真夜中のインターホン
ある夜、学生の飲み会を終えてアパートに帰宅したWが、窓を開けて部屋に風をいれていると、インターホンのチャイムが鳴った。
こんな夜中に…、と不審に思いながらもインターホンに出ると
「はい…?」
「あのう、すみません」
驚いたことに、声の主は少女だった。一体誰だろうと思ったが、この安い学生アパートのインターホンは、チャイムを押した本人をカメラで映してくれるような、気のきいたものではなかった。
「お母さんいませんか?」
「…?」
Wは、変なことを聞く子どもだと思った。返答に困ったが、考えて、こう言った。
「悪いけど、あなたのお母さんは知らないわ」
「おかしいな…。ここにいると思ったんだけど」
何を言い出すんだろう、と思った。
そして同時に、『本当に、家の中に誰かがいたりして…』と疑念がよぎった。
だがすぐに頭を振った。なぜならWはついさっき、自分の手で鍵を開けて家に入ったのだ。窓だって、さっき自分が開けるまで、きちんと鍵がかかっていた。一人暮らしをしていると、ついそういう不安に駆られるものだが、そんなことでは身がもたない。
「あのね、ここは私の家だから、あなたのお母さんはいないわ。……あれ、もしもし?」
いつのまにか、インターホンの向こうの少女はいなくなっていたようだった。不審に思ったWは窓から外を見てみたが、人影は見当たらなかった。
それきりWは普段通り眠りに就いたが、その夜、夢の中で変な物音を聞いた。ドタンという重い音が妙に近くで聞こえたのだ。しかし夢か現かはっきりしないことだったので、特段、気にはしなかった。
その次の夜、Wが帰宅してTVを見ていると、Wはまたもや、インターホンのチャイムの音を聞いた。
「はい…?」
「あの、お母さん、いませんか?」
また昨日の子どもだ。そのままインターホンを切ってしまってもよかったが、Wはここはひとつ
少女の戯れにつきあってやろうという気になった。
「あなたのお母さんってどんな人なの?」
「うんとね、よくころぶ」
Wはなぜかどきっとした。昨夜の夢で聞いた、ドタンという物音が脳裏によみがえった。あれは、人が転ぶ音ではなかったか?
「へ、へえ、そうなの」
昨夜、この部屋に人がいたはずがない。Wは変に意識しないよう、平然を装って答えた。
「であとね、テレビがきらい」
「あのね、そういうのじゃなくて、見た目とか、なにか手がかりになることを教えて欲しいの」
「うんとね、かみが長い…」
「色は?」
「くろ…」
Wは考えをめぐらした。この近辺で知っている人自体そんなに多くはなかったが、黒くて長い髪をもった人の心当たりはなかった。念のために、ここに遊びに来たことのある大学の友達の顔も思い浮かべてみたが、大学生は、Wを含め、髪を茶色に染めているのが普通だった。
「他には?」
「それでね、せが高い」
その返事を聞いて、Wは途端にバカバカしくなった。子どもの目からしたら、大人はみんな背が高いのは、当たり前だ。それとも、大人の平均と比べて背が高いと言っているのか、何ともはっきりしない。
これだから、子どもの相手をするのは好きじゃないのだ。Wは無意識に自分の髪をかき上げた。そして苛立ちを少し声ににじませながら言った。
「うん、それじゃあ、警察に行く?警察に行って、お母さんを探して貰う?」
こうやって高圧的に聞けば、子どもは「行かない」と言うものだ。
どうせお母さんと喧嘩してはぐれたとか、他人に迷惑をかけていることを知ったら親が焦って駆け付けてくれるとか、大したことじゃないんだ。もしくは質の悪いいたずらなのかもしれない。
「ううん。やっぱりいい」
ほら見たことか、とWはインターホンを切った。
WはTVの前に戻る。だがTVがいつのまにか消えていた。
『お母さんはね、テレビがきらい』
子どもの声が耳に蘇った。はっと思って、クローゼットやベッドの下など、人が隠れられそうな場所を部屋中確認した。
