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夢のあと  作者: 緋桜
第一章
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E.C.1019.05-1


 神の姿を模した像とともに荘厳な十字架を戴く大聖堂の中に、佇む一人の男の姿があった。


 まるでそれ自体が輝きを放っているかのように眩い金糸の髪。澄みきった夏空のように蒼い眸。気品漂う端正な顔立ち。服の上からでもわかる、鍛え上げられた均整の取れた体つき。

 ステンドグラスから差し込む光の中に立つその姿は、まるで一枚の絵画のように美しく、どこか神秘的ですらあった。


 青年の名は、レオンハルト=ランス=ジュエリアル。

 髪の色になぞらえた「金の皇子」の二つ名を持つ、この国の第二皇子だ。


 水を打ったように静かな大聖堂の中、レオンハルトは一人、神の像を見上げる。

 祝福と平穏をもたらす、「約束の女神」。畏敬と崇拝、信仰を込めて民は「彼女」をそう呼ぶ。

 千年の長い時間、この国の歴史を見守ってきた女神の眸は、すべてを赦し、受け入れ、愛するかのように美しい。


 けれどその愛は、レオンハルトだけには降り注ぐことはないのだろう。


 十六の夏、レオンハルトは罪を犯した。

 罰せられることのない、けれど赦されることもない、一生消えない「罪」を負った。

 あの日から、レオンハルトの地獄は始まった。


「こちらにいらっしゃいましたか。殿下」


 過ぎ去りし日々に、自らの罪に想いを馳せるレオンハルトの思考を、涼やかな声が遮った。

 振り向くと、大聖堂の入り口に燃え盛る焔のように真っ赤な髪とエメラルド色の瞳をした女が立っていた。


「君は……」

「お久しゅうございます、レオンハルト皇子殿下」


 そう言って女は纏うドレスの裾をつまみ、優雅に一礼してみせる。流れるように美しい、洗練された所作だった。


「……驚いたな」

「はい?」

「『騎士姫』と謳われていた君がこんなにも美しい淑女(レディ)になってしまったと言うのだから本当に、時間の流れには驚かされる」

「……そのような……昔のこと……」

「気を悪くさせてしまったのなら謝るよ、キャロライナ(プリンセス・)王太子妃殿下(キャロライナ)

