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壱与が体育館裏に到着すると、見える場所には誰もいなかった。代わりに裏口付近からなにやら話し声が聞こえてくる。
こちらからはちょうど裏口の出っ張りの影に隠れて視界に入らず、用具が積み上げられているせいで反対側からも死角になっている。隠れるにはうってつけだ。
「だから、お前にもやらせてやるって言ってんじゃん」
「たかだか六~七千円出せば済む話じゃねぇか」
「で、でも……僕……別にそのゲーム欲しくないし」
「俺達がやりてぇんだよ。お前はちょ~っとだけカンパしてくれるだけでいいから」
「でも、僕……」
「お前さ~~、俺らがこんなに頼んでんのにひどくね? 友達なら聞いて当たり前だろ」
「そうそう。俺達、友達なんだし」
「ぼ、僕……」
近づきながらそんな会話が聞こえてくる。壱与は内容に顔をしかめながら三人の男子を視界に捉えた。
「あんた達、なにしてるの?」
声をかけると、小柄な男子を囲む形で立っていた二人の不良がビクッと振り返った。
「……なんだよ? なんか用か?」
色黒の男子――阿久根が問い返してきた。無表情で声には明らかな威圧が含まれている。
「こんな所でなにしてるのか気になっただけよ」
「いやいや、俺らなにも怪しいことはしてねぇよ。……そう気にすんなって」
壱与が返答すると、阿久根の後ろで金髪を逆立てた男子――井尻が笑いながら弁明した。その笑い方が壱与には不快だった。
「……ふーん。なら内田くん貸してくんない? ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
「いや~、こっちも立て込んでてさぁ。ちょっと向こうで待っててよ」
井尻は向こう――要は体育館裏から見て余所――に行けと壱与の後方を指差した。その意図をよく理解して、壱与はまた一歩敵のテリトリーに踏み込む。
「こっちの用こそすぐ済むわ。……そうだ。なんならそっちの用を先に片付けるの手伝うし。それなら問題ないでしょ」
「い、いや、その~~、それは……ちょっと」
「遠慮しなくていいって。別に見られて困るようなことはしてないんでしょ?」
壱与としては十分に言動をオブラートに包んだつもりで、決して挑発したつもりはなかったのだが、どうやら少々言葉を選び損なったらしい。ややあたふたしている井尻に対して、阿久根の方はもはや敵意を隠すことなくこちらに向き直った。
今の発言が癪に障ったのだろう。こちらは相方に比べて相当気が短いようだ。
「おい、いい加減にしろよ。さっきから偉そうに出しゃばりやがって、俺らがなんかしたからってお前になんの関係があんだよ」
誤魔化しが無理と判断してか、阿久根は壱与も脅す形に方向を転換した。どうやら物事はかなり荒い方向にベクトルを向けたらしい。この先の展開は壱与にも容易に想像できた。しかし、それでも壱与は口を紡いだ。ただ、それはもう説得や説教のためではない。
「ねぇ、ことをあんまり荒立てない方がいいんじゃない? あたしもできれば穏便に済ませたいし……、そっちだってカツアゲに暴行までオマケしたくないでしょ。それとも内田くんに要求してることって、そこまでのリスクを冒してでもやりたいことなの?」
これは説得の類ではなく、壱与にとって最後の譲歩だった。ここで引くなら無駄な追求はしない。そんな壱与の意図を知ってか知らずか、阿久根は完全に形振り構わない態勢に移行した。
「いいか? これ以上邪魔すんじゃねぇ。あんまりうぜぇとどうなっても知らねぇぞ。俺は相手が女だろうと容赦しねぇかんな」
明らかな恐喝に壱与は怯むどころか鼻で笑って見せた。そうやって脅せば誰もが引くと思っているのだろうが、そっちがそう来るならこっちも容赦しない。
「……どうなるのかしら~? あたし分かんないなぁ~。宜しければ御教授願いません?」
壱与の挑発と言っても差支えない言動に、阿久根の顔が引き攣る。後ろで井尻が「あ~あ、知~らね」とニヤついていた。
「上等だ。……後悔すんなよ‼」
怒声を放ち、顔を不愉快色に染めた阿久根が距離を詰めて右手を振り上げた。
――わ~~、思った通りの反応……分っかり易~い。
壱与は内心で半ば呆れつつ、半ば気を引き締めて臨戦態勢に入る。元よりこうなることは予測できた。名前の通った不良が人目のない場所で素直に説教を聞き入れるなどあり得ない。心構えができていれば相手が力に訴えようと怯むことはない。
阿久根は振り上げた右拳をなんの躊躇もせず壱与の顔面に振り下ろしてきた。しかし固く握った拳は虚しく空を切る。壱与が左の掌を拳に添えて捌いたからだ。
同時に、壱与は自身の体を阿久根の右側面に移動させ、無防備になった阿久根の右脇腹に体重を乗せた右拳を叩き込んだ。右脇腹――肝臓を打ち抜かれた阿久根は体をくの字に曲げて、その場に崩れ落ちた。