だがどこにも人は隠れていなかった。
最後に洗面台を確認したWは、あるものをみつけ、思わず悲鳴をあげそうになった。
「なに、これ…!?」
それは黒くて長い髪の毛だった。洗面台のシンクにたくさん散らばっていたのだ。
茶髪でショートの自分の髪とは、色も長さも、明らかに異なる。
その後、Wは一睡もできずに夜を明かした。
週末、Wは恋人を自宅アパートに呼び寄せることにした。
一連の出来事を話すと、恋人も眉をひそめた。
「つまり、その女の子によると、『お母さん』とやらがこの家にいると…。で、その人物の姿は確認できないが、物音がしたり、テレビが消えていたり、洗面台に自分のものではない髪の毛が落ちていたりと、人が潜んでいてもおかしくない状況ということか…。なんだか、薄気味悪い話だな…」
「ねえもう一回、家の中を確かめたいんだけど、一緒に見てくれない…?」
「あ、ああ…」
恋人も決して乗り気というわけではなかったが、そのままWを捨ておくわけにもいかないらしく、こわごわとうなずいてくれた。
といってもただの学生アパートだ。広いわけもなく、探索はすぐ終わる。そして今回は、何の手がかりもないのだった。
恋人は尋ねた。
「でその髪は、捨てちゃったの?」
「うん…」
そう答えてからWは気付いた。あの髪の毛は、一連の出来事の、唯一の物証となりうるものだったのだ…。だがWはそこまで頭が回らず、気色悪さからすぐにゴミ箱に捨ててしまったのだ。悔やまれるといえばその通りだが、しかし今となっては、ゴミ箱からそれを探し出す気もしなかった。
「まあ、自分を追い詰めるのはよくないよ。」
口ぶりからすると、恋人は『キミが思い込んでいるだけじゃないのか』とでも言いたげだった。
その夜、Wは貴重品だけを持って、恋人の家に泊まることになった。彼の親切には感謝したが、『信じていないんだな』というわだかまりは、わずかに残った。
翌朝、Wは一人、アパートに戻った。昨日は最低限の物しか持っていかなかったので、やはり生活には不便だったからだ。
しかし、部屋のドアを開けた途端、言葉を失った。
部屋が、めちゃくちゃに荒らされていたのだ。
そして壁には「子どもを返して!」という真っ赤な文字が書かれていたのだ。
Wはじわりと汗をかいた。
気付けば、走り出していた。
『警察に行かなきゃ…』の一心だった。
「なるほど、普通のストーカーとは、少し違うようですね…」
若い男の警官は、こう言った。
そして部屋が荒らされたと聞いて、すぐに見に行こうと言ってくれた。
「盗られたものは、ありませんか?」
「ええ、幸い、貴重品は持っていたので…」
そう言いながらアパートのドアを開けると、Wはまたもや絶句した。
今度は部屋が、少しも荒らされていないのだ。
それどころか、壁の血文字もなくなっている。
Wは訳がわからなくなって、わなわなと震え出した。
警官は一瞬、不審そうな眼を向けたが、Wが本当に取り乱しているのを見ると、優しそうな顔を作って言った。
「女の子でも、お母さんでも、インターホンの映像記録か何かは、残っていませんか?」
「そんなものないわよ!!」
Wの怒鳴り声に警官は困ったような顔をすると、
「ではまた何かありましたら、ご連絡を…。一応、辺りのパトロールは強化しておきますので」
と言い残して去って行った。
その後、Wは夜をどこで過ごそうかと迷ったが、恋人は今夜は当直の仕事があるというので遠慮し、結局、自宅アパートで夜を越すことにした。恋人は彼女を心配しているようで、当直中でも仕事がない時間は、ずっと電話をしてくれる、ということになった。
「今、部屋はどう…?」
「電気を点けてる。何も物音はしない。電話してくれているから、恐くはないよ」
「そっか…」
恋人は、口にこそ出さないが、部屋が荒らされたというのも、やはりWの思い込みではないかと疑っているようだった。
「まあとにかく、安静にするのが一番だよ。きっと少し疲れているんだ…」
