Ⅷ.ルーカス=ジュエリアル
前半部分は時系列的に言えば「Ⅲ.ルーカス=ジュエリアル」と前回更新分の間の回想、後半部分は前回更新分の1年後ぐらいのお話です。
直接的な描写はありませんが、閨事を匂わせる表現があります。
マリアンヌは、妙な少女だった。
社交界の花と謳われるだけあって淑女としてのマナーは完璧で、容姿の愛らしさを存分に引き立てる天使のような笑顔で周りを魅了し、巧みな話術で相手を夢中にさせてしまう。
古参の大臣たちやルーカスの生母である皇太后の前でも物怖じすることなく、けれど決して生意気とは映らない淑女として完璧な「社交」をこなす。
誰もが彼女を褒めそやし、淑女の中の淑女と讃える。
けれどルーカスにとってマリアンヌは第一印象の通りずっと「変な女」だった。
ルーカスに愛されたいと言うくらいだから従順に振る舞うのかと思っていたのに、本性がばれたからと開き直ったのか、全然そんなことはなかった。
楽しいと笑うし、腹が立つと怒るし、疑問も不満も要望も感謝もすべて口にする。
「正妃殿下ってどんな御方ですか?」と訊かれたときは心底気まずかった。
どうしてそんなことを訊くのかと逆に問うと、「陛下の好みが知りたくて」とあっけらかんと言われた。
「正妃殿下のどういうところがおすきなのですか?」と訊かれたときは本当に、勘弁してほしかった。
淑女はもっと、回りくどいことが好きなのだと思っていた。
腹芸が得意で、婉曲表現ばかりして。
マリアンヌのようにド直球な人間、見たことない。ルーカスの知る誰とも違う。
ともに過ごす時間が長くなってきた頃、初対面のときの失言を咎められたことがあった。
「あぁいった言い方をされるととても哀しいです」と言われると、「すまない」としか言えなかった。
ルーカスの発言がマリアンヌを哀しませていたなんて予想もしていなかったから、言われて初めて申し訳ないと思った。
「仕方ないから許してあげます」と言われて、ほっとした。
誰かに苦言や諫言ではなく「文句」を言われたのは初めてだった。
けれど本来、「夫婦」とはそういうものなのだと言う。
嬉しいこと、哀しいこと、楽しいこと、苦しいことを共有して、笑い合って、いっしょに泣いて。
そんな夫婦になりたいと、マリアンヌは言った。
陛下はどんな夫婦になりたいですか、と訊かれて、驚いた。
マリアンヌがちゃんとルーカスのことを知ろうとしてくれていることにも、それが嬉しいと思ったことにも。
皇妃教育期間の三ヶ月はあっという間に過ぎて、四月の半ば、婚礼式を挙げた。
祝賀パレードを済ませ披露宴を終えると、待っていたのは皇帝と皇妃としての初夜だ。
正式に側妃として迎えた以上、子を産んでもらう必要がある。
とは言え、「愛するつもりはない」と宣言した手前、それを撤回しないまま――情も無いまま肌を重ねてもよいものかとためらわれた。
カーティスに言えば何を今更、とねちねちと説教が始まりそうだが、出逢ったときと今では、確実にルーカスの気持ちは変化していた。
マリアンヌといると楽しい。
突拍子の無い言動に驚かされてばかりだが、振り回されるという体験は新鮮で悪くない。
何より彼女自身が見ていて飽きない。
飾らない笑顔が可愛いと思うし、彼女の隣でならルーカスもありのままの自分でいられた。
一緒にいて心地よいと感じる人間は初めてだった。
だが、ではマリアンヌのことを愛しているのか、と訊かれるとわからなかった。
冷たくされても興味をもたれていないとわかっても、ルーカスはアンジェリカを愛していた。
アンジェリカに言われたらきっと、マリアンヌを廃妃にすることさえ厭わない。
彼女が望むならどんなことでもできる。
どうしても、どうしようもなく、アンジェリカのことがいとしい。
こんな身勝手なルーカスが、ちゃんとした「夫婦」になりたいと言ってくれるマリアンヌに触れる資格があるだろうか。
などと、悶々と思い悩むルーカスよりもマリアンヌの方がよほど男らしかった。
それはそれ、これはこれです、とルーカスをベッドに引きずり込んだ。
悩んでたって仕方ないです腹をくくってくださいさぁ!と潔い姿に、正直若干引いた。
裏表の無い思い切りのよさが彼女の魅力ではあるけれど、それにしたって、淑女としての慎みはもっていてほしい。
―――などと、思っていたのだけれど。
いざ実際にベッドに入ると、見る見るうちに彼女の威勢は失われた。
