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いきなり見たことのない番号から着信があった時は驚いた。しかしそれは風真だけ。
煉と源一郎はすかさず空護からと気付いて電話に出て、スピーカをONにすると風真に声を出すなと指示した。スマートフォンから聞こえてきたのは間違いなく空護の声だった。
なぜこんなことにと訝しんだ風真に煉は、
『経緯は分からないけど人質になってスマホ取り上げられたんだね。でも前もって死体かなにかから別の携帯を回収してそれを懐かどこかに仕込んでるんだよ』
僕らに情報を伝えるためにね、と筆談で説明してくれた。声を出さないのは向こうにこちらの声が聞こえないようにするためだ。なんで人質になってるんだとツッコミたかったが、同時にそこまで周到に手を打てる空護に風真は感嘆した。
そんな空護の機転でもたらされた情報は実に有益で、危機感をこれでもかと煽り立てるものだった。犯人達の人数、構成、配置、更に現在地までも知らされて救出作戦の段取りは滞りなく進んだ。
しかし事件に胎魔が関わっていることと、連中の狙いが特定封印地という事実に流石の風真も言葉を失った。八咫烏が動くのは決定的――それは想定していた最悪の事態だった。
源一郎から知らされた情報からタイムリミットが近いことは明白だ。急ピッチで準備を整えて完了するや有無を言わせずGOサインが出た。
救出の実行者に選ばれた風真は無言でそれを了承し戦場へ駆ける。作戦の概要は単純に言うと場を攪乱させて人質が逃げる隙を作ることだった。
そうしたい理由は人質の目があるせいで身動きできないであろう空護を動き易くするためで、そのために人質を迅速に逃がす上に魔精達が追跡できないよう足止めする必要もある。よって囮として有能な風真が適任と判断され、風真自身も快諾した。しかし、
――今日程に周りがオレをどう見て、どう扱いたいのか疑問に思った日はねぇ。
そう愚痴らずにはいられない風真だった。確かに空護から囮として有能と言われた時は嬉しかったし、事実自分にはその適性があると自負している。いるのだが、
――必要だからってこんなグロい仮装させられることに納得できるか‼
現在の風真は全身を白い肌と鱗に覆われて見るからに凶堕と瓜二つの容姿に変貌していた。決して魔精化したのではない、変装である。
脱出に成功した人質が不審に思わないよう魔精同士の仲間割れに見せようという配慮だ。
しかしとんでもない代物が材料に使われており、それが風真のテンションを地面にめり込むレベルまで下げ果てていた。
使われたのはなんと凶堕の死体から剥いだ生皮だ。しかも大した処理もしていない剥ぎたて新鮮な一品だった。なんでも源一郎が言うには、図書館に出現した一人が急死して、現場の警官が回収したそれを諸々のツテで譲ってもらったそうで。
そんなものを身体に張り付けて大丈夫かと筆談で声を大にして主張したが、発気を纏えば問題ないと言い切られてしまった。短時間で特殊メイクなど比ではないクオリティに仕上がっていたが、おかげで風真の受ける不快感は十割増しである。
ヒグマの件も合わせて、自分が死体と縁深くなりつつあることに辟易しながら、今後もこれが続くようなら囮役を辞退しようと風真は決心していた。
――ひとまず、この状況を打破してからの話だけどな。
念のため持たされた空護の叢雲を背負って、落とされた渡り廊下から侵入した風真は状況を視認するや一目散に現場に突進、奇襲をかけた。
目論見は成功し、混乱した人質達は我先にとその場から逃げ出した。例外として空護と日向は逃げ遅れた振りでその場に残っている。二人が脱出するのは人質全員が完全に退避してからだからだ。それを確認してから風真は端から見れば魔精が同士討ちしている体を装いつつ犯人達が逃げた人質を追うのを妨害するように立ち回った。
正直きつい。凶堕五人と更に難儀な胎魔一人の足止めに風真の神経は擦り切れそうだった。しかし最低この階から人質が逃げ切るまでは時間を稼がなければならない。
限界まで動き回ってそろそろ頃合いと判断した。風真は共に離脱するため空護達に駆け寄ったが、空護が風真の背後を見て表情を引き攣らせたので風真も後ろを振り返ると、目に映った光景に硬直した。
人質が一人だけ引き返して来た。誰かと思えば壱与だ。「なにしにきた馬鹿!」と怒鳴りそうになるが、凶堕の一人が壱与に向かって行くのが見えたので素早く跳びかかる。
