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――あ~~、イライラする……。
腹の下で熱湯がグツグツ湧き立つような感覚が消えてくれない。
言ってしまえば、どうしようもない程に不愉快だ。
茨城県日ノ出市立天原中学校二年生――天道壱与は黒板に書かれた数式をノートに書き写しながら、そんな感情と戦っていた。
期末試験も終わり、夏休みを目の前に控え、校内はこれ以上ない開放感に満ちている。あまり浮かれ過ぎるのもどうかと思うが、そんなことでこれほど不快感を覚えることはない。原因は別にある……騒音のせいだ。
給食後の昼一番の授業……外では絶え間なく蝉の鳴き声が聞こえてくる。七月も中旬に入り、日ノ出市では梅雨が明け、本格的に夏が到来しようとしていた。しかしこれも違う。
ならば原因はなに?
答えは外ではなく内――教室の中にある。
特定するなら自分の隣の席にだ。やや吊り上がり気味の目を隣に向けると――。
「く~~~~、か~~~~」
もう聞くだけで心地いいのだと分かる寝息が直接脳に響く。
隣の男子生徒が夢の中に旅立っていた。
二年一組の教室内には先生の授業を行う声と共に、カツカツと黒板をチョークで打つ音が響いていたが、寝息はその中でこれでもかと存在をアピールしている。
つまり教室の全員が気付いている……先生も含めて。
――なんでここまで熟睡できるの?
男子生徒は顔面を机上に張り付けて、背中が上下する以外でピクリともしない。
せめて頬杖とか、腕枕をするなら分かる。十歩譲って机に頬を張り付けるならまだ納得できる。しかし――なんで顔面を机に張り付けて苦しくないの?
両腕は見事に床と垂直に垂れ下がり、少しも力が感じられなかった。
もう完全に意識がこことは別のどこかに逝ってしまっている。その姿は『授業なんて受けてらんねーよ』という言葉を見事に体現していた。
見るだけで声が聞こえてきそうだ。当然見ているだけではなかった。
なんとか起こそうと、アクションを繰り返した。この後に起こる現象を回避するために。
まずは肩の辺りを指で突いてみたが……効果なし。次に同じく肩の辺りを軽く叩いてみた……同じく効果なし。肩ではなく、脇腹を小突いたりしたが、全く反応がない。
ついには逆ギレされるのも覚悟して、髪を引っ張ったり、シャーペンで強めに突いたりしたが、全然起きてくれなかった。だからこそ不愉快に思うのだ。
今は黙認しているが、先生が制裁を下すのは確実だ。教鞭をとる身としては、居眠りなど最も許すまじ行為だろう。寝息が響く度に先生の声が不自然に途切れていることから、その時は近い。なんとかそれを回避しようと努力しているのに。自分の行いが無駄にされているようで我慢ならない。腹立たしくて仕方がない。そして、その時は訪れた。
――ヒュン……パァーーン!
空を裂く音ともに《なにか》が飛翔し、目の前で炸裂した。
数学教師――末広恭二の手から放たれた白い閃光は見事に眠れる悪魔の百会を射抜き、煌めく欠片となって床に降り注いだ。
言い換えれば、投げたチョークが一直線に居眠り男子の頭頂部に命中し、粉々に砕け散った。見ていて痛いと言うか聞いていて痛い。それぐらいの炸裂音が教室中に響き渡った。
壱与は経験がないが、痛い筈である。なにせチョークがここまで粉々になるのを壱与は見たことがない。
程良く使い込み三分の二程度に縮んだチョークは、文字通り白い粉となり、大きくても指先程度の欠片となり床に散らばっている。
端から見れば飛び起きそうなのに男子生徒は驚く程のっそりと顔を上げた。ずれた眼鏡を直そうともしない……ふてぶてしいにも限度がある。
「……おはよう、大和くん……」
末広は口角をニッコリと持ち上げて、やさしく目覚めの挨拶を口にした。目は少しも笑っていない。
「…………おあようございあす」
もう呆れる程に寝起きが悪い上に呂律も回っていない。
挨拶を返したことは礼があると言えなくもないが、この空気では社交辞令どころか喧嘩を売っているようにしか聞こえないのはなぜ?
