでと、熱に浮かされるよう何度も何度も繰り返していた。

 涙に濡れたまつげさえ、愛しいと思った。

 ルーカスのことをすきだと言って泣くマリアンヌのことを、嫌いになれるわけがなかった。

 瞼に、頬に、柔らかなその身体のすべてに余すところなくキスを落としながら何度も何度も繰り返した。

 愛していると。

 マリアンヌのことが一番愛しい。

 他の誰を妃に迎えても、マリアンヌのことを誰より愛すると、互いの熱におぼれながら暴かれない嘘を吐いた。


 月明かりが差し込む暗い部屋の中、泣き疲れて眠ってしまったマリアンヌの頬に触れた。

 白い頬が薔薇より赤く染まることも、触れた肌が絹のように滑らかなことも、ルーカスを呼ぶ甘い声も、世界でただ一人、ルーカスだけが知っている。

 そのことが泣きたいくらい幸せで、どうしようもなくうしろめたい。


 愛している。

 嘘じゃない。

 マリアンヌは、ルーカスの救いの女神だ。

 彼女を愛し、彼女に愛されて、ルーカスは救われた。


 けれどルーカスが一番に愛しているのは、他の何を失っても失くしたくないと思っているのは、マリアンヌではない。

 そのことに、気付いてしまった。


 だってルーカスは、新たに側妃を迎えると決めたとき、マリアンヌのことを少しも思い浮かべなかった。

 アンジェリカが気にしないであろうことは予想しても、マリアンヌがどう思うかなんて、少しも。



 ―――新しい側妃なんて耐えられません

 ―――誰にも渡したくない

 ―――どうか、わたしのことだけを愛して……っ



 マリアンヌがそんなことを言うなんて、予想もしていなかった。

 彼女自身、側妃として嫁いできたのだ。他に側妃を迎える可能性も重要性も当然理解してくれているものだと思い込んでいた。


 だって、アンジェリカがそう(・・)だったから。


「……すまない……マリア……」


 泣き崩れるマリアンヌを見て初めて後悔した。

 新たな側妃を迎えることが避けられないとしても、もっとマリアンヌの心に気を配るべきだった。

 ちゃんと事前に話を通して、了承を得てから話を進めるべきだった。


 マリアンヌだって、ルーカスの妻なのだから。


「……愛している……マリア……」


 決して嘘ではないことばが、唇の上で空々しく響く。

 聞いているはずもないのに眠るマリアンヌがかすかに微笑んだ気がして、ルーカスはまた苦しくなった。



ー・ー・ー・ー・ー・ー



 第三皇妃として「後宮」に入ったブラッドリー公爵家の娘は、まだ十四歳の少女だった。

 城に上がる一週間前に本来輿入れするはずだった長女が事故死し、次女がその代わりとなったためだ。


 あまりの異例なことに戸惑うも、彼女の父親であるブラッドリー公爵に強引に押し切られた。

 他の適齢期の公爵令嬢や侯爵令嬢は皆、既に婚約者がいる。

 皇家の意向でその者たちを無理に婚約解消させては反感を買い、不信につながる。

 皇爵家の娘はその身分の高さから側妃にすることはできない。

 現状最もふさわしいのは自分の娘だ、と。


 今になって思えば、きっと公爵は自分の娘を「後宮」に送り込む機会を狙っていたのだろう。

 だから娘たちを婚約させずにいたのだ。第二皇妃(マリアンヌ)という前例ができた頃から、いずれは第三皇妃も、と目論んでいたのだろう。

 たとえマリアンヌとの間に子が産まれていても、何かと理由をつけて自分の娘を輿入れさせるつもりだったのだ。


 公爵の強引ぶりに呆れたが、本当に可哀想なのは娘たちだ。

 若くして命を落とした姉も、姉が死んで間もないのに両親の元を離れ十近く歳の離れた男の妻になることを強いられた妹も。

 きっとこれからやりたいこともたくさんあったはずなのに。二人のことを思うとやりきれない。


 セレスティア=ブラッドリーは、不思議な雰囲気をもつ少女だった。

