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なにもない場所に自分だけが存在している。周囲は前後左右全面が灰色一色の空間で、そこに体一つで浮遊している状態だった。
極めて非現実的な状況だが、不思議と違和感がなかった。これが当然だと、ごく当たり前なのだと受け入れている自分がそこにいた。
非現実な状況を不自然な程に自然と受け入れているのは、今がどういう状態なのか完璧に把握できているに他ならない。今自分が置かれている状況……それは、
「夢だなこれは」
頭で考えた一言がそのまま口から出たことに空護は溜息を漏らした。夢の中で。
見ている間はそれが現実か夢か区別がつかず、どれだけ非常識なことが起きても自然に受け入れてしまうもの。そして目覚めて初めてその不自然さを自覚できるもの。それが空護の認識する夢だった。
それでもたまに今自分が見ているのは夢だと自覚できることがあるのだ。しかしそれは空護にとって決して面白いものではなかった。なぜならこの自覚できる夢は毎回同じ内容だからだ。
地面のない空間で歩を進める。空護は歩きたくないが夢の中の体は意思とは関係なく動く。これもいつものことだ。
やがて灰色の空間に自分以外の誰かがいるのを知覚する。少年だった。その子は背を向けて蹲っている。年齢は自分よりずっと幼い。毛質が固そうな黒髪で、両手で耳を塞いで泣いている。
空護は腹の底から情けない奴と思った。正直見るのが不快だった。これ以上視界に映したくなかったが、夢の中の体は勝手に少年の顔を覗き込む位置に移動する。
少年の顔を――見たくもないのに――覗き込む。涙にぬれる瞳は金色だった。
そう、泣いているのは昔の空護自身だった。
存在しない地面から足が離れる。体が上昇し、幼い自分を見下ろす形で向かい合う。
すると今度は全く違う誰かの声が鼓膜を揺らした。
『どっか行けよ化け物』
『そうだそうだ。山に帰れ金眼の化け物』
『うわっ睨まれた。気持ち悪い』
『最悪。なんであんな奴と同じクラスなの』
周囲から絶え間なく浴びせられる中傷の言葉。最初は声が聞こえるだけだったが、次第に黒い人型が現れ空護達を取り囲んでいく。それらは徐々に数を増やしていった。
今まで腐る程に見飽きた夢の光景。以前はもっとはっきりと人間の姿として視認できていた。
記憶にある、実際に空護に対して悪意を口にした者達の姿で現れていた。人間の姿でなくなったのは、空護が彼らの顔を忘れたからか、それとも単純に人間として見なくなったからか。正直それについてはどうでも良かった。
いつかを境にこんな影にしか見えないようになってしまったが、不快であることには変わりない。
ただそれ以上に不快なのが、ここまで言われてなにもしようとしない目の前の幼い自分自身だった。
「……情けない。本当に、いつまでもお前は……!」
過去の自分に対して腹の底から嫌悪感が湧き上がる。
空護にとっては消してしまいたい過去だった。自分を貶める者達については既に関心はない。消すどころか最早思い出すことすらできない存在だ。消してしまいたいのは一切の抵抗をしない無力な自分自身だった。
「なんでなにも言わない? なんで戦わない?」
――だって……嫌われたくない。
空護の怒気を含んだ問いかけに、幼い空護が涙声で返答する。
「とっくに嫌われてんだろうが。今更なにが怖い?」
――でも……一緒にいれば、分かってくれるかも。今は無理でもいつかは。
その返しに空護は更に言葉を荒げた。
「んな訳ねぇだろ‼ 赤の他人に期待し過ぎなんだよ! 大体、こんな連中に理解されたいか⁉ 受け入れられたいか⁉」
――でも……! あの子は受け入れてくれた‼
幼い空護が言い放った瞬間、空護は言葉を失う。
すぐにでも目覚めたい。現実に戻りたい。これ以上この夢を見ていたくない。しかし夢は終わらない。空護の意志を無視して、夢はいつも通りの展開を見せる。
振り向くとそこに少女が立っていた。年齢は幼い自分と同じくらいだった。少女は空護の横をすり抜け、幼い空護の前で手を差し出した。
