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二階建ての一軒家。空護の家はその一階を改装して喫茶店として開業している。
店名は《喫茶YAMATO》。
少し厳つい感じがする名前だが、店そのものに対する客の評判は悪くない。
それは料理の味だったり、母親の接客だったりと理由は色々あり、ともかく生活するには困らない程度の稼ぎはできている。
しかし忙し過ぎるということもなく、普段は母親一人で切り盛りしており、少し忙しければ空護が手伝うことでなんとかなっている。
言ってしまえば、人件費の無駄を省くことで収支を上げている。
家の敷地に入るなり店の入口へと向かった。昔は帰宅すると裏口から入るように言いつけられて店から家に入ると叱られたが、手伝うようになってからは帰宅してそのまま店の仕事をするようになったので、手間を省くという理由で免除されている。
夕飯を喫茶店の軽食で済ますような客は少ないので、この時間ならもう誰もいないかもしれないが、習慣として店の入口に足が向いてしまう。
「ただ~いま――」
戸を開けて帰りのあいさつを言い切るかどうかのタイミングで、目の前に飛来したなにかを空護は首を傾げる形で回避した。ほぼ反射であった。横を向いて《なにか》――壁に突き刺さったそれを見て血の気が引いた。と言うか自分の血の気が引く音が確かに聞こえた。それは包丁だった。しかもよく磨いてあるのか刃は適度に濡れて光沢を放っている。
視線をゆっくりカウンターに向けると、そこに一人の女性が立っていた。
「お帰りなさい。空護」
穏やかな口調、そして顔にはこれまた上品な笑顔が輝いていた。
この女性こそ空護の母親、大和美空である。
「でも『ただいま』の前に『ごめんなさい』が先でしょ。夕御飯の時間に遅れるなら連絡はしてくれないと」
「……ごめんなさい。って違うだろ‼ いきなりなんちゅうもん投げてくれてんだよ! 当たったらどうする!? 大体『ただいま』言い切る前に投げるな‼」
「あら心外ね。あんたならその程度簡単に避けれるの分かってやってるのに。それに言い切る必要なんてないじゃない。最初の一文字でなに言うかなんて分かるし」
「そりゃそうだけど……万が一当たったらどうすんだよ!? 顔面だぞ! 確実に死ぬぞ! 死ねるぞ‼」
「大丈夫よ。急所は外してあるから」
――顔面で急所じゃない場所ってどこだよ!?
心の中で腹の底から抗議の雄叫びを上げた。しかしそれを実際に言葉にはしない。
顔は笑顔だが美空は完全に説教モードだ。この状態で必要以上に反抗して勝てた経験は十四年生きてきて一度もあり得なかった。
あまりに衝撃的な帰宅騒動が沈静化すると、話題は今日の行動へと焦点を変えた。
「一体全体、なにして帰るのがこんな遅くなる事態になったのよ?」
「向こうの国道の、ほら、古本屋。あそこで立ち読みし過ぎちゃって。煉と風真も一緒にちょっと隠れた名作を発見して盛り上がっちゃったんだよ」
「こんな時間まで? そんな帰り道から離れたとこで? それ本当?」
空護は自分の作戦の手応えをがっちり掴んでいた。予想通りの美空の質問に対する回答は既に用意されている。
「なんなら二人に確認してみな」
当然、親友二人とは予め打ち合せている。
三人行きつけの古本屋だと店員に顔が割れており計画が破綻する可能性がある。
白羽の矢が立ったのは三人の通学路とは別の国道にある大型リサイクルショップだった。
ここなら空護がプライベートで私服、しかも一人で利用することが多いため、制服姿の中学生三人が行ったとしても店員の印象には残らないだろうというのが選ばれた理由だ。
つまりいたのか、いなかったのか判断されにくいのだ。仮に美空が店員に確認を取ったとしても「分かりません」といった回答しか返ってこないだろう。
更に、空護はこの店のレイアウトを記憶しているので、どこにどんな本があるのか把握している。レジカウンターから死角になり店員の見回りもあまりこない一角に青年向けのシリーズ物が開架してあるので、それを立ち読みしていたことにすれば、長時間店にいても店員から印象がない理由として妥当で、店に実在する本のタイトルを控えておけば実際は読んでなくても立ち読みしていた証拠になったりと一石二鳥で裏付け工作になる。
ここまでの設定を二人との取引成立から別れるまでにやってのけ、空護は美空と対峙したのであった。そして、これらの裏工作をした上での『確認してみな』発言に対して美空の反応はこうだ。
「いいわよ。そこまで言うなら本当だろうし、もし嘘を吐いても三人で結託されたら証明しようがないもの」
少々諦め口調だったが、これを聞いて空護は《寄り道し過ぎて気付いたらこんな時間だった作戦》の成功を確信した。ここまで言わせれば美空が必要以上に確認を取ったり追及してきたりはしない。後は数学の特別課題を秘密裏に処理できれば万事解決だ。
それならここまで裏工作に凝らなくてもよかったのでは……と思うかもしれないがそれは違う。裏工作とは最悪の事態を想定して講じられるもので、使わなければそれに越したことはない。ましてや聞かれてもいないのに自分から口にするなど愚の骨頂だ。
なにより、裏工作をすることで絶対にバレないという自信が湧く。
仮に追求されても言い逃れることができる確信があれば、不自然な態度を取るリスクを避けることができるのだ。
本日最後の山場を乗り越えると、途端に空腹感に襲われた。
「母さん、晩飯」
「はいはい、できてるわよ。もう冷めちゃってるから自分で温めて食べなさい」
カウンターの裏に回るとそこはもう居住区である。空護は台所へ行くとテーブルの上に用意された夕飯のメニューを確認した。
メニューはサバの味噌煮、ほうれん草の御浸しとコンロの上の鍋には豚汁が入っていた。
豚汁はまだ温かかったので、サバの味噌煮をレンジで温めて、空護は少し遅めの夕飯を食した。途中、テレビを点けると、まだ夕方のニュースがやっていた。
『先月、秋田県八幡原クマ牧場で起きたヒグマ脱走事件で、秋田県警は地元猟友会と共に脱走したヒグマ七頭の内六頭を射殺したこと発表しました。残り一頭の行方は依然捜索中であり、警察は近隣の市や県にも注意を呼びかけています。続いて――』
夕飯を終えるとテレビを消し、食器を洗ってから再び店に顔を出した。さっきもそうだったが店に客の姿はなく、美空も店内の掃除をしていた。時計の針は夜の八時を指そうとしていた。
今日はもう店仕舞いかなと考えていると、店内に電話の着信音が鳴り響いた。
近くにいた美空が受話器を取り対応した。静かに受話器を置き、空護の方を向いて話しかけた。
「空護……」
そこにはさっきまでの笑顔はなく、どこか厳かな雰囲気が周囲を満たしている。
「《集会所》からよ。《仕事》だって」
それを聞いて空護の気配が明らかに変わった。洗い物の手を止め、眼鏡を外し、まるで光が宿っていないような暗く鋭い目で美空に向き合い「分かった」と応える。
その顔に年相応の少年らしさは微塵も感じられなかった。