Ⅸ.マリアンヌ=ランス=ジュエリアル
前回更新分から半年ほどたったくらいのお話です。
フィオナ=ブラッドリー公爵令嬢がお亡くなりになりました。
冬の星のようにしんとした声でアンジェリカから告げられ、マリアンヌは言葉を失った。
アンジェリカの口から出てきた名前は、マリアンヌにとっては多少の耳なじみはあるものだった。
フィオナ=ブラッドリー。褐色の髪に碧い瞳をした物静かな少女で、アカデミーでは同輩だった。
同じ公爵令嬢として何かと比べられることは多かったが、マリアンヌは当時、彼女のことを特別好きでも嫌いでもなかった。
フィオナはアカデミーに首席で入学し、卒業までずっとその座をキープしていた才媛だったが、彼女自身はそれを鼻にかけるようなこともなく、どちらかと言えば控えめな性格だった。
ブラッドリー公爵家に取り入ろうとする取り巻きの少女たちをさりげなくかわしたり宥めたり、波風立てないよう上手く立ち回っていた。
周囲をよく見ることのできる、本当の意味で頭がいい人、だったのだろう。
何度か言葉を交わしたこともあるが、穏やかな声は耳に心地よく、きっと本当の淑女とはこういう女性のことを言うのだろうと思った。
その彼女が亡くなったと聞かされ、動揺を隠せない。
「どうして……」
「事故だそうです。詳しいことはまだ調査中とのことです」
「そんな……」
「妃殿下とはアカデミーでご一緒だったそうですね。まだお若いのに……おいたわしいことです」
そっと視線を落とすアンジェリカの言葉が本心かどうか、その表情からは読み取れない。
そもそもこの人にも、他者の死を悼む心はあるのだろうか。そう疑ってしまうほど、アンジェリカは何事にも動じない、愛や情というものを理解しない、氷のような心の持ち主だと思っていた。
けれどきっと、薄情さで言えばマリアンヌも同じだ。
「……代わりの第三皇妃は……どなたになるのですか……?」
アカデミー在学当時、マリアンヌはフィオナのことを好きでも嫌いでもなかった。
けれど今現在――少なくとも先ほど訃報を聞くまでは――彼女の存在はマリアンヌにとって脅威であり、疎ましく思っていた。
卒業後に彼女との関係が変化したわけではない。
理由はただ一つ。
彼女がルーカスの新たな側妃に選ばれたからだ。
ルーカスから新たに側妃を迎えることになった、と告げられたのは半年前のことだった。
正直、覚悟はしていた。
結婚して一年半が経っても、マリアンヌとルーカスとの間に子はできなかった。
側妃の役目は、子を産むこと。身分的に正妃になれない恋人を愛妾ではなく側妃とする者もいるが、マリアンヌの場合は間違いなく正統な側妃だ。
何しろ初対面で「愛するつもりはないが子は産んでもらう」という旨の宣言をされたのだから。
紆余曲折ありルーカスの寵愛を得ることはできたが、子を産む必要があることに変わりはない。そのための側妃なのだから。
ならば当初の役目が果たされない以上、別の側妃を新たに迎えることはごく自然であり当然のいきさつだ。
不実でも裏切りでも何でもない。
けれど納得できても、平気ではいられなかった。
ルーカスが他の女を抱くなんて、許せるはずない。
嫉妬で、気が狂いそうだった。
泣いて喚いたところで覆るわけもなく、どうすることもできなかったのだけれど。
そんな散々泣いてハンナや侍女に当たり散らして、ようやく自分の中で折り合いをつけた矢先の訃報だった。
かつての同輩の死を悼む気持ちはある。側妃でなくなるのなら、フィオナを嫌う理由などマリアンヌには無いのだ。
しかし裏を返せばそれは次期側妃でないフィオナに関心など無いに等しいということ。
フィオナに代わる新たな側妃が選定されるのか、その選定はもう終わったのか、輿入れするとなるといつになるのか、それまでにまだ猶予はあるのか。
マリアンヌが気にしているのはそれだけだ。正直、フィオナの死因などどうでもいい。
驚いたし気の毒だとは思う気持ちはあれど、それだけだ。
どんなに嘆いても悼んでも、死んだ人は戻らない。
「……フィオナ嬢の妹君のセレスティア嬢に決まりました」
「は?え、妹君って……」
「この間十四歳になったばかりだそうです」
「そんな……」
十四歳と言えば、成人どころかデビュタントすらまだ終えていないはずだ。
高位貴族の令嬢ほど初婚年齢は若く、アカデミー卒業後すぐという者も珍しくないが、それにしても十四歳とは異例だ。
しかも、姉の代わりに妹を、だなんて。