Wはインターホンの少女の会話も、部屋が荒らされたことも、決して勘違いではない、と訴えたかったが、それもむなしく感じて、
「そうかもね…」
とだけ答えた。
それからしばらく取り留めのない会話をしていたが、そのうちWは、自分でも気付かない間に眠ってしまったようだった。
真夜中に、再びインターホンが鳴った。
Wはのろのろと起きて、それに応えた。
「はい……」
「あの…、子どもが、来ませんでした?」
声の主は、子どもではなかった。大人の女性の声だった。
Wは心臓がバクバクした。
「子どもって、どんな?」
「小さい、女の子…」
普段のWだったら、『小さい』と『女の子』という情報だけで即断するようなことはしなかったが、半分寝ぼけていることもあって、あの子のことを言っているんだなと、直感で思った。
「あなた、あの子のお母さん?」
「ええ…」
「あの子、あなたのことを探していましたよ。ずいぶん熱心に」
「そうなの…」
それから、言いにくいことを伝えようと決意するように息を吸うと、勇気をもって女に言った。
「あの、お互いはぐれちゃって不安なのはわかるけど、うちのインターホンを通して捜すのはやめてもらえません?」
「…確かに、迷惑ですよね」
Wは女が案外物分かりがいいのに、拍子抜けした。
「ああもう、わかってもらえればいいわ…」
「でもねえ、そりゃあなたはいいわよ。まだ若いんだから…」
「え?」
Wは女の声が少しずつ狂気の色を帯びていくのを感じた。
「あなたにはまだ、いくらでもチャンスがあるんでしょうよ。でも、私は違った。あれが、最後だったの。」
「何を言って…?」
いまや女の声は大きくなりすぎて、インターホンの音が割れていた。
「しかも私はね、自分ではそのことに、なんにも気づいていなかったの。あなたにわかる?この苦しみが?」
耳もつんざかんばかりの音量で、Wの頭はガンガンと揺さぶられた。
「だからね。あの子を取り戻さなきゃならないの。何としてもね!私にあの子を返しなさい!」
『耳が、ちぎれる…!』
そう思ったとき、ドタンという大きな振動がして、Wは目が覚めた。Wはベッドから落ちたのだ。
そこはインターホンの側ではなかった。
『なんだ、夢か…』
ベッドには、寝る直前まで恋人と電話をしていたスマホも転がっていた。
もうすぐ夜が更ける時刻だった。寝足りない気はしたが、眠る気にはなれなかった。
『変な夢…。何だったのかな…。女の子も、お母さんも…』
それから半分うとうとしながらぼんやりと考えていると、ふとあることに気が付いた。
夜が明け、日が昇ると、待ちきれないとでもいうように、Wは薬局に向かって走った。
いや、走ろうとはしたが、思い留まって、歩くことにした。
思った通り、Wは妊娠していた。
それからは全てが慌しく過ぎた。
Wは恋人と籍をいれることになった。親は納得してくれた。大学は休学するしかなさそうだった。
そして恋人の部屋に一緒に住むことになった。この部屋を引き払うのだ。
その段になって、Wは恐る恐る、大家に聞いた。
「あの、お気を悪くしないで欲しいのですが、あの部屋で、昔何かありました…?」
大家は、顔を青くした。
「あいえ、いいんです。詳しくおっしゃらなくても」
世話になった大家だから、あまり困らせたくなかった。それに確か、事故物件でも二人目以降の入居者には言わなくていい、とかいう決まりがあったんじゃなかったか…。
「あでも、もしご存知でしたら、お墓の場所だけでも、教えて頂けません?」
お墓は幸い、そのアパートの近くにあったので、引っ越す前に聞いておいてよかった、と思った。
墓に案内してもらうと、そこで手を合わせた。
こうすることにどんな意味があるのかは、はっきりわからなかった。
ただお腹に赤ちゃんがいると思うとそうせずにはいられなかったのだ。
『私は転んだりしませんように…』
Wは大きな荷物を抱え、恋人の部屋に向かった。