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送られる道中、壱与は一言も喋る気になれなかった。あまりの多くのことがあり過ぎて整理がつかない。家に辿り着いてもそれは変わらず、そのせいで、空護からの言葉にすぐに反応できなかった。なんとか反芻して簡素な一言を返すので精一杯だ。
「天道、お前に言っておくことがある……今夜のことは誰にも喋るな」
「…………」
返す言葉が思いつかない。『今夜のこと』が多過ぎてそれがなにを指すのか分からない。それを見越してか空護は今日の出来事を一つ一つ口にした。
「事件にお前が巻き込まれたこと、内田になにが起こったのか、俺と神代について……俺の正体と、神代があの場所にいたこと全てに関して他言することは許さない。断わっておくがこれは頼みじゃなく警告だ。もし聞き入れられないなら――」
「……あたしを殺す?」
「………………」
そうして強制的に事態が整理され、壱与の抱える疑問と感情が浮き彫りになってきた。
その感情を向けるべき相手は壱与の最終確認として放った問いにすぐに答えない。
それを責めるかのように壱与は先刻に起きた事実を突き付けた。
「内田くんを殺したみたいに?」
「……必要とあれば……な」
「そう……殺しちゃうんだ…………やっぱりね。……この……人殺し‼」
聞きたくない答えだった。この男は壱与にとって人間の領分と言える一線を踏み越えてしまった。その瞬間、壱与の中でなにかが弾け、感情の濁流が理性を決壊させた。
人間として正しくあって欲しい――空護の答えはそんな壱与の願いを踏みにじった。
――いつもそう、こいつはあたしの苦労なんて知らずに全部台なしにする!
「あんたが何者なのか! なんであんな人間離れしたことができるのか! 聞きたいことは山程あるけど、この際どうでもいいわ‼ ……なんで内田くんを殺したの⁉」
「………………」
「あんたなら、あんなことができるあんたなら……内田くんを助けられたんじゃ――」
「魔精化した人間は殺すしかない。人間に戻す方法がないからだ」
沈黙の後に発した声はまるで感情の消えた機械のようだった。
「凶堕は例外なく人間に害なす危険な存在だ。被害を最小限に止めるために必要な手段だ。なによりああなった時点で人間として死んだも同然、あれはもう内田じゃなかった」
酷く無責任に感じた。開き直りにしか聞こえない。
「でも……‼ なにか方法があったかもしれない! 殺す以外になにか――」
「例えばなんだ? 今、この場で即答できるか?」
「……っ‼ なにって……それは……」
「人のやり方に口を出しときながら、自分はなにも考えてないのか」
その一言が更に壱与を激昂させた。そこまで言われる筋合いはない、自分は正しい選択をしようとしていたのにそれを間違った方法で邪魔した相手に言われたくない。
「なによ! 偉そうに……じゃあ、あんたは自分が正しいとでも⁉ 自分が間違っていないとでも言うつもり⁉」
「そんなつもりはない。あれが正しかったとは俺も思わない」
「……なんですって?」
意外な言葉に昂ぶった感情が少々収まるが、後に続いたのは謝罪でも弁論でもなかった。
「天道……お前は正しい。内田を殺さずに救うっていう考えは正に最善だった。だが最善が最良であるとは限らない。正しい考えが正しい結果を得るとは限らないし、最も確実な手段が善であるとは限らない。あの時、少なくとも俺にはあれ以上の方法は思いつかなかった……例え間違いでも、あれが最良の方法だった」
それは壱与の信じる善を侮辱する理屈だった。到底聞き入れられない主張に壱与の激情は再び熱を灯した。
「ふざけないで! 間違ってることが分かってて、そんな――」
「そしてなにより、お前のようになにもしないこと以上の間違いはあり得ない」
「……えっ?」
「間違いと知りながら選ばなきゃいけないこともある。そもそも目の前の選択肢に正解がある保証なんてない。それでもなにも選ばないなんてことは許されない」
――なに? なんなの? あたしが悪いって言うの?
戸惑いと共に熱が冷めていく。いつの間にか立ち位置が逆転していた。今明らかに責められているのは自分だ。
「……考えればなにか方法があったかもしれないじゃない。なにか正しい方法が――」
「どんなに優れた考えも実行しなければ無意味だ。なにより考える時間があったか? あの時、内田を救えなかった時点でお前の言う正しさにはなんの価値もない」
苦し紛れの言い訳は即座に斬り捨てられる。涙が滲んだ。内田の時の再現だ。
――違う! あたしは間違ってない。悪いのはこいつだ、あたしはなにも悪くない‼
精神が荒れる中、駄々を捏ねるように自己弁論を喚いた。
「あたしは彼を助けたかった、助けようとした! なのにあんたが殺した! だから――」
「だったら俺より先に助ければよかった。だがお前は助けなかった、助けられなかった」
事実、正論を容赦なく叩き付けられた。全てお前の責任だと、力不足のせいだと。もはや顔を上げられなかった。しかしやむことのない非難は壱与を更に傷付ける。
「人殺しと罵りたければ好きにしろ。それを否定する気はない。でも……お前は卑怯だ。間違いを責め、正しさを押しつけながら、その方法を提示することはせず、挙句に自分を省みようともしない。そんな奴に……とやかく言われる筋合いはない」
口調は静かだが、その態度には有無を言わせぬ迫力があった。それに気圧されて壱与はなにも言えなくなってしまった。いや、理由はそれだけではない。空護の言葉は壱与の胸の奥を激しく抉った。今まで培ってきた価値観を全否定されたに等しい。その衝撃は凄まじく、壱与は返す言葉を失っていたのだ。更にダメ押しに空護は口を開いた。
「最後に……もう一度警告する。今夜のことは絶対に誰にも喋るな……いいな」
そう言って空護は背を向けて、颯のように夜の闇に消えていった。
本当に……本当に静かな口調だった。しかしそこに自分を諭すような穏やかさは皆無で、こちらに向けられた両眼には一欠片の光も宿っていない。いつもなら眩しく見える金色の目が酷くくすんで見えた。失望、軽蔑……そんなものとは比べ物にならない、今まで向けられたこともない――まるで存在自体を認められていないような視線。
気付けば双眸から涙が溢れていた。壱与は泣いた。悔しかった……自分の信じる正しさを全否定されたことが。情けなかった……それに対してなにも言い返せなかった自分が。
そして恥ずかしかった……空護の言葉に正当性を感じてしまったことが。自分をここまで叩き折った相手を僅かでも正しいと感じてしまったことが。自分には誰かの言葉に簡単に屈してしまう程度の信念しかないことが恥ずかしくてたまらなかった。
壱与は泣いた。しかし泣き声を上げられなかった。誰にも聞かれたくなかった、自分でも聞きたくなかった。誰かに泣き声を聞かれることが恥ずかしくてたまらなかった。
この日、壱与は悔しさや恥ずかしさで泣くことがこんなに苦しいのだと初めて知った。
でも……決して知りたくはなかった。