 焔のような緋色の髪とぽってりとした紅い唇が印象的で、歳よりも幼い顔立ちをしているのに、歳にそぐわぬ妙な色気をまとっていた。

 どこか物憂げな碧の瞳は蠱惑的で、男女問わず周りの庇護欲を誘う。

 美術品のようなアンジェリカや神々しいまでのマリアンヌとは違う、確かに肉体を持ってそこに存在しているのだと思える肉感的な美しさがあった。

 もう数年もすれば間違いなく社交界をにぎわす存在になっただろう。


 とはいえまだ十四歳の少女だ。未発達な身体を暴くことには抵抗があった。

 互いの役目は十分理解しているが、それでもセレスティアは庇護されるべき未成年だ。

 体裁のため初夜だけは彼女の部屋を訪ねたが、身体を重ねることはなく、ただ同じ寝台で寄り添って眠った。

 腕の中で寝息をたてる幼気な少女のことが、憐れでならなかった。

 せめてこの子が憂い無く、心穏やかに暮らせるよう心を尽くそうと思った。


 初夜以降も、ルーカスとセレスティアの仲は清いままだった。

 彼女が望む物を贈ったり城下に連れ出したりはしたが、夫として彼女の元へ通うことはしなかった。

 ルーカスの頑なな姿勢に、一日も早い子の誕生を願う臣下たちは眉をひそめたが、まだ成人もしていないような少女に無体を強いるような真似はできない、身体と心が整うまで猶予を与えるべきだと説き伏せた。

 実際、あまりに若いうちの妊娠出産は母子ともに健康を損なう場合がある。

 彼女に皇妃としての役目を求める以上、万全を期することがルーカスの義務だ。


 それに大人びた外見に反し、セレスティアは少々歳よりも子どもっぽい面があった。

 それはマリアンヌのもつ奔放さとはまた違う、無知ゆえの無邪気さのようにも思えた。


 淑女としては未熟な少女の教育係は、同じ側妃のマリアンヌが務めた。

 第三皇妃を迎えると告げたときの反応を思えば心配な点もあったが、無理をしなくてもいいと言ってもマリアンヌ自身が大丈夫だと譲らなかった。

 聖女のように微笑むマリアンヌが何を考えているのかわからず、けれどそれ以上強く出ることもできず、結局は彼女の意向を尊重した。


 ルーカスの心配をよそに、セレスティアはマリアンヌによく懐いた。

 皇妃教育が終了してもよく二人でお茶をしていたようだし、ルーカスといるときもセレスティアの話の八割はマリアンヌのことだ。

 何でもセレスティア曰く、マリアンヌは美しくて優しくて淑やかで清らかで賢くて非の打ち所の無い完璧な淑女らしい。

 どうやらマリアンヌはセレスティアの前では随分上手く猫をかぶっているようだ。


 マリアンヌのことを「お姉さま♡」と呼び慕うセレスティアの姿は微笑ましくもどこかいびつだった。けれどこの「後宮」では何もかもが歪んでいるのだ。

 一度歪み始めたものは、きっと元には戻せない。

 少しずつ、気付かぬうちに壊れていく。


 そうしてある日、マリアンヌが爆発した。


 公務が予定よりも早く片付き、庭園でお茶をしていたマリアンヌをオペラに誘うも、居合わせたセレスティアにも声をかけたことが気に入らなかったのかへそを曲げてしまった。

 お二人で行ってきてください、と言って自室に下がったが、笑顔なのに目が笑っていなかった。

 セレスティアさえ気が付くほど機嫌が悪かった。


 とはいえこのときはルーカスも、いつものヤキモチだろうと軽く考えていた。

 意外と言うか何と言うか、結婚当初のルーカス()アンジェリカ(他の女)のことを尋ねるという遠慮の無さからは考えられないほど、マリアンヌは嫉妬深い。

 そして思い込みも激しい。

 普段の令嬢らしからぬカラリとした物言いからそういうことは気にしないタイプなのかと思っていたが、以前初めて彼女のことを「マリア」と愛称で呼んだときに烈火のごとく怒り出し、寝室を追い出されたことがあった。