だがそれより早く、赤い髪を逆立てた派手な魔精に邪魔をされた。無理矢理押し通ろうと右拳で直突きを放つ。しかし軽々と受け止められ、そのまま力任せに投げ飛ばされた。
なんとか空中で体勢を整えて着地してから相手が只者でないと悟る。こいつがリーダー格の胎魔だと確信した直後、次に目に入ったのは壱与に駆け寄って行く日向の姿だった。殊更に気が動転した。必死で止めようと手を伸ばしても目前の敵に阻まれ届かない。
攻めるリーダー格に応戦して二合三合と打ち合う。こちらから攻勢に出たいが気が散って防戦一方だ。押し込まれる中で視界に映ったのは凶堕の手が壱与と日向に振り下ろされようとしている光景だった。
万事休すと思ったその時、空護が疾風の如く壱与と日向を目指し疾駆するのが見えた。それを見て風真は無我夢中で背中の叢雲をブン投げた。空護はこちらを向くことなく片手でそれをしっかり受け止めた。
走りながら自分は馬鹿だと壱与は何度も思った。逃げられるチャンスだったのに、なぜか自分は引き返していた。他の人達はとっくに三階へ続く階段かエスカレータに到達しているだろうに。理由は分かり切っていた、やっぱり見逃せない、彼を……内田をあのままにしておけない。その想いを胸に壱与は惨劇の場を目指し走った。
囚われていた空間に舞い戻り、真っ先に目に飛び込んだのは――異形達が狂乱の如く争う地獄絵図だった。背中に刀を背負った一人が他の六人に追いやられている。
仲間同士で敵対している理由は皆目見当もつかないが、それより追われる一人の近くに空護と日向がいることが壱与の動悸を加速させた。
逃げ遅れたのなら二人も助けなくては――そう思った矢先、追う六人の内の一人と目が合った。内田だった。瞬く程度に視線を交錯しただけで向こうは壱与を認識し距離を詰めた。壱与が認識した時にはもう内田が息のかかる距離にいた。
「天道さん……ダメじゃないか、勝手に逃げちゃ。君には僕のやることを見てもらわなきゃいけないんだから」
「内田……くん」
「さぁ戻ろう。邪魔者がいるけどすぐに片付くから」
差し出される手から目が離せなかった。きっと、もう誰かを傷付けた人間でなくなった手を取ろうとしてできなかった。そうするために戻って来たのに、自分の中のなにかがそれを拒んだ。再び目と目が交わり、しかし歪な微笑を浮かべるその顔を直視できず、壱与は震える声で語りかけるしかできなかった。
「いや、……行けない。あたしは……戻りたくない」
「……天道さん」
「あたしじゃない……戻らなきゃいけないのは、内田くん……あなたよ」
それは教示よりも懇願に近かった。伝えたい、気付いて欲しいと気持ちは抱えきれない程あるのに、それがどうしても言葉にできなかった。もはや内田の良心に縋るしか壱与にできることはなかった。
「戻って、きっとまだなんとかできるから。あたしも……力になるから」
多分、初めて本気で神に祈った、届いて欲しいと。しかし微笑すら消えた内田の顔を見て、その想いは幻想として砕かれた。
「天道さん、本気で……戻れると思ってるの?」
「……えっ?」
「だって僕もう人間の姿に戻れないんだよ。ずっとこの外見なんだよ。周りからどんな風に見られるかなんて言うまでもないだろ」
そうだろうと予感していた。それでも、そうあって欲しくないと信じたかった。
「だから、僕はもうこうするしかないんだ。……別に悲しくはないけどね、僕自身が望んだことだし」
「そんな……そんなことない。きっと皆分かってくれる、だから諦めないで。あたしも手伝うから、できることはなんでもするから」
「なんでも……? じゃあ僕と一生添い遂げてって言ったらそうしてくれるの?」
「……‼ そ、それは……」
「できないよね、だってさっき僕の手を取れなかったし、顔も見れなかったもんね」
失態を指摘されて壱与は黙るしかなかった。そう、壱与は自覚せずに内田を拒絶していた。救いたいと思う一方で彼を自分じゃない誰かに押し付けたいと感じていたのだ。
それを無意識に隠して苦し紛れに出た言葉……なんて安っぽい善意だろう。
「自分が受け入れられないくせに、他の人はできるってなんで言えるのさ。口だけ立派なこと言って……偽善者にも程があるよ」
――やめて、言わないで。あたしはあなたを助けたいの、あなたのために言っているのに、どうしてそんなことを言うの?