 そうだね。君は『騎士姫』と呼ばれていた頃から、十分に美しかった」

「……相変わらず、お上手ですこと」


 軽く伏せられた長いまつげは、はにかんでいるようにも、困っているようにも見える。うっすらと朱に染まった目尻が、何とも言えず婀娜っぽい。

 それはかつて彼女が「騎士姫」と呼ばれていた頃には、決して見せなかった表情だ。

 齢を重ね女として成長した彼女は、共に暮らしていた頃とは随分と印象が異なる。


 けれど、相変わらず美しい。

 切れ長の涼しげな目元にすらりとした柳眉、すっと通った鼻梁、薔薇色の頬、形のよい肉厚的な唇、どれをとっても美女と評して申し分無い造作だ。

 更に女性特有の丸みを帯びた身体のラインに、鍛え上げられたしなやかな四肢。両極にあるはずの二つの線を合わせもつ彼女は、女性としても武人としても美しく、凛々しい。

 若い頃――少女時代は「騎士姫」と渾名されていた彼女は、生まれたときに授かった名をキャロライナ=ブレイド=ジュエリアルという。

 かつては髪の色になぞらえた「(あか)の皇女」の二つ名を持つジュエリアル帝国第一皇女であり、レオンハルトにとっては異腹(ことはら)――母親の違う妹に当たる。


 この国の婚姻制度は一夫一妻制だが、皇帝のみ複数の妻をもつことが許されている。

 もちろん長いジュエリアルの歴史を紐解けば単婚の皇帝も皆無ではないが、現在の皇帝は今までに六人の妃を迎えている。

 もっとも、レオンハルトの生母を含めた二人の皇妃は既に他界していたが。


 レオンハルトの生母である第二皇妃のマリアンヌは、レオンハルトを産んで間もなく還らぬ人となった。

 そして生母の死後、まだ幼いレオンハルトの後見人を務めたのがキャロライナの生母である第三皇妃だった。

 そのため、レオンハルトとキャロライナは同腹の兄妹のように育った。

 否、まるで()()のように共に学び互いに競い合った。


 キャロライナの父親譲りの美貌は可憐というよりもむしろ凛々しく、またその外見に即した性情の持ち主でもあった。

 兄弟の中で最も気が強いキャロライナは、皇女でありながら女だてらに馬を乗りこなし、武術にも長けていた。

 特に剣術の才は大人の男でも敵わぬほどで、彼女の同腹の弟である第三皇子のウィリアムよりもよほど腕のたつ「戦士」だった。

 周りの臣下たちがいつしか彼女を「騎士姫」と呼ぶようになるほどに。


 そんな彼女がこうして完璧なる淑女らしく振舞う姿を見るのは、兄として嬉しくもあり、どこか不思議な心地もした。


「……兄上」

「何かな、キャリー」


 公称ではなく、妹としてのかつての呼称を薔薇色の唇に乗せたキャロライナに、レオンハルトもまた愛称で応える。

 彼女とこうして言葉を交わすのは、実に一年ぶりのことだった。


 一昨年の秋、キャロライナは隣国のサフィーラ王国の王太子の元へと嫁いだ。

 サフィーラ王国はジュエリアル帝国にとっては同盟国であり、王太子と皇女の結婚は両国の結びつきを更に強固なものにするための、言ってしまえば政略結婚だった。

 しかしそのようなことは感じさせないほど、王太子夫婦の仲は良好らしい。

 彼女の夫とは数度しか会ったことはないが、精悍な顔つきの、凛々しいという形容が相応しい青年だった。

 彼が彼女を変えたのだろう。この国で暮らしていたときよりも、キャロライナは随分顔つきが柔らかくなった。


 そんな仲睦まじい王太子夫妻が帝国を訪れたのは、二日前のことだ。

 彼女とその夫を迎える歓迎の宴は昨夜催されたが、公の場では言葉を交わすことすらできなかった。

 だからこうして隣国の第二皇子と王太子妃ではなく、兄と妹として会話を交わすのは本当に「久しぶり」だ。


「お隣へ、行ってもよろしいですか」

「……あぁ」


 記憶の中のものよりも艶を増した声が問う。

 レオンハルトは静かに頷いた。


 母親は違っても、レオンハルトとキャロライナは仲のいい兄妹だった。

 そのプライドの高さから他者に甘えることを不得手としていた、けれど不器用ながらも自分のことを慕ってくれていたキャロライナのことを、レオンハルトもまた可愛がっていた。