 「どこの女と間違えているのですか!!」とドア越しに怒鳴られ、何が何だかわからなかった。

 結局、マリアンヌは実家で家族には「マリー」と呼ばれていたため「マリア」が自分のことだと気付かなかった、とのことだった。

 ナナメ上を行く理由に呆気にとられたのだが、無事誤解が解けて安心したし、そのときは、呼び方ひとつでそんなにも嫉妬してくれたことが嬉しかった。

 ルーカスが他の女を愛でることがそんなにも嫌なのかと、そんなのんきなことを考えていた。

 あの頃は、マリアンヌのそういうところが健気で可愛いと思っていたのだ。


 マリアンヌの様子がおかしいと思うようになったのは、第三皇妃を迎えることを告げてからだ。

 それまでの荒唐無稽の可愛らしい「ヤキモチ」などではない。

 次第に執着じみた嫉妬を見せるようになった。

 きっと、誰かからルーカスの行動を聞き出していているのだろう。

 ルーカスがセレスティアに会った日は、明らかにいつもと様子が違う。

 思いつめたような表情で、いつもより激しく求めてくる。


 ルーカスしか知らない可愛い妻は、ルーカスが教えたあの手この手でルーカスを翻弄し、自らも乱れる。

 惜しみない愛のことばを繰り返し、ルーカスからのことばを強請る。

 何度伝えても繰り返し繰り返し確かめる。

 「わたくしのことをすきですか?」と。

 だからルーカスも何度も何度も繰り返す。

 愛している、と。


 嫉妬深い女は面倒くさいし興醒めだと言う男もいたが、重苦しいほどのマリアンヌの嫉妬は、ルーカスにとって心地よいものだった。

 嫉妬に狂いルーカスを求める姿に、愛されているのだと実感できた。

 ルーカスもまた、歪んでいたのだ。

 縋り付く腕に、寄せられる唇に、震える白い喉に、胸の内では安堵と歓喜、それと仄暗い感情が澱のように沈んでいった。


 とはいえ、ルーカスももういい大人だし、以前の経験から懲りている。

 マリアンヌの嫉妬を煽るためにセレスティアを利用しようなどという下種なことを考えたりはしていない。

 マリアンヌを刺激しないようセレスティアとの接触は必要最低限にとどめているし、公務を除けばマリアンヌのことを最優先にしている。

 今回のオペラ観劇は本当に想定外のことだった。もちろんセレスティアにも悪気は無かった。

 嫉妬による執着がルーカスに向くのはかまわないが、敵意に変わりセレスティアに向くようになったら危ない。

 ルーカスにはセレスティアを守る責任があるし、マリアンヌが誰かを傷付けるようなことも耐えられない。

 そのため早めに弁明しなければ、と夜にマリアンヌの元を訪ねようと先触れを出したのだが、体調がすぐれないからと断られた。


 そんなことは初めてで、思わず侍女に何度も確認した。

 だが何度確認しても今夜は来るなの一点張りだった。

 これまでマリアンヌはルーカスの渡りを拒んだことはない。

 セレスティア関連で機嫌を損ねた日も夜の渡りには応じるし、月のもので伽ができない日でも傍にいてくれる。

 三日とおかずマリアンヌの元に通っているが、実際には寄り添ってただ眠るだけの夜も珍しくなかった。

 元々ルーカスはそう旺盛な方ではないし、身体をつなげなくても傍にいるだけで満たされていた。


 そのマリアンヌがルーカスの渡りを断るなんて、よほど具合が悪いのだろう。

 ということは、昼間の一悶着も嫉妬でへそを曲げたわけではない、ということか。

 確かにいくらふたりのデートを邪魔されたとはいえ、あの程度のことで怒るなんていくらなんでも狭量すぎる。

 マリアンヌらしくない。セレスティアがあまりにも心配するためルーカスももしや、という気になっていたが、杞憂のようだ。


 とはいえ体調がすぐれないのならまた違った意味で心配だ。

 その夜はゆっくり休むように申し伝え、翌日改めて再度先触れを出す。すると再び断られた。

 そこから更に三日連続で断られ、そんなにも体調が悪いのならと見舞いを申し出ると、それも断られた。

 部屋に城医が呼ばれているため具合が悪いのは確かのようだが、容態を訊いても見舞いは要らない心配しなくてもいいでも訪問はできない、と取り付く島もない。

 まさか言えないような病なのか、このまま会えずに死んでしまうのではないか。

 あんな喧嘩別れのような会話が最期だなんてあんまりだ。

 もういっそ強行突破してしまおうか。

 嫌われたとしてもこのまま二度と会えないよりはましだ。

 いや、やっぱり嫌われるのは嫌だ、とルーカスが思い詰めて思い余りそうになった頃、マリアンヌの懐妊を告げられた。


 予想外の妊娠に驚いたが、嬉しくないわけがなかった。

 子どもができなくてもマリアンヌがいてくれればそれで十分。そう思っていたのは本当だけれど、それはそれとして、やはりマリアンヌとの子どもが生まれることは素直に嬉しかった。