幼い空護は泣き濡れた顔を笑顔で満たしその手を取ろうとする。
「……っ‼ やめろ‼ その手に触れるな‼」
無駄と知りつつも空護は手を伸ばす。案の定、手は届かない。それ所か自分だけ徐々に距離が離れていく。幼い自分と少女の姿がみるみる小さくなっていく。
枯れる程に叫んだ。肩が抜ける程に手を伸ばした。自分の知っている結末を回避したい。既に起こったこと、変えられない過去、分かっていてもただ傍観するなどできない。
そんな空護の願いとは裏腹に幼い二人は手を取り合い、その瞬間世界が暗転した。
そして再び光が灯った時、目の前にあったのは血に塗れた幼い自分と血の海に沈む動かなくなった少女だった。
見たくない……目を背けてしまいたい。
しかし目を離せない。瞼を閉じることすら許されない。
胸の中に渦巻く感情が何なのか、空護はとっくに知っていた。
悔しさ――怒り――悲しみ――後悔。
今まで数えきれない程に吐き出した。しかし足りない。足る訳がない。そして、この先なにがあろうと満たされることはないと気付いた時、空護はそれらを口にするのをやめた。
ただの言葉に意味はない。必要なものは行動とそれを支える意志。そうして選んだ今の道。
それを否定するかのように幼い自分は泣き続けていた。困難に立ち向かえず泣くしかできない自分。周囲に押し潰されて己を主張できない自分。分際を弁えず、求めた者すら守れなかった弱い自分がそこにいた。
やがて空護は過去の自分に背を向け歩き出した。少しずつ泣き声が遠ざかる。
空護はもう一言も幼い自分に言葉をかけなかった。空護にとって消し去りたい過去。しかし消す訳にはいかない咎。そして今の自分を形作る最も重い存在。
泣き声が完全に消えた時、空護の意識は現実に引き戻された。
目を覚ました空護は実家の店内にいた。カウンター席に突っ伏した形で寝ていたらしく、枕にしていた腕が痛かった。目の前には既にぬるくなったアイスティーがグラスに半分程残っている。
寝覚めは最悪と言っても良い。あの夢を見たのはいつ以来だろうか。原因は明らかに昨日の出来事のせいだと空護は確信していた。
事件の翌日――前夜の影響で午前中に学校は終了、その後に集団下校で帰宅した空護は見事に暇を満喫していた。昨日の事後処理で美空が集会所に顔を出しているので店も休業。空護は誰もいない店内で思案にふけって、そのまま寝てしまったようだ。
壱与は欠席していた。内田も欠席扱いだったが、じきに事件の犠牲者としてニュースや紙面に名前が載って、学校の朝礼で涙を誘うネタにされるだろう。
昨日はその壱与のことが問題になった。家に待機していた源一郎は空護の失態に困惑し、それでも今すぐに始末すべきと指摘してくれたが空護はどうしてもその気になれず、
『俺はいつも彼女の近くにいれる。常に見張って、問題ありと判断したらいつでも動く』
そう言ってこの件を保留にし、源一郎も聞き入れてくれた。そんな源一郎に事件の顛末を聞かされて空護は腹の底から肝を冷やした。
《エトートーカドー》で保護された人質は八人――二人は逃げる途中で犠牲になったと考えられる。そして他の二か所では誰も助からなかった。
なぜなら空護が脱出してすぐに八咫烏が現場に突入したからだ。
全員が魔精と一緒に殲滅させられたのだと察しがついた。後日政府からは突入した時点で魔精に殺されていたと公式発表があると考えられた。なんとも不条理だが、それについて憤る気は全くなく、空護はそこで一旦思考を畳んだ。
物思いにふけるのも飽きたので、これからどうしようと違う思案が頭に居座った。その矢先、カウンターの奥からある人物が顔を出した。
日向だった。ものすごく気まずかった。彼女とは昨日からろくに口を聞いていない。
正直どんな顔をしたらいいか見当がつかない。
無様にあたふたしていると、あっちからこっちに詰め寄って来た。面と向かい合ってその顔をまじまじ眺めて、その表情に全開で疑問符を浮かべた。
「あの……神代、なんで怒ってるの?」
そう、彼女は怒っていた。怖がられていると思っていたのに、なぜか怒っているのだ。
