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日ノ出市立天原中学校では部活動や委員会活動といった特別な理由がない限り、生徒は午後六時で強制下校となる。ただし、それこそ先に挙げたような特別な理由がない限り、そんな時間まで残る生徒などいない。いないのに。
――なんで俺はこんな時間まで学校にいなきゃいけねぇーんだよ!
と、空護は腹の底から疑問に思った。
天道から引き受けたチョーク箱を教室に運んでから、職員室に入ったのが三時五十五分。そこからたっぷり二時間も説教を食らうとは想定外だった。
内容はひたすら数学の時間の居眠りの件……しかも今日だけではなくなんと一学期分、プラス中間と期末テストの赤点についてだった。
末広も相当に溜めていたのだろう。一時間以上も口から叱責が止めどなく飛び出す様は怒られている側から見ても圧巻だった。
――普段から小出しでちょいちょい説教してるくせによくもあれだけ喋れるもんだ。
それより苦しかったのは、残りの時間延々と期末テストの復習をさせられたことだ。
職員室の黒板に書かれた問題にひたすら取り組むのは拷問としか言えない。
末広が下校時間延長を申請しようとした時はそれこそ窓を叩き割って飛び出してやろうかと思ったぐらいだ。
精神的に消耗した様子を他の教師に指摘されて解放に至った――その対価かどうか知らんが夏休みに特別課題を出しくさりやがった――訳だ。
「明日からちょっとずつ片付けるか? ってか母さんにバレたら殺されそう」
この先二ヵ月の見通しに暗雲ならぬ雷雲が立ち込めるのを感じつつ下駄箱に向かうと、玄関のすぐ外に二人の人影が見えた。
「おーーっす! お勤め御苦労さん」
「お疲れ様。大変だったね」
こちらの姿を確認するやその二人の同級生――伊達風真と真田煉は手を振って、労いの言葉を寄越してくれた。思わず顔が綻ぶ。
「ふう~ま~~。れ~ん~~」
自分でも情けない程に抑揚のない声で親友二人の名前を呼んだ。それだけ二人がいることが疲れ切った心に染みた。笑う二人と泣きそうな空護の計三人は下校時間を五分過ぎて、ようやく校門を後にする。下校中、自然と末広の説教について話題になった。
「聞いてくれよ~~、末広ってば非道いんだよ~~。俺が言い返さないからって好き放題言うし~~、できないって言ってんのに無理矢理テスト問題解かせるし~~」
「非道いかどうかはともかく、確かに下校時間ギリギリまで捕まったのは文句なしに最長記録だね」
煉が感慨深けにこれまでの居残り説教の刑を振り返る。
確かにこれまでの最高記録一時間十分を大幅に更新している。
ただ柔らかい口調で、さり気なくこちらの愚痴を流されたのは気のせいではない。
「いや、非道いと思わね? 見ろよ、このチョーク握りすぎた手を! 大体、普段から口やかましく説教垂れてんのに、しかも今日なんか授業中も説教されたのに二時間も職員室に監禁されたぞ。この仕打ちに対するコメントが『非道いかどうか』ってそりゃねぇだろ」
どやっといった感じでチョークの粉まみれになった手を見せ、空護はブー垂れた。空護としては当然理解が欲しいのに、この親友はなかなかどうして甘くない。
「僕から見たら空護も相当非道いよ。むしろ末広先生の堪忍袋の大きさを褒めてあげたい。そもそも普段からしつこく注意されてるのは問題が改善されてないからでしょ。強いて言うなら改善する気もないでしょ」
改善する気がない訳じゃないが実際に改善されてない訳で、容赦なく叩き込まれる正論には反論する隙が一切ない。それでも見苦しく口をモゴモゴさせていると、煉は止めとばかりに強烈な言葉を紡いだ。しかもニッコリ笑いながら。
「なにより、空護が宿題やらテスト勉強やら数学で困った時に僕、散々手伝ったよね。なのにこの有様はあんまりだよ。ここまで人の善意や苦労を無下にしておいて、その上泣きつくのは筋違いでしょ。非道いって言うなら空護の方が僕に対して非道いよ」
「あ……う……」
――痛たたた……それ言われるとなんも言えんわ……。
脇腹に見えないなにかがチクチク刺さるのを感じつつ、空護は撃沈を悟った。