もうなにも言葉にできなかった。善意を否定され、それに対して言い返す気力もない。
伝えたい気持ちをまるで駄々っ子のように無言で喚くしかできることがない。聞き入れてもらえない無力感を誤魔化すために内田を責める気持ちすら沸いてきた。
「例え……なにもできなくても、言葉にできる想いに……偽りなんかないわ」
今にも崩れそうな心で寄り添う支えもない精神の瀬戸際に、その言葉は天声のように響いた。争う激音が轟き、耳を塞ぎたくなる状況で不思議と胸に染み込む声だった。
一体誰が、という疑問は顔を上げてすぐに解消された。内田の背後に声の主はいた。
栗色のショートヘアと強い光を宿した琥珀色の瞳をした少女――日向だった。内田は首だけ回して背中越しに話し始めた。
「言葉の意味が理解できないなぁ、僕にも分かり易く説明してよ」
「皆が逃げたわ、あなた達が怖いから。当然あたしも、彼女だって怖いに決まってる。だけど戻って来た。怖いのを我慢してでもあなたに伝えたいことがあったから。それは確かになにか足りなかったかもしれない、それでも言葉より、態度よりも深い場所にある想いは本物よ。じゃなきゃ恐怖を抱えながら戻れる筈がない」
「行動が伴わない言葉ってすごく安いよ。そんなもの無意味だよ」
「ただ思うだけと実際に口にするとでは大きく違うわ。それには十分意味がある。足りないものは後から補っていけばいい。なにより、誰もがあなたに手を差し伸べない中で彼女は言葉をかけてくれたのよ。その優しさを汲み取ってあげられないの?」
「……そんなもの求めてないんだよ、必要ないんだよ。そんなの弱い奴が縋る戯言じゃないか。僕は違う……僕は……僕は強いんだから‼」
体を振り向かせ様に振り下ろされた爪を日向は転がりながら避けた。そのまま壱与の側まで転がり、立ち上がると壱与を庇うように内田に立ちはだかった。
「もういいよ、そこまで見下されてるなんて、がっかりだよ。もっと分かってくれると思ったのに……こうなったら仕方ないね」
背丈は壱与より低い内田だったが、その威圧感はまるで遥か高みから見下ろされているようだった。日向は毅然と向き合っているが、後ろにいる壱与は自分の存在を酷く小さく感じた。そんな二人に内田は凶悪な爪を振り上げた。
「言っても見せても分からないなら、体に直接刻み込むしかないよね。残念だ、本当は生かしたかったけど……せめてあの世で僕の強さと偉業を見届けてくれよ」
目を背けたい恐怖から目が離せない。心臓を鷲掴みにされたみたいに指一つ動かせなかった。自分と眼前の少女は死ぬ――殺されてしまう。受け入れ難い死を拒む術はない。
そしてその瞬間は訪れた。
赤い飛沫が宙を舞った。自分は死んだ――壱与はそう思った、だがすぐに状況の矛盾に気付いた。内田はまだ腕を振り上げたままだ。つまり壱与も日向も引き裂かれていない。答えは疑問が浮かんだ直後に間を置かずに与えられた。
血は内田のものだった。胸から宙に向かって刃が突き出ている。白刃は仄かに黄金色の煌めきを宿し、鮮血を纏ってどこか美しく見えた。そんな不謹慎な思考を振り払い、誰の仕業か見極めようと内田の背後に目をやると予想していなかった人物がそこにいた。
「大和……なんで……?」
少年は答えなかった。既にトレードマークの黒縁眼鏡がないその顔には壱与が知る――だらしなく、ヘタレの人間らしい面影は微塵も存在しなかった。