 いくら武芸に秀で「騎士姫」と称されようと、レオンハルトにとってキャロライナはいつだって、大切な妹姫だ。


 しかし二人の間に流れる空気は、幼い日のそれとはまるで違う。

 それは離れていた時間が生んだものでも、他国の皇子と王太子妃という立場のせいでもない。

 そのことに、レオンハルトは――おそらくキャロライナも――気付いていた。


 大聖堂に、コツコツとキャロライナの靴音が響く。

 以前はドレスやヒールを嫌って歩きやすいブーツを履いていたのに、その足取りはよどみない。


 もう何もかもが、昔とは違う。


 それは感傷か、あるいは寂寥か、それともどちらともなのか。

 レオンハルト自身にもわからない。

 どちらでも構わないと、レオンハルトは思った。


 やがて祭壇の正面――レオンハルトの隣までやって来たキャロライナは立ち止まり、その場に跪いた。

 そして長いまつげを伏せ、古傷の残る、けれどそれでもなお美しい白魚の如き指を胸の前で組む。

 それは、神への祈りを捧げる姿。

 同時に、神の元へと召された魂の幸いを祈る姿でもある。


 死者を悼み、その安らかな夢路を願うこと。

 「神の愛し児」であるレオンハルトやキャロライナにとって、それは呼吸をするのと同じくらい、ごく当たり前なことだった。


 たとえそれがどのような相手であったとしても。


 どれほどそうしていただろう。

 瞠目し、黙祷を捧げていたキャロライナは立ち上がり、十字架を見上げた。

 その横顔は、二人の父である皇帝によく似ている。

 キャロライナの髪と瞳の色は母親譲りだが、顔立ちは父によく似ている。

 すなわちそれは、「彼」にも似ているということで――。


 レオンハルトは胸の奥で生まれた小さな痛みには気付かないふりをした。


「……もう、三年になりますね」

「……」

「あの御方の御命日、今日でございましょう?」

「……あぁ」


 そうだったね、と、キャロライナの言葉に、レオンハルトは静かに頷く。

 「あの御方」が誰であるのか、名前を出さずともわかった。わかったことで、苦々しさが胸を襲う。


 あれから「もう」三年も経つのか、「まだ」三年しか経っていないのかはわからない。

 しかしレオンハルトは、キャロライナの方から彼女の話を切り出したことに少なからず驚いていた。


 レオンハルトは、知っていたから。


「わたくしはずっと、あの御方のことが嫌いでした」


 呟くように、キャロライナは言葉を紡いだ。

 直球なその言葉が、かえって彼女の複雑な胸の内を表しているように思えてならなかった。

 十字架を見上げたまま――レオンハルトのことを見ることなく、キャロライナは続ける。


「兄上様に守られながらあんなにも容易く兄上様を見限られたあの御方のことを、許せませんでした」

「……キャリー……」


 まるで独白のように――或いは懺悔のように、静かに紡がれる妹姫の声を聞きながら、レオンハルトは哀しいまでに穏やかに笑う男の姿を思い浮かべていた。


 キャロライナが「兄上様」と呼ぶのは、レオンハルトではない。

 ジュエリアル帝国第一皇子にして皇太子であるアデルバート=セイルヴ=ジュエリアルのことだ。


 レオンハルトより四歳年長のアデルバートは皇帝と正妃の間に生まれた皇子で、八人いる皇帝の子女の中では、最も尊い血統と父たる皇帝に酷似した容貌を持つ。

 特に彼の二つ名の「銀の皇子」の由来である銀灰色の双眸は、兄弟の中で唯一、アデルバートだけが父から受け継いだものだ。


 けれどよく似た面差しでありながら、父と兄の性情はまるで違う。

 厳格にして苛烈、見るものすべてを圧倒するような父とは対称的に、兄は争いごとを好まない穏やかな性格だった。

 春の陽だまりのように穏やかな兄のことを、キャロライナは幼い頃から慕っていた。――否、崇拝していた。彼のために生きること、それがキャロライナの願いだった。


 そしてそれは、キャロライナだけではない。

 レオンハルトも、同じだった。

 アデルバートはレオンハルトにとって救いであり、光だった。彼の弟であるということが、レオンハルトの誇りだった。

 幼い頃、レオンハルトの世界はアデルバート中心に回っていた。


 しかしその世界は、ある一人の少女によって崩壊した。


 キャロライナが「あの御方」と呼ぶ元アメジア王国第一王女ローズマリー=ヴィヴィアン=ルシア=シャムロック。

 或いは、ジュエリアル帝国第六皇妃ローズマリー=アメジア=ジュエリアル。