残りの授業が居眠り男子――大和空護への説教に変わったのは言うまでもない。
もう数えるのも鬱になるくらいに繰り返された事象に辟易しながら、壱与は深く息を吐いた。同時に勉学の貴重な時間が無駄に浪費されていること、それを回避する努力が無駄に終わったこと、そしてそれらの原因となった男子に目一杯の不満を漏らす。
「……最悪……」
全ての不満が凝縮された一言に気付いた生徒はいなかった。
昼の授業が終われば後は掃除をしてホームルームをやって放課後だ。
部活動で青春の汗を流す生徒もいれば、今日はどこに寄って帰ろうか漫談しながら帰宅する生徒もいたり、放課後とは生徒が最も自由に動ける時間と言える。
その自由な時間に自由を奪われて挫けそうになっている男子が約一名。
「なぁ~、見逃してくんない?」
「……却下」
挫けそうな男子――空護を引きずりながら壱与は冷淡に吐き捨てた。襟を掴む手にこれでもかと力を込める。逃げられてたまるかと念も込める。
直毛だが、固めで逆立ち気味の……まるでウニのようにも見える頭髪と、世にも珍しい金色の目――家族遺伝の特異体質らしい――が特徴的な空護の顔は不満と疲労でなんとも情けない表情をしていた。
普通にしていれば割と整ったルックスをしているのだが、今はただのダメ男にしか見えない。ずれ気味の黒縁眼鏡も情けなさに拍車をかけていた。
こんな状況になっている理由は、帰宅しようとする空護を発見したからだ。
空護はそもそも帰宅部なので、本来なら帰宅しても問題ないのだが、職員室に呼び出しを食らっているなら話は別だ。
理由は当然、数学で居眠りしたため。今学期全ての数学の時間で居眠りしたのと、中間と期末で連続赤点を獲った――説教中にその話題が出た時は教室中に爆笑と失笑が入り乱れた――となると見逃してはもらえなかった。
そもそも、これだけのことをして呼び出されているのに……しかも授業後にクラス全員の前で公然と言われていたのに、人目も気にせず堂々と帰宅しようとした空護の頭が壱与には理解不能だ。
「そもそも寝なきゃいいじゃない」
「いや、俺も寝たくて寝てる訳じゃなくて、……ただ、どうしても抗えなくて」
「言い訳すんな!」
「いやホント。眠くなってもなんとか目を覚まそうと必死なんだって。手の甲抓ったり、シャーペンの芯を手に刺したり――」
「眠気を感じる時点で問題だっつーの!」
「分かってんだって! あのさ、天道の言ってることは正しいよ。最善の考えだよ。でもさ、どうしても最善の方法がとれない場合の最良の手段とか……最悪の結果を回避するための努力とか、そこんとこについても考えて欲しいなぁって……」
「論外よ!」
言い訳を一蹴して一気に責め立てる。
「授業に集中できてない証拠よ! 脳がしっかり働いてればそもそも眠気なんて感じるか! 眠くなるのはなにも考えてないからでしょうが!」
「だからぁー、まぁいいや。俺が悪かったよ。おとなしく職員室に行く」
最後の言い方に釈然としないものがあるが、とりあえず逃げる気はなくなったようなので、襟首は離してあげた。しかし見張りの必要はあるので、結局二人で職員室に行くことになった。すると不意に空護の方から話してきた。
「……なぁ」
「なに?」
「お前なんでチョーク箱なんか持ってんの?」
「ああ、これは――」
末広から教室で使うチョークが切れたから補充を頼まれて、備品室から持って来たのだ。そしてその途中で逃げようとする空護を見つけて今に至る。
「いいように使われてんなぁ、お前」
「なっ!」
あまりの言われように壱与はムッとした。
「人の頼みを聞くことになんか問題あんの!? って言うか大和も少しは人の役に立て!」
「……まるで人が迷惑かけてるだけみたいな言い草」
「現実に迷惑かけてるじゃん!」
堪え切れず、腹に溜めこんだ不満を一気に爆発させた。
「今日の授業だって、大和が説教されたせいで皆がどれだけ迷惑したか! 大事なトコだったのに!」
「それは俺じゃなくて末広先生が悪いだろ?」
「……はっ?」
想定外の反応に思わず言葉を失う壱与。
「だって今こうして説教されに職員室に行ってんだ。だったらわざわざ授業中に説教する必要なんてなかったじゃん。つまり時間の使い方を間違えた先生が悪いんであって、俺は悪くない。」
気持ちいいくらいの開き直りっぷりに壱与は怒るより立ち眩みがした。
「……あんたって……」
「それに天道が迷惑したのは事実としても、皆が迷惑したかは言い過ぎじゃない? お前以外の誰からもそんなこと言われてないし」
「ホントあんたって……!」
「重ねて言うなら、六時間目の社会は頑張ったと自負してる。そこを鑑みることなく人を問題児扱いするのはどうだろうと俺は言いたい」
――だったら数学でもそれぐらい頑張ってみせろ!