 男の子でも女の子でもどちらでも、無事に生まれてくれればそれでいい。

 アデルバートが生まれるときにはできなかったことを何でもしてやりたいと思った。


 けれど浮かれるルーカスとは対照的に、マリアンヌは日に日に憔悴していった。

 元々白い肌は血の気が引いていっそ蒼いほどだし、食事もあまりとらなくなった。起き上がることもつらいのか、一日寝て過ごすこともある。

 そして何より、妊娠前とは別人のように苛々していることが増えた。何が気に入らないのか、すぐに怒り、声を荒げ、泣き出してしまう。

 「そんなに興奮してはお胎の子に障る」と宥めれば、「陛下はわたくしよりもお胎の子の方が大切なのですか!?」と大泣きされた。

 あまりの理不尽さに、腹が立つより途方に暮れた。

 どうすればマリアンヌの逆鱗に触れずに済むのかわからなかった。



ー・ー・ー・ー・ー・ー



「子を身籠っている間の女は、情緒が不安定になりますからね」


 淡々と言う妻は、子を産んだ一児の母でありながら相変わらず美しい。彼女自身が美術品のようだった。


 マリアンヌの懐妊がわかってからも、月に一度アンジェリカの元に通い続けていた。

 そのことがマリアンヌの苛立ちを増幅させていることはわかっていたが、どうしようもなかった。


 一方でアンジェリカは月初めのマリアンヌとの定例報告会は控えているらしく、彼女の方からマリアンヌの様子を訊いてきた。

 もはや予想通りだが、マリアンヌがルーカスの子を身籠っていることに関しては、特に何も思っていないようだった。


 起き上がれない日が多いし、常に気が立っているみたいだと告げると、医師や侍女にも言われた一般論を返された。


「……君も、アデルを身籠っていたときはそうだったの?」


 ルーカスの第一子、アデルバートを産んだのはアンジェリカだが、ルーカスは彼女がアデルバートを身籠っていることさえ知らなかった。

 当時帝国は隣国との戦争真っただ中で、ルーカスが出兵し、帰ってきたら生まれていたのだ。

 ルーカスの帰還を出迎えたアンジェリカが見知らぬ赤子を抱いた侍女を伴っていたことで初めて知った。


 あのときの衝撃を思い出すと、今でも胸が苦しくなる。

 あのとき言われたアンジェリカの言葉が、今も胸に棘のように刺さって抜けない。

 悪意のない言葉があれほど人を傷つけるのだと初めて知った。

 あの日の傷は、癒えるどころか膿んだようにふとしたときに疼き出す。


 ただ今は、あの頃とは少し違う痛みがルーカスの胸を襲った。


 あれ以来ふたりの間には埋まることのない溝が生じてしまったため、アンジェリカに妊娠中の話を改めて聞いたことはなかった。

 だが彼女のことだ。どうせ感動も不都合も無く淡々とこなしていたのだろうと、少なくともルーカスはそう思っていた。


 しかしルーカスの予想に反し、アンジェリカは少し考えるような――当時を思い返すように視線を巡らせたあと、口を開いた。


「いえ……むしろわたくしは、つわりの方が酷かったでしょうか」

「つわり……」

「初めのうちは何を食べても受け付けず、水を飲んでも吐いてしまうほどでした。ようやく少し食べられるようになっても、匂いの強いものは食べられませんでしたね」

「……」

「……何です?」


 淡々と当時の状況を語るアンジェリカにたまらなくなり思わず抱きしめると、アンジェリカは不思議そうにルーカスを仰ぎ見た。


 そんな思いをして、子どもを産んでくれてありがとう。そんなつらいときに傍にいてあげられなくてすまない。


 どちらを伝えてもきっと、アンジェリカはやはり不思議そうな表情しかしないのだろう。

 子を産むことが正妃の役目なのだから、どうして礼を言われたり謝られたりするのか、彼女には理解できないのだ。


 この四年間で、幾度となく思い知らされた。

 アンジェリカがルーカスを少しも愛してなどいないこと。

 ルーカスには皇帝としての役割を求め、自身は正妃としての役目を果たしているに過ぎないこと。


 それでもルーカスは、アンジェリカを愛していること。

 傷ついても傷つけられても、アンジェリカを失いたくない。


「……アンジェ」


 名を呼び、紅の無い唇に自らのそれを寄せる。


 いつもこうだ。

 アンジェリカを前にすると、封じたはずの想いが堰を切ってあふれ出す。

 鍵をかけて仕舞ったはずなのに。自らに立てたはずの誓いがいとも簡単に破れてしまう。


「ぁ……」


 驚きながらも、アンジェリカはそれを拒まない。

 夜着を暴き肌を辿る手に、身を任せる。それが彼女の役目(・・)なのだから。


 愛しても、求めても届かない。

 どうしようもなく空しくなる。

 どうすれば満たされるのか、ルーカスにはわからなかった。


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