「陛下は最後まで反対しておりましたが、ブラッドリー公爵の強い意向により……」
「そんな……」
「他の公爵家から、となるとキャヴェンディッシュ家の御三女が十歳、ゴードン家の御長女が八歳ですから、その中ではセレスティア嬢が最も適任、というのが公爵閣下の主張だそうです」
それならば側妃の輿入れ自体をもう少し待ってはどうか、という喉まで出かけた進言を何とか飲み込む。
ではその間にお前が皇子を産めるのか、と訊かれては何も答えられない。
マリアンヌができなかったからこその「新たな側妃」なのだから。
マリアンヌが「後宮」に入って数ヶ月ほどした頃から、毎月決まって月初めにこうしてアンジェリカによって呼び出され、二人でお茶を飲むようになった。
マリアンヌが「後宮」を取り仕切るようになって始まったお茶会と称した報告会だ。
毎月アンジェリカから対面で、近々の公務のスケジュールとルーカスの予定、その月の「後宮」内の予算、侍女たちの新規雇用と退職の予定を告げられ、マリアンヌの方からは「後宮」内の改善点を伝える。
建物の老朽化や修繕が必要な箇所、人員の配置などの要望が一旦マリアンヌのところに上がってくるため、取捨選択してマリアンヌが取りまとめるのだ。
そのほかにも、マリアンヌ自身の要望があれば申請してもかまわない。
マリアンヌが皇家の公の行事に参加することはないが、私的な社交、個人的に「宮廷」内のサロンで茶会を開いたり城下へ観劇や物見に出かけることは認められていた。
そして毎回、報告会の最後にアンジェリカが「妃殿下にはまだ子ができないのですね」と呟く。
初めて言われたときは何を言われたのかすぐには理解できず、理解したあとは目の前の涼しげな顔に熱い茶をぶっかけてやりたくなった。
「焦っても仕方のないことです」と淡々と言われて、彼女に悪意が無くむしろ慰めようとしていることに気付いたが、気なんて晴れなかった。
サファイアブルーの瞳に見つめられると、責められているような、役立たずと詰られているような心地になる。
自分だって、月に一度ルーカスと夜を過ごしていながら第二子を授かる気配もないくせに。
そう喚き散らしてやりたい。けれど実際にアンジェリカがもう一人産むことになったら、マリアンヌは今度こそ本当に役立たずの用済みだ。
否、きっともう、アンジェリカ的にはマリアンヌは用済みなのだろう。
だからこそ新しく側妃を迎えることにしたのだから。
「花嫁が変更になるなど前代未聞ですが、くれぐれも皇家に不信を他の貴族たちに抱かれないよう、夫人方への対応をお願いします。特に、他の三公爵家への対応は慎重に」
「……かしこまりました」
心の中で渦を巻くあらゆる感情を抑え見込み、諾の答えを返す。
皇家がブラッドリー公爵家の言いなりになっている、などという印象を与えるのはよくない。
「取扱注意」の対象にマリアンヌの生家であるランチェスター公爵家も含まれているのは、アンジェリカにとってマリアンヌが既に皇家の人間だと認められているということで、何やら複雑でもあった。
「それからもう一つ、セレスティア嬢の皇妃教育を妃殿下にお頼みしたいと思っております」
「わたくしに……?」
「えぇ。側妃としての心得を教授できるのは、妃殿下だけですから」
どうしてこの女は、マリアンヌの神経を逆撫でするのが上手いのだろう。
もはやわざとなのでは、と思うほど、アンジェリカは毎回マリアンヌの地雷を正確に踏み抜く。
後ろで侍女が青ざめていても、本人は気付いた様子もない。
彼女にしてみれば、事実を事実として言っているだけなのだろう。
側妃の気持ちなど、正妃のアンジェリカにはわからないのだ
「……なぜ……急に……?」
「本当はフィオナ嬢のときも妃殿下にお任せしようと考えておりましたが、アカデミーでの同級生同士では何かと不都合もあるでしょう、とディルク卿が」
「……」
「もしかして、セレスティア嬢とも面識がおありでしたか?」
「……いえ……」
そもそもカーティスの言う「不都合」とは、面識がどうとかいうことではない。
同じ男の妻になる女同士、顔を合わせてもろくなことにならないからだ。
マリアンヌだって、本当はアンジェリカとは会いたくない。皇妃としての公務のために渋々顔を合わせているだけだ。
それは相手が旧友だろうとその妹だろうと大差ない。
この先ルーカスの子を産むかもしれない女など、マリアンヌにとっては脅威であり嫉妬の対象でしかないのだ。
どうしてアンジェリカにはそれがわからないのだろう。