腹が立ちすぎて抗議の声は口から出ることはなかった。ただ事実として空護の数学以外の成績や授業態度は悪くない……それどころか科目によっては学年トップクラスだったりする。
「特に、《魔精》についてあそこまで詳しく語れる奴はクラスで俺ぐらいだろ」
こちらの都合などお構いなしに主張を続ける空護の《魔精》という単語が壱与に今日の社会の授業中に起きたやり取りを思い出させた。
授業は《魔精》問題についてだった。《魔精》とは人類の天敵である異形の存在で、もたらす被害は天災と同義に扱われる。既に壱与の祖父の代から社会問題になっており、地球温暖化など《魔精》と比べたら二の次に扱われる問題だった。
しかし、あまりに問題が大きすぎて壱与にとっては今更な感じが強く、面白みに欠ける内容ではあった。だからと言って居眠りなどしないが。
そんな中、生徒に投げられた『《魔精》とはなにか?』という質問に対する空護の回答がこうだった。
『一般的な生物の分類に属さない動植物の総称。一般的な分類に属する個体であっても、同類とは明らかに異なった特徴を持つ変異体。もしくは人間と明らかに異なる身体的特徴を持った知的生命体を指す言葉。発生原因には諸説あり、その一つに――』
そこから先は聞いていない。科目担当の松本が『それ以上はいい』と説明を遮ったからだ。それでもクラス内でどよめきが起こった。
まるで辞書に記された内容を朗読するように詳細な説明をスラスラと口にできる空護に対する反応は、賞賛三割、ドン引き七割だった。因みに壱与はドン引いた側だ。
すごいとは思った。だが披露された知識が深くて近寄り難い感があった。言い換えればマニアに対してちょっと距離を置きたいな的な感じ。
《魔精》への対処は防衛相――自衛隊が行うのが主で、ミリタリーマニアなんかが詳しかったりするため、空護もそっち系かとやや嫌悪した。
思い出し、目の前で胸を張る空護を見て壱与のストレス指数はウナギ登りだ。
社会問題とは言え、《魔精》の被害が出るのは主に山間の田舎が多い。日ノ出市も田舎と言えば田舎だが、近くに自衛隊の駐屯地があるせいか被害が出たことはない。少なくとも壱与は知らない。そのため身近に感じることはなく、そんな知識を得るぐらいならもっと勉学に励めというのが壱与の本音だった。
空護にもその労力を数学に生かせないのか文句を言いたい壱与だったが、目に飛び込んできた光景に言葉を止めた。
職員室に向かう渡り廊下からは体育館全体を見ることができる。その体育館の裏に三人の男子生徒が入って行くのが見えた。まるで人目を忍んでいるような様子は誰から見ても不審に見える。当然、二年一組学級委員長兼風紀委員である壱与の《対違反者センサー》は全開で反応した。
「ありゃ内田だな」
「内田くん……?」
空護の言葉に壱与が更に疑惑を深める。
内田実は同じクラスの男子生徒だ。大人しい性格で、いつも一人で友達といるのを見たことがない。その内田が誰かとコソコソ人気のない場所に行くことがなおさら不自然だと壱与には思えた。
壱与は自分の仮説に確証を得るため(心の底から不本意だが)空護に話しかける。
「ねぇ、あんた内田くんが誰と仲いいか知ってる?」