「『なんで?』じゃないわよ、こっちのセリフだし。……なんで昨日からあたしと喋ってくれないの⁉ 結構打ち解けたと思ってたのに、なんで⁉ 別に嫌ってないって言ったのに」
激しく予想外な物申しに――そもそもそんなに打ち解けたつもりもない――空護の思考は完全にフリーズした。数秒後、辛うじて再起動した空護はしどろもどろと弁明に走る。
「えっと、その……昨日は怖い目に遭ったから気を遣ったんだよ。嫌いにはなってない」
「だったらお礼ぐらい言わせてよ! 何度も言おうとしたのに全然聞いてくれないし!」
「礼を言われることなんて、……それより……お前、俺が怖くねぇの?」
当然の疑問だった。昨日は魔狩としての自分をしっかり見られたのだ。あれを見て怖がらないなんておかしい、現に壱与にはとんでもなく拒絶された。ましてや礼なんて。
「怖がる訳ないじゃん、命を救ってもらったんだよ。それだけじゃなく、あなたは昨日たくさんの人を救ったわ。労いこそすれ怖がるなんて、あたしどれだけ罰当たりなのよ」
日向の当然とばかりの発言に開いた口が塞がらない。言っていることが理解できない。
「なにを訳の分からんことを……俺は誰も救っちゃいない。結果として何人かが生き残っただけで、救おうなんて考えてなかった。俺は――」
「悪事に必ず悪意があるとは限らない。それと同じで善行に善意が必要とは限らないわ。あなたが自分をどう思ってるかは知らないけど、あなたのおかげで誰も助からない状況から幾人かの命が救われたの。それはれっきとした事実よ」
その時、空護はとんでもなく間抜けな顔をしていた。今まで誰からも言われたことのない、自分でも考えたこともない理屈だった。これと言った反対意見もないので反論できず、だからと言って容認するのも業腹な気がして、つい話を逸らすように自嘲した。
「……俺は人殺しだ、内田を殺した。それでもお前は俺に感謝できるってのか?」
そんなつもりはなかったのに冷淡に吐き捨てる口調になってしまった。
怒り顔だった日向の表情がみるみる悲しみを帯びる。それを見てやっぱりと勝手に納得しかけたが、彼女の言葉はまたもや予測を裏切った
「あなたが彼を殺したって言うなら、あたしは彼を見殺しにしたわ。救えたかもしれない命にあたしは手を差し伸べることもできなかった……なにかしただけあなたの方がずっとマシよ」
そう言う日向の顔が悲しみに覆われるのを見て空護は理解した。内田を殺した時も日向はこんな顔をしていた。あの時は空護のやり方に傷付いていると受け取ったが、実は日向自身が内田を救えないことに責任を感じていたのではないか。
悲しむ日向を前に空護はどう対応したものか焦った。同じセリフは昨日壱与を言い責めるのに使ったが、まさか相手から懺悔みたいに聞かされるとは思っていなかった。悩みに悩んだ末、空護は昨日のように右の掌を日向の頭に乗せて慰めるように言って聞かせた。
「あれはどうしようない、あいつは救いを求めていなかった。手を差し出さない者に手を差し伸べようなんておこがましいことだ。……だから俺も救おうとしなかった」
日向はしばらく俯いて、両の手を空護の手に重ねると顔を上げてクスッと笑った。
「ふふっ、可笑しいね。文句を言うつもりだったのに慰められるなんて」
「……そうだな」
日向と目が合った。避けていたのは一日足らずの間でも、まるで久方ぶりに顔を合わせたような気分だった。それが照れくさくて空護も笑った。
「とにかく、改めてお礼を言わせて。……ありがとう空護、助けてくれて。それと何度も言うけど、あたしはあなたを怖がったりしないわ。だって……あなたの力は誰かを救える力だもの。それはとても素敵なことだから、救われたあたしが誰より素敵だと思ったから」
図らずもあの時に聞きそびれた答えを聞かされた。聞いて空護の中でつかえていたなにかが消えていくのを感じる……形容し難い妙な感覚だ。それより――。
「神代……今、俺のことなんて言った?」
変に距離感が狂う呼び方をされた気がする。きっと気のせいじゃない。日向は口角をこれでもかと持ち上げると続けて要求してきた。