付き合いが深い分、この爽やかスマイルがトレードマークの親友はこちらの弱みを誰よりも多く握っており、それを踏まえた上での説教は壱与とは比較にならない撃墜率を誇る。
なによりこの笑顔が怖い。絶対今腹の底では笑ってねぇし。
そんな煉とのやり取りを傍観していたもう一人の親友――風真が口を開いた。
「まぁ、自業自得っちゃ自業自得だわな。これだけやらかして説教なしだったらオレから末ちゃんにクレーム付けるわ」
この発言に、意気消沈気味だった空護の気力は再び燃え上がった。風真に対して即異議ありの姿勢をとる。これは流石にちょっと待てと言いたい。
補足だが《末ちゃん》とは末広の愛称である。
「待てコラ! 煉はともかくお前にそこまで言われる筋合いねぇ! お前なんて体育以外の教科オール赤点じゃねぇか‼」
むしろ風真こそ下校時間超過の説教をされるべきだと腹の底から末広に抗議したい。
しかし当の風真はゲラゲラ笑いながら勝ち誇った。
「ちっちっ、間違ってるぜ空護。オレは体育以外赤点なんじゃねぇー。赤点ギリギリであって、お前と違ってボーダーラインを死守できてんだよ」
――勝ち誇れる程のことかド阿呆‼
要は運動能力以外、ほぼ壊滅的なことに変わりない。
比べて空護は体育と数学以外は平均以上をキープしている。総合成績では明らかに風真の方が問題児なのに、この扱いの違いは不公平極まりない。
「ぬかせ! 大体お前がギリギリで済んでんのは俺と煉が勉強見てるからだろうが!」
「そう? 風真は空護と違ってまだ改善の兆しがあるだけマシな気も――」
「異議は却下します‼」
ここで煉が風真を庇護するのは殊更面白くない。裁判官顔負けの勢いで発言を制すると、煉が「やれやれ」といった感じで肩を竦めた。
「まぁ空護は数学が飛び抜けて悪過ぎるよね。体育は仕方ないとして、せめてもう少しなんとかならない?」
「……誰にだって得手不得手があるだろ。……無理」
「お前はその得手不得手の高低差が激し過ぎるって。社会は煉より成績いいくせに。せめて寝るんじゃねぇよ。まぁオレも他人のこと言えねぇけど、流石に毎回居眠りはしねぇし」
「俺、意味不明な単語聞かされると頭が回らねぇんだよ。そしたら嫌でも眠くなっちまうんだよなぁー。……分かる?」
「あぁ……、そう言われるとよく分かる」
「いやいや、分かっちゃダメだって!」
風真と価値観を共有した段階で煉が焦ってツッコんだ。途端、風真と一緒に吹き出した。
そのまま笑いが止まらなくなった。自分でも馬鹿と分かる理屈に風真が共感したことも可笑しかったが、普段滅多に慌てない煉のテンパる様がかなり可笑しかった。
それが恥ずかしかったのか、煉は困った顔で目線を逸らしていたが、こちらと目が合うと一緒に笑い出した。帰り道、しばらく三人で笑い続けた。
茨城県日ノ出市には北から南にかけて二本の国道が通っている。
天原中はその二本の国道に挟まれる位置にあり、どちらの国道も人通りが多くコンビニやファーストフード店等が多く軒を連ねるため、生徒は寄り道に困ることはない。学校が二本の道のほぼ中間にあるので、どっちの道に出るかは各々の通学路に左右される。
空護達は三人とも西側の国道沿いに住んでおり、いつもなら学校帰り一緒にコンビニや本屋で時間を潰しながら帰るのが日課だ。
しかし今日のように帰りが遅いと寄り道をしてはいられない。今の季節まだまだ日は長いが、南の都市部から帰宅する車で国道が渋滞している様子と、民家から漂ってくる夕食の匂いがとっくに家にいる時間だと納得させる。今日の晩飯なにかなと考えつつ、空護は母親になぜ帰りが遅くなったのかをどう言い訳しようかと思案を巡らせていた。
大和家でも当然この時間帯は夕食時であり、常日頃から寄り道をしているとは言え普段は夕食前に帰宅している。空護は余程のことがない限り食事の時間を厳守しているのだ。
そして母もそのことを分かっていて、――つまりかなり高確率で今日帰りが遅くなった理由を聞かれる訳でしかしその理由を正直に話すとドえらいことになるのは確実で結論から言うならなんとかして誤魔化さねぇとヤバいんだって!