「……わたくしが、ブラッドリー嬢に何かよからぬことをしでかすとはお考えにならないのですか」
仮面が、剥がれ落ちていく。
昏い感情が胸の中で広がって、消えてくれない。
アンジェリカの顔を見れなくて、視線をそらしたまま尋ねると、返ってきたのはやはり感情の乏しい澄んだ声だった。
「そんなことをして何になるというのです。
ブラッドリー嬢を排したとて、別の娘が側妃として召し上げられるだけです。それにもし、新たな側妃を迎えることをやめたとしても、妃殿下に子ができるわけではないでしょう」
「―――っ」
「貴女はそんなこともわからないような愚かな人間ではないでしょう」
揶揄や挑発などではなく、ただ淡々と、真実だけを述べる声。
けれどきっとマリアンヌは、アンジェリカが考えているよりずっと愚かな人間だ。
「……正妃殿下はいつも、正しいですね」
「……?」
「だからでしょうね。陛下が正妃殿下といると息苦しいっておっしゃるのは。……つらいって、いつもおっしゃってます」
すぐにばれる嘘を吐いた。
そんな話、ルーカスから聞いたことはない。マリアンヌが勝手に思っているだけ。わかってしまうだけ。
ルーカスが苦しんでいること。
アンジェリカのことを愛しているから、愛されなくてつらいこと。
どうしてマリアンヌでもわかることを、アンジェリカはわからないのだろう。
責めるようなマリアンヌの言葉に、アンジェリカは眉一つ動かさない。
代わりに薔薇色の唇をそっと開いた。
「……だから陛下はわたくしのことを避けておいでなのでしょうね」
「……っ」
「わたくしといると心休まらないというのなら、遠ざけられても仕方のないことです。わたくしをお傍に置くも置かぬも、陛下の御心ひとつなのですから」
そこに自分の意思など関係ないと言わんばかりの言い方だ。
そういうアンジェリカだからこそ、マリアンヌにも同じことを強いてくるのだろう。
側妃同士の嫉妬などにこだわらず、ただただルーカスのために尽くせと。
冗談じゃない。マリアンヌはそんなのごめんだ。
「正妃殿下はどうしてもっと、陛下に寄り添ってさしあげないんですか!?どうして陛下が哀しんでるとか、陛下が本当は何を望んでいるのかとか、もっとちゃんと考えてあげようとか思わないんですか!?」
「陛下のことを理解しようなどと、畏れ多いことです」
「―――っ」
「それに陛下に寄り添うことはもう、わたくしの役目ではありません」
「そんな……っ」
「もう、よろしいでしょうか妃殿下」
なおも言い募ろうとするマリアンヌを遮ってマリアンヌは言い、ふう、と珍しくため息を吐く。まるで聞き分けのない子どもに呆れたように。
「皇妃教育の件、不満ならば断わってくださってもかまいません。急な話ですし……」
それはマリアンヌへの気遣いというよりもむしろ、感情を露わにし声を荒らげたことへの失望だったのかもしれない。
役目よりも感情を優先させるような側妃は、側妃としてふさわしくないと。
けれどでは、皇帝の心に寄り添うことが正妃の役目ではないとしたら、誰がその役を担えばいいのだろう。
誰からも理解されない、誰ともわかり合えないなんてそんなの、ルーカスが可哀想だ。
「……いいえ。わたくしがお引き受けします、正妃殿下」
「……」
「必ず正妃殿下の御期待に応えてみせます。お任せくださいませ」
「……では、よろしくお願いします。詳細は追ってディルク卿よりお伝えいたしますので」
「はい」
「では今日はこれで……」
「最後にひとつよろしいですか」
「……何でしょう」
「ひとつ教えてください。正妃殿下は、陛下のことを愛していらっしゃらないんですか?」
初めてアンジェリカの眉がピクリと動いた。
そこに一瞬だけ、不快でも疑問でもない動揺を見た。
「……わたくしは、陛下を、この国を愛しています。陛下の築いた安寧の世を守っていくことが、皇妃としてのわたくしの使命なのですから」
常と何ら変わらない涼やかに応えた声には、情も熱も感じられなかった。
ただそうあるべき模範解答のようで、空虚だった
【本編では出てこなかった設定】
貴族同士の結婚は、家格が近い家同士でないとできません。
基本的に正妃になれるのは侯爵令嬢まで、伯爵令嬢は側妃にしかなれません。
一方皇爵令嬢は正妃にしかなれません。
既に正妃がいるのに皇爵令嬢を皇妃に迎えたい場合、正妃を廃妃しなければいけません。
正妃と側妃の生家の家格が逆転することも基本的には許されません。
皇帝がゴネれば許さざるを得ませんが、めったにないことです。