阿久根の戦闘不能を確認し、壱与は素早く井尻の方へ向き直った。井尻の顔からは不快な笑みが消え去り、怖れ入ったようななんとも締まらない表情をぶら下げていた。明らかな戦意喪失だ。
そんな井尻に構うことなく壱与は金髪不良と小柄男子に詰め寄ると、二人の間に割って入り内田を庇うように遠ざけてから井尻の腕を背面に捻じり上げた。
「痛って! ちょっ……待てって!」
「いいえ、待たない」
相手が暴力を行使した時点で既に問答をする段階など通り過ぎている。よって壱与の方も不良二人の言葉に耳を貸す義理などない。
このまま生活指導室に直行するのに躊躇も感じなかった。
体育館の裏から渡り廊下を望める位置まで井尻を連行し、途端、もう一人連れて行く者がいることを思い出し名前を呼ぶ。
「内田くーん。二人を指導室に連れてくから一緒に――」
言い切る前に壱与はその異変に気付く。視界に飛び込んできたのは相変わらず蹲っている阿久根が一人。その他に人影はない。そう、この場にいる人間が一人足りないのだ。
――あれ? 内田くんはどこに?
その問いに答えたのは自身が現在拘束中の金髪――井尻だった。
「逃げたよ。あいつ」
思わぬ発言に不覚にも「へっ?」と素っ頓狂な返事をしてしまった。
いやいやそんな馬鹿な。という顔をしていたのかどうかは知らないが、そして井尻がそれを読み取ったかは定かではないが――。
「あんたが俺に構ってる隙にすげぇー勢いで走ってったよ。メッチャ速かった」
と、丁寧に補足説明までしてくれた。《構ってる隙》とは井尻と内田の間に割り込んでから、井尻の腕を捻じ上げるまでのことだろう。
確かにその時は視界には井尻しか映っていなかった。その視界の外で内田は全速力でこの場を離脱し、それを井尻は目撃したということだ。
しかしあり得るか? かよわい女子(とは自分でも思わない)が悪漢とやり合っている隙に男が尻尾を巻いて逃げるなど。
――待って、早とちるなあたし! きっと内田くんは誰か先生を呼びに行ったのよ‼ そうよ、そうに決まってる!
あくまで内田を信じる方向でしばらく待ってみたが、それらしい気配が全くしない。
つまりそういうことは《あり得る》というのが現実だった。しかし、
「あり得ねぇ~~~~‼」
と叫ばずにはいられない壱与だった。怒号とも言える咆哮と共に手に思わず力が入る。
「……‼ 痛っ! 痛いって! ちょっ、マジ‼ 折れる、折れ……いや、もげる‼」
「うっさい! 黙れ‼」
腕を殊更強く捻じ上げられて悲鳴にも似た井尻の訴えをほとんど八つ当たりぎみに切り捨てて、呆れと気疲れで崩れ落ちそうな意識を必死につなぎ止めて壱与は生活指導室に歩を進めた。うなだれた井尻を引き連れて。
本当は内田の手も借りて阿久根も一緒に連行したかったが、流石に一人では二人同時に連れて行けない。まぁ、一人連れて行けば後でもう一人を呼び出すことはできる。
阿久根は今、身動きできないので問題ない。
「ホンット、うちのクラスってロクな男子がいない‼」
と、愚痴らずにはいられない。――誰かさんは女子に人助けを振り逃げするわ、助けた奴はその女子を見捨ててトンズラかますわ。
煮え切らない気持ちのまま、動かない阿久根の横をすり抜け体育館裏から出た。
直後に背後でザッと土を蹴ったような音を聞いて壱与は振り返る。
次に視界に飛び込んだのは目の前至近距離まで迫った握り拳だった。咄嗟に顔を背けたが回避には至らず、側頭部にガンッと鈍い音が響いてその場に倒れ込んだ。
殴り飛ばされたことを地面に叩き付けられてようやく認知した。
目の前で火花が散り、ぐらぐら揺れそうになる頭を抱えて壱与は立ち上がった。
途端にいきなり後ろから抱き付かれた。
振り向くとすぐ後ろに井尻の顔が見えた。
その表情は今日一番の不愉快極まりないニヤニヤ顔だ。
「立場逆転だ。ざまぁ~見ろ」
お返しと言わんばかりにそう言い放った井尻を睨み返すも、両腕を押さえられて反撃はおろか身動きすらできない。
「………………」
そして前方には阿久根が無言でこちらを睨みつけていた。
その顔は倒れ込む前に見た不愉快色ではなく、ほぼ無表情だ。時間をおいて落ち着いたのか、それとも怒り心頭なのか。恐らく後者だろう。
壱与は自分の詰めが甘かったことに気付いた。時間をかけ過ぎたのだ。
確かに壱与は阿久根を肝臓打ちで沈めた。手応えも申し分なく、完全に極まったと確信し、事実阿久根はその場に崩れ落ちた。
しかしその後、過ぎた時間は回復するに十分な時間だ。
下手打ったなどと後悔しても手遅れだ。
それでもなんとかならないか、ジタバタもがいてみるが井尻の束縛から逃れられない。
「阿久根! やっちゃえ‼」
井尻が阿久根に止めを要求した。
「……覚悟しろ!」
阿久根が迫るのを見て、壱与は敗北を覚悟した、その時――。
ヒュン……パパァーーン!