しばらく考え込んでから空護は「いや、知らない」と返した。確証が得られるとは期待してなかったが、後に続いた空護の言動は壱与を驚かせた。
「……嫌な予感がしてんなら……多分当たりだ」
「えっ?」
驚いた反応をしてしまったのは自分の考えを空護に見抜かれたためで、それについては少し恥ずかしかったりちょっと意外だったりするのだが、そんな壱与の心境など気にしないように空護は話を続ける。
「一緒に居たのは三組の阿久根と井尻だ」
「……‼」
その名前を聞いて、壱与は自分の仮説の確証を得た。二年三組の阿久根拡と井尻耕治の二人は同級生では一番の不良生徒である。
そんな二人があろうことか内田と友達の筈はない。つまり――。
「あの二人ガラ悪いからなぁ、十中八九たかられてんな。……助けるか?」
言うまでもなく、壱与の行動指針は既に決定済みだ。
「もちろん! さぁ行くわよ‼」
「おう。頑張って行け」
熱い決意を固めて勇んだ壱与だが、その一言で不意によろける。今にも駆け出そうとしていたのに、水を差すとは正にこのこと……タイミングも完璧だった。
「……ねぇ」
「……? なんだ?」
――わざとやってる? 分かっててやってるの? 大体あたしより早く状況に気付いてたんでしょうが! なのに『助けるか?』って振るだけ振って全部丸投げかい‼
空護のあまりの対応に腹を立てる壱与は言葉を捻り出そうと必死だ。ただ怒りのあまり胸の内で叫んだ内容が言葉として形を成してくれない。代わりに空護が言葉を紡ぐ。
「……行かないのか? 早くしないと内田が残念なことになるぞ」
その一言で壱与はキレた。今日一日の空護に対する不満全てが小事に思えるくらい。
むしろそれらが仕込まれた火薬で先の一言が火種となり、壱与の怒りボルテージは一気に臨界点に到達した。
「あんたねぇ‼ 男のくせに! そこまで分かっててなんもせんのか!?」
「こういうのはやりたい奴がやればいいの。それと天道、男女平等って言葉知ってるか?」
「ざけんじゃねぇーわよ、女に荒事振り逃げする奴が平等ってどの口がほざくっつーの‼」
「天道……少しおしとやかに行こう。今のお前キャラがえらいことになってる。……大体、俺には無理だよ。知ってるだろ」
「うっ……」
その言葉に怒り心頭の壱与も思わず口を塞いでしまう。
「俺みたいな虚弱体質が助けに行っても足手まといア~ンド返り討ち確定だから」
空護はものすごく体が弱いのだ。体育の授業はよく見学しており、参加してもすぐ倒れる。体調不良で学校を休むこともある。
「だからって――」
「いや~~、勘弁してくれ。痛い目に会いたくないし」
「…………」
壱与は無駄を悟った。このヘタレに期待するのは間違いだと。こんなダメ男……いたとして猫の手にもなるまい。なによりこのままでは内田の方が手遅れになる。
「……もういい。あたしは行くわ」
「いってらっしゃい」
空護の返事を待たずに壱与は踵を返した。その直後だった。
「おい」
空護が呼び止めた。
「なに!? これ以上言いたいことでも――」
「チョーク箱は置いてけ。それぐらいなら俺が持って行くよ」
壱与の怒りボルテージは臨界点を突破している。それを必死に抑えながらチョーク箱を空護の手の上に叩き付けた。
胸の内で空護に対し、あらん限りの罵倒の言葉を浴びせ、壱与は体育館裏に走った。