夜着を脱がそうとすると真っ赤になって拒み、どこを触れても甘い声を上げ、そのことを恥じらい涙目になって我慢しようとする姿は正直、たまらなかった。
先程までの積極的な姿も虚勢を張っていただけかと思うといじらしく思えた。
もはやこんなに可愛くて大丈夫かとさえ思った。
極めつけは事後の「話には聞いていましたが、こんなにすごいんですね……」という放心状態での感想だ。
始める前とのギャップに、もはやルーカスのライフはゼロだ。
世の中の政略結婚の夫婦の大半がどうしてそれなりにうまくいっているのかわかった気がした。
ゲンキンだと言われても仕方ないかもしれないが、何だかんだと取り繕ったところで肌を重ねれば情も湧く。昨日よりも可愛く見える。いとしく思える。
またシてくださいねと恥じらうように囁かれて、ルーカスは完全に落ちた。
愛するつもりはないと告げた相手に恋をするなんて、思ってもみなかった。
マリアンヌは、何もかもがアンジェリカとは違っていた。
素直で、奔放で、思い切りがよくて、ルーカスのことをすきだと言ってくれた。
自分の夫がルーカスでよかったと言って泣いてくれた。
ルーカスだって莫迦ではないのだから、マリアンヌの言葉すべてを真に受けたわけではない。
彼女には彼女なりの考えがあってルーカスの手をとったということくらいはわかっていた。
彼女にはきっと人に言えない事情があって、彼女自身の目的のためにルーカスを利用していたのだろう。
けれどそんなのは、彼女をすきにならない理由にはならなかった。
すべてが真実でなくても、ルーカスにくれた安らぎや喜びは、本物だったから。
名前を呼ぶと、微笑んでくれる。抱きしめると、抱きしめ返してくれる。
ただそれだけのことがどうしようもなく嬉しくて、幸せだった。
マリアンヌに出逢えたことに感謝した。
そんな幸せな日々に影が差したのは、結婚して一年と半年ほどが経った頃のことだった。
毎晩のようにマリアンヌの元で過ごしているのに、一向に子ができる気配がなかった。
臣下たちの間で囁かれている声がマリアンヌの耳に入っていたかどうかはわからない。
ただルーカスの元には、新たな側妃――第三皇妃を迎えるよう進言する声が届いた。
届け主は、アンジェリカの実父であるサルヴァドーリ皇爵だった。
これが他の大臣や実母の皇太后であればつっぱねることもできたかもしれない。
けれどほかでもない舅であり次期皇太子の祖父である皇爵の言葉を、無下にはできなかった。
私利私欲などではない、世継ぎのこと、国のことを何より考えての言葉だったということは、痛いくらいに理解していた。
皇爵は、自分の娘の産んだ子が病弱なことを憂いていた。
皇家には、病弱な者が生まれやすい。直系であればあるほどその傾向は強かった。
ルーカスの父である先帝ヴィンフリートも幼い頃から身体が弱かったらしい。
ルーカスの記憶の中の父はいつも青白い顔をしていた。
ほとんど戦場に出たこともなく一日の大半をベッドの中で過ごしていた父は、ルーカスの知るどの大人の男よりも美しく儚げだった。
一人息子のルーカスのことを可愛がり大事にしてくれたけれど、ルーカスは子ども心に父の華奢な腕に抱かれることが怖かった。
父を壊してしまうのではないかと、そのことを母に咎められるのではないかと、恐れていた。
結局父の身体は皇帝としての激務に耐えられず、ルーカスが成人を迎える前に還らぬ人となった。
一度も戦で剣を振るうことなく、寝台の中で愛する妻に看取られて逝った。
ヴィンフリートは賢君だったが、名君ではなかった。
そう語る皇爵の表情からは、侮蔑の感情は読み取れなかった。
父を侮辱するはずの言葉に腹が立たなかったのは、父の名を呼ぶ皇爵の声が幼い頃ルーカスを呼んでいた声色によく似ていたせいかもしれない。
皇爵は、父の従弟に当たる。
皇爵の父が先々帝の異母弟であり、臣籍降下してサルヴァドーリ皇爵家を興したのは皇爵が十二歳のときだったらしい。
それまでは皇爵は皇族として暮らし、伯父にあたるルーカスの祖父――先々帝にも可愛がられていたのだという。
きっと皇爵は、先々帝のことが好きだったのだろう。
皇爵の語る理想の君主の姿はいつも、ヴィンフリートではなく先々帝だった。
皇爵はルーカスが幼い頃からずっと、彼のように強くあるよう説いた。
弱い皇帝は、国を乱す。