鋭い炸裂音と共に、目の前――より正確には阿久根の左側頭部で《白いなにか》が炸裂した。そして阿久根は白目を剥きつつ、やや吹き飛ぶ形で横倒しになった。
同時にさっきまで痛いくらいに体を締め付けていた井尻の腕が解け……背後で井尻が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。一瞬で事が起こったせいで、壱与はしばし呆然としてしまった。ひとまず助かったことは理解できたが、じゃあなぜ助かったのか?
それが最大の謎だ。具体的には《誰》が《どうやって》自分を助けたのか?
「一体、なにが……」
原因究明のため、とりあえず近くの井尻を調べることにした。
――って言うか生きてるわよね?
確認してみると、どうやら気絶しているだけだった。
一応、安心ということで胸を撫で下ろすと――。
「ん?」
井尻の右のこめかみに白い円形の跡が付いていた。その周囲――顔の右側と頭髪になにやら《白い粉》が付着している。続いて壱与は阿久根の方を確認してみると、阿久根は左のこめかみに井尻同様白い円形の跡と周囲に《白い粉》が付着していた。
「間違いない。これって……」
それは《チョーク》だった。ただし、それは既に原形を留めてはいない。欠片と言うのも躊躇われるような細かい粒状の白い物としか言えない状態だった。
つまり、阿久根と井尻は粉々になる程の強さで投げられたチョークをこめかみに受けて気絶した。ということだ。それなら、残る疑問は《誰》がやったのか?
あの時、壱与から見て右の方向からチョークは飛来したのだから、当然《誰か》はその方向にいたことになるが、壱与の視界にそれらしい人物は映っていなかった。
ならばもっと向こうから、壱与の視野と障害物も考慮すれば、少なくとも壱与が歩いていた渡り廊下付近から向こうにその人物はいたと考えられる。
そんな馬鹿な、と壱与は速攻で自分の仮説を却下した。
そんな長距離からチョークを正確にこめかみに……しかも二人同時に命中させるなど、プロ野球選手でも不可能だ。まぁプロ野球選手がチョークをボール並みにコントロールできるかどうかは知らないが。
それに、チョークがこんな粒状になるまで強く投げるなんて、末広でも無理だろう。
もしかしたら末広が普段は空護に手加減していて、本気を出せばこれだけできるのだとも考えたが、そもそも末広なら教師として不良生徒を堂々と指導すればいい。
こんな人知れず《必殺仕事人》みたいなことをする必要がない。
「ホントに……誰が……?」
不意にある人物が脳裏をよぎった。壱与を助けた人物は最低限チョークを持っている。だがこの時間こんな場所でチョークを持ち歩いている者などそうそういない。
しかし、その人物は少なくともチョークを持っていた。
なぜなら別れる直前に壱与が直接手渡したからだ。
「ない! 絶対ない‼」
そう言うと壱与は頭に浮かんだ可能性を全力で否定した。あのヘタレにそんなことできる筈がない……って言うかする筈がない。
壱与はこれ以上考えても分かる訳がないと、この問題を無理矢理畳んだ。それに、実はもう一つ片付けねばならない問題が目の前にある。
「「…………」」
すぐそこで白目剥いて倒れている不良二人をどうするかだ。このまま放ってはおけないし、だからと言って目を覚ます気配もない。今度は確実に演技ではない。
仕方なく二人を引きずって生活指導室に連行した。しかし問題はそれだけではなかった。
「……どう説明しよう?」
壱与には生活指導担当に、なぜこんなことになったのかを説明して信じてもらえる自信がなかった。