 九年前にこの国に訪れ、七年前に皇妃となり、三年前その天命を終え、帰らぬ人となった「敗国の人形姫」。

 彼女がすべてを狂わせた。


 そしてキャロライナもまた、ローズマリーに対しある種特別な感情を抱いていた。

 それはもちろん好意などではなく、敵意や嫌悪のようなものだった。

 妹の口からはっきりと「嫌い」という言葉を聞いたのは今日が初めてだが、レオンハルトはもう、ずっと前から気付いていた。

 言葉にせずともわかっていた。


 キャロライナはいつも彼女のことを全身で拒絶し、否定し、嫌悪していた。

 憎んでいた、と言ってもいいかもしれない。

 きっとこの先もキャロライナの彼女へと向ける憎悪が消えることはないだろう。


 けれど。


「……けれどわたくしが本当に許せなかったのは、わたくし自身だったのかもしれません。兄上様のために何もしてさしあげられなかった、無力な自分自身のことが」

「……キャリー……」

「わたくしは、ちゃんと知っていました。わかっていました。

 あの頃、わたくしを『騎士姫』と呼ぶ声の中に、皮肉や揶揄が込められていたこと、そう呼ばれるわたくしのことを、臣下や侍女たちが快く思っていなかったこと。

 けれど、それでもよかったのです。わたくしは『騎士姫』と呼ばれることに誇りを持っていました。わたくしは、兄上様の剣となり盾となり、すべての憂いから兄上様を守ってさしあげたかった。

 そのために、兄上様のために生きることが、わたくしのすべてでした」


 切々と語られる妹姫の胸の内を、レオンハルトは初めて聞いた。

 それはキャロライナが初めて見せた「弱音」だったのかもしれない。


 気が強く、誇り高い「騎士姫」は、常に凛として美しく、迷いなど何も無いように見えていたのに。


「けれどわたくしは結局、『姫』でしかなかったのです」

「……キャリー……?」

「わたくしは、本当は知っていたのです。本当は、あの御方が……」

「殿下!」


 震える唇が紡ぐその先は、勢いよく飛び込んできた男の声によってかき消された。

 大聖堂に響き渡る自分を呼ぶ声に、レオンハルトは思わず振り向く。同時に、俯いていたキャロライナは顔を上げた。

 一瞬にして、キャロライナの顔が変わる。

 そこにいたのは、悩み嘆く小さな少女ではなく、誇り高き「騎士姫」だった。


「何事か騒々しい!!貴様ここをどこだと思っている!?神聖なる大聖堂で、わきまえよ!!」

「は……ッ。申し訳ございません……ッ。ですが、レオンハルト皇子殿下にご報告申しあげることが……ッ」


 かつての「騎士姫」の鋭い叱責を受け、しかし飛び込んできた男は怯まない。

 跪き、口上を述べる男はレオンハルトの近衛騎士であるグレイスター=アルフォートだ。

 グレイスターとはレオンハルトが十三歳の頃出会い、主従の契りを結ぶまで共に剣術の腕を磨き、互いに切磋琢磨し合った。

 それまで歳の近い遊び相手など妹姫のキャロライナしかいなかったレオンハルトにとって、グレイスターは初めてできた「友人」だった。

 主従となった今も、その友情は変わらないと思っている。


 形は変わっても、レオンハルトにとってグレイスターは一番信頼できる臣下であり友であり――共犯者だ。


 時には剣となり、時には盾となり、常にレオンハルトに付き従うグレイスターのことは、誰よりもよく知っていた。

 だからこそ、驚いた。

 グレイスターはいつも冷静沈着で、めったなことでは動じたりしない。そんな彼がこんなにも焦った表情を見せるのは、十年近い付き合いのなかで初めてかもしれない。


 だからこそレオンハルトは妹姫を制し、騎士に先を促す。


「かまわぬ。申してみよ、グレイスター=アルフォート」

「は……」


 常よりも低く響く声。

 その声に、レオンハルトは不安を覚える。

 そして、紡がれた言葉に自らの耳を疑った。

 けれどそれは、心のどこかで予感していたことだったのかもしれない。


 友であり、最も信頼のおける臣下が運んできた報せは、簡潔かつ最悪のもの。

 ただ一言、よく通る声でグレイスターは告げた。


 アデルバート皇太子殿下、御危篤にございます、と。


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[一言] もう少し「読みやすさ」に気を配ってはいかがでしょうか? 目が疲れてせっかくの作品の良さが半減しています。
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