乱れた世を正すこと、築いた安寧を未来永劫保つこと。
それが強き皇帝の使命であり宿命なのだとことあるごとに言い聞かされた。
そして人の上に立つ、国を統べる者として、時に非常な決断を下さなければいけないこともある。
一個人の感情や感傷を優先すべきではないと、何度も何度も言い聞かされた。
アンジェリカと同じサファイアブルーの双眸に射抜かれ、ルーカスが逆らえるはずなどなかった。
第三皇妃を迎えると決めたルーカスはまず、アンジェリカに報告することにした。
きっとアンジェリカは少しも気にしないのだろうけれど、他の誰かから聞かされるよりも先に自分の口で伝えるべきだと思った。
公務として執務室に呼びつけるのではなく、夜半のプライベートな時間にアンジェリカの部屋を訪ねた。
きっとまだ、心のどこかで皇妃としてではなく妻として聞いてほしいと思っていたのだろう。
つくづくあきらめの悪い男だ。
前回の訪れから五日と経っていない夫の訪れを、アンジェリカは怪訝に思っているようだった。
夫が妻の部屋を訪ねたのに「何かございましたか」だなんて、妙な質問だ。
マリアンヌを側妃に迎えて以降、アンジェリカの元へ通う足は遠のいていた。
第二皇妃との子作りに専念するためとかランチェスター公爵への配慮とか周りはいろいろ噂していたけれど、ただ単純にマリアンヌの傍が心地よかっただけだ。
愛していても――愛しているから、アンジェリカといるとつらくなる。
愛されていないことを思い知らされてむなしくなる。
だからマリアンヌの元へ逃げた。マリアンヌの与えてくれる無償の愛におぼれていた。
それでも正妃としての彼女の面子のためだとカーティスからも言い含められ、月に一度はアンジェリカの元にも通うようにしていた。
側妃に夢中になり正妃をないがしろにしているなどという噂が立ち、アンジェリカの立場が悪くなるようなことはルーカスも避けたかった。
髪をほどき夜着に着替えたしどけない妻の姿に、今夜はそんなことをしに来たわけではないというのに、ルーカスの身体には熱が籠った。
何年経ってもアンジェリカはこんなにもルーカスを揺さぶる。彼女の前ではいつも平静でいられない。
マリアンヌのことを愛しく想う一方で、アンジェリカへの想いを断ち切れない自分の未練がましさが嫌だった。
煩悩を振り払い第三皇妃を迎えるようサルヴァドーリ皇爵から進言があったと伝えると、アンジェリカは少し考えるようなそぶりを見せたあと、「左様でございますか」と受け入れた。
それは二年前に側妃を迎えようと思う、と伝えたときとまるで同じ反応だった。
要望や候補はいるのかと言われ、何のことだかすぐにはわからなかった。
「候補」はともかく「要望」とは、と考え、ルーカス自身が側妃に迎えたい女がいるのかと訊かれているのだと思い至った。
この女はいったい、何度ルーカスの心を傷つければ気がすむのだろう。
他の女を妻に迎えることを、寵愛することを、責めてもくれない。
夫としての愛情など微塵も求めていない。
酷い女だと思った。
万事君に任せるよ、というルーカスの言葉に承知しました、と答えたアンジェリカをその夜抱いたのは、完全なる八つ当たりであり腹いせだった。
【おそらく語られない人物設定】
読み飛ばしても大丈夫です!
■ヴィンフリート=ジュエリアル
・第四十七代皇帝 ルーカスの実父
・生まれつき病弱で、政はほとんど側近に任せていた
・出兵しても実際に戦場に出ることはなく、指揮を執るのみ
・ルーカスが十七歳のとき病死
■ベアトリス=カレン=ジュエリアル
・皇太后(先代正妃) ルーカスの生母
・カレンベルク皇爵家出身でヴィンフリートとはいとこ同士(父親がヴィンフリートの父親(先々帝)の異母弟)
・本編軸でも存命で、帝都内の離宮で暮らしている
■ディートリヒ=サルヴァドーリ
・サルヴァドーリ皇爵(二代目) アンジェリカの実父
・ヴィンフリートとはいとこ同士(父親がヴィンフリートの父親(先々帝)の異母弟)
・ベアトリスともいとこ同士(父親がベアトリスの父親の同母弟)
■アマーリエ=サルヴァドーリ
・サルヴァドーリ皇爵夫人 アンジェリカの生母
・バルシュミーデ侯爵家出身
■エルマー=ハル=ジュエリアル
・皇太子 ヴィンフリートの異母弟
・アデルバートの立太子後は臣籍に下る予定(本編軸ではシュミーデル皇爵)