「あたしね、友達とはあだ名か下の名前で呼び捨て合うって決めてるの。だから空護も、あたしのことは日向って呼んでね」
「なっ……! 神代ちょっと待っ――」
「く・う・ご」
語気を強めて名前を呼ばれ――今すぐ名前で呼べと要求され――空護は尻が痒くなるような感情を抑えてなんとかそれを口にした。
「……………………分かったよ……ひ、日向……」
観念すると、日向は向日葵のように眩しく笑った。それを見て遠い記憶が蘇る。
『あたし、空ちゃんのこと怖くないよ、だって空ちゃん、あたしを助けてくれたもん』
今はいない少女の言葉――随分と長い間忘れていた思い出のおかげで胸に温かいものが宿る。あの娘もそうやって笑う娘だった。懐かしい笑顔と共に与えられる安堵感、それは久しく感じることのなかった安らぎだった。
化け物と蔑まれることに文句はない。それは空護にとって苦ではないし、好ましくない相手から軽蔑されてもどうも思わない。自分は自らそうあることを望み、これからもそうだろう。
それは他の誰でもない己のためだけに選んだ道、理解を求める方が筋違いだ。しかし、そんな自分でも受け入れてくれる人がいるなら……それはそれで悪くないのかもしれない。
「あっそうだ、もう一個お礼言いたいことがあるの。昨日源さんから聞いたんだけど……空護ってば門脇さんブッ飛ばしたんだって⁉ ありがとう! 聞いてスカッとしたわ」
「なっ……⁉ あのおっさん、なにを暴露して……っつうか、えっ? スカッとしたの?」
「うん、すっごく。だってあたし、あの人大っ嫌いだったもの。あっ過去形で言ったけど今も大嫌いだよ。あの人ってお父さんとお母さんに非道いこと一杯言うし、村長さんにも失礼な態度で、最低って思ってたの。だからその話聞いた時は最高に気持ち良かったわ」
日向の浮かべた表情がまた極上の笑顔で、なにかがツボにはまった。吹き出しそうになるのを堪えて空護は出会った当初から気になっていたことを聞いてみた。
「かみし……日向、今更聞くのもおかしいけど、なんでそんな奴の――岩戸村の連中のために生贄になろうとしたんだ? 言っちゃなんだが俺は門脇だけじゃなくあいつら全員ろくでもないと思ったし、仕事じゃなけりゃ絶対に体を張りたくないって思ったぞ」
正直、そんな連中のために生贄なんて……割に合わないなんてレベルじゃない。
「あたしも村の大半の人は好きじゃないわ。でもそれは好きじゃないだけで嫌いでもないの。もちろん嫌いな人もいるけど。それにほんの少しだけど、あたしを気遣ってくれる人もいたわ。そんな人達だけでも助けてあげたいって思ったの」
あんな村でも相応の恩義があり、それに報いたかったと日向は語った。
「それにあたし以上の適任はいなかったと思うわ。あの辺の山は庭みたいなものだったし。自暴自棄とかじゃなく死なずに上手くやれる自信もあって、実際上手くやれたもの」
それでも十分割に合わない行動だと思う。
それならば、空護は今の問答で気になったことを聞いてみた。
「じゃあ仮に門脇だけが危険な目に遭ったとしたら、お前はあいつを助けるか?」
すると日向は瞳を輝かせ、意地悪そうにニンマリとほくそ笑むとこう答えた。
「少なくとも必死になって助けたりしないわね。流石に見殺しにはしないと思うけど、ある程度は怖い目に遭ってもらうわ。知ってる? あの人ったら空護達が来る前に村人だけでヒグマを倒そうって息巻いてたんだけど、自分は絶対に山に入ろうとしなかったのよ。口だけ偉そうなこと言って実際は人任せ、ああいう人は一回痛い目見るべきなのよ」
そこまで聞いて空護の笑い係数は臨界点を突破した。思いっきり吹き出した後、笑い声が止まらなくなる。はっきり言って日向とは馬と言うか反りと言うか、ともかく価値観が合わないと感じており、そんな相手と少しでも強く共感できることがあるのが可笑しくて堪らなかった。変に自信家で嫌いな相手に辛辣な性格とかモロだ。
――こいつ結構面白いかもしれねぇ。
当の日向も空護と一緒に笑い声を上げて、その後二人で笑い合った。昼下がりの喫茶店の中で、空護と日向の笑い声がしばらく響き続けた。