先ほど三人で笑っていた状況から一変、空護は全身の毛穴から冷や汗を噴きながら脳をフル回転させていた。マジでこの集中力を数学に生かせないのが恨めしい。
結果、幾つか思いついた案の中で最も無難かつ確実なのは、《寄り道し過ぎて気付いたらこんな時間だった作戦》だった。安易と思わないでもないが、自身の行動パターンを参考にした場合、最も矛盾がなく工作も容易ということが決め手になった。
ただし、この作戦には欠かすことのできない条件がある。それは風真と煉の協力である。自分一人で寄り道し過ぎたと言っても母親は信用しない。なにより事情を知っている二人が告げ口するリスクも皆無ではない。
しかしそこは長い付き合いながら甘くない親友である。そう簡単に頼まれてはくれないだろうし、よしんば頼まれたとしてもタダで動いてくれないことはよく知っている。
ついでに言うと特別課題の援護も欲しい。
なにか対価を支払う必要があると腹を括り、なにを差し出すべきか考え込む。
「――護。おい空護! 聞いてねぇのか!?」
風真が声を張り上げて空護の意識を現実に引き戻した。顔を見ると不機嫌そうにしている。どうやら考えることに没頭して話を聞き流してしまったらしい。
「悪い、聞いてなかった。……なんだって?」
「なんだよ、もう一回話せってか? 三組の阿久根と井尻が天道にボコられたんだって」
話を聞いて、空護は「あぁ」と納得して相槌を打った。
「もしかして、知ってた?」
「……俺は直接現場に出くわしたもんで……」
「マジ! 決定的瞬間に立ち会った!?」
煉への回答にいち早く反応したのは風真だった。興奮して身を乗り出したので「近いわ阿呆!」と両手で距離をとりつつ、空護は二人に当時の状況を説明した。
少々話すのが恥ずかしい場面もあったが、今後のためにも感情を飲み込む。
「――っちゅう訳で、天道が二人を成敗した瞬間は見てないんだよ」
無断下校を壱与に見咎められた件から、チョーク箱を渡されたことまでを話すと、煉は予想通り呆れた様子で額を抑えて空を仰いだ。風真は、
「なるほど。つまり天道に見つからなければ、何事もなく下校できてた訳だ」
などと、予想の斜め上をいく場面に着眼し煉を更に辟易させた。
「いや、引っかかるとこそこじゃないし。……その状況で女の子を一人で行かせちゃうのが空護のすごいとこだよね。言っておくけど、褒めてないからね」
言われずとも分かることを敢えて口にしたのは、それだけ強調したいからだろう。空護は「分かってるよ」と返事をしてから弁明を述べた。
「だってよ……なんで俺が内田を助けんだよ? 仲良くもないし、それどころか話したこともないぞ」
この『話したこともない』は比喩表現ではなくマジだ。二年に進級してから初めて同じクラスになり、今日まで一度たりとも会話を交わしたことがない。そんな奴のために荒事に首を突っ込む必要が果たしてあるのかと空護は力説した。
「だったら、天道を助けると思えば良かったんじゃね?」
仲良くはないが、普段からよく話す――正しくは一方的にどやされる――相手だから、手を貸してやる義理はあっただろうと風真は指摘した。
「あいつはちゃんと助けたからいいんだよ」
という発言に二人は揃って首を傾げた。
いつ助けたのかが激しく疑問なのだろうが、煉がもしやといった感じで口を開く。
「まさか、チョークのこと?」
チョーク箱を引き受けただけで十分だと言うと風真は「うわ、小っさ」と非難の声を上げた。ただし、爆笑しながら。
「善意に大きい小さいを求めちゃいけねぇよ。例え大したことなくても善意はあるだけで尊いもんだ」
どんな小さい善意でも実行できることに価値がある。――と、空護は自分の行為は立派な善行だと殊更強く力説した。
「まぁ、言い分が正しいと言えば正しいね……」
言葉に正当性があれば、聞く側としては黙るしかない。だが黙るだけで決して納得はできないというのは煉の顔を見れば分かった。苦笑いと呆れ顔が複雑に入り混じった表情がなんとも気の毒に見えた。
「それに、今すぐ善意が欲しいのは空護の方だよね。末広先生から説教の追加オプション……どのくらい出た?」
煉が言っているのは夏休み特別課題のことだ。察しが良くて助かる。
「数学問題が百問……計算式から文章問題までびっしりと。お願いします。助けて下さい」
人間は本気で助けて欲しい時、自然と敬語になる。
「それと、言い訳もな。今日なんで帰りが遅かったのか口裏合わせないとな」
風真も分かってるよと言わんばかりに提案した。
――お前ら本当に察しがいいな。
「……で、見返りはなに?」
「察しがいいね」
それはお互い様だと心の中で言い返す。
「タダでここまで世話焼いてもらおうなんて甘く考えてないから」
――さて、なにを要求されるかな。
「次の《仕事》の競りに僕らも連れて行ってよ」
「へっ?」
要求された内容に拍子抜けした。想定された難度をかなり下回る要望だったからだ。
「マジか? そんなことでいいのか? 俺としては店でタダ飯と一日専属ウェイトレスの刑ぐらい覚悟してたんだけど」
「う~ん、それも悪くないんだけど、オレら一緒に《仕事》する時も競りはお前に任せっきりじゃん。一度行ってみたいって思ってたんだよ」
「へぇ~」
「もしかして、ダメかな?」
「いや、そんなことねぇよ。ただ、競りは俺一人でもやれるし、そんな面白くもねぇから、ちょっと意外でな」
空護にしてみれば、わざわざ三人で行くようなことではないし、ましてや行きたがるようなことではないという認識なのだ。つまり交換条件として容易い。
「俺としては非常においしい取引だ」
「じゃ決まりだな!」
「次の《仕事》が入ったら声かけてね。」
話がついた所で、ちょうど家が見えたので空護は二人と別れて帰路についた。
上手く話がまとまったので校門を出た時とは比べ物にならないくらい気持ちのいい帰宅になった。