3
リーダーの男から会話の許可は貰っていたが、人質となって一時間は無言で過ごした。
蹴り飛ばされた腹部に練気を集中してダメージの回復をしていたのもあるが、一番話を聞きたい当のリーダーがどこかへ行ってしまったのが大きい。多分見回りに行っていると思うが、真面目にお仕事をしたいのではないだろう。
『君って意外と頑丈だねぇ。殺すつもりはなかったけど死んでもいいくらいで蹴ったんだよ。ちょっと自信喪失しちまいそう。……そうだ。隠れてる時って他に誰かいなかった?』
などとほざきながら嬉々として去って行ったので、手っ取り早く殺せる人間を捜しに行ったのが丸分かりだった。
これまでのやり取りからリーダーの性格は自己中心的でプライドが高く、倫理観の乏しい快楽主義者と推測できた。軽い態度から情報を容易に引き出せると踏んでいたが、下手な質問は危険を招きそうなので慎重に応対しなくてはならない。
また蹴られるのは勘弁だしなぁ……と腹をさすりながら空護は次にリーダーと相対した時にどうやって会話を切り出そうか黙考して過ごしていた。空護だけじゃなくその場にいる誰もが黙していたが、沈黙を破ったのは日向の気遣う一言だった。
「……お腹、大丈夫?」
「ん……あぁ、平気だよ。まだじんわり痛むけど」
「……そう。…………ごめんなさい」
「…………なんで謝る?」
「あなたが痛い目に遭ったの……私があのヒトに逆らったせいだから」
その言葉にどう反応すべきか迷った。確かに日向を助けようとして招いた結果であり、その行動を咎める気持ちはあったが、全てを日向のせいにするのは躊躇われた。
どんな理由があろうと行動を起こしたのは空護の意志であり、それによって生ずる責任は空護自身が負うべきと思ったからだ。つまり痛い目に遭ったのは空護のせいでもある。
よって空護は日向を窘めるべきか慰めるべきか迷った挙句、
「……そう思うんだったら、もうあんな真似はしないでくれよ。寿命が縮むかと思った」
そう言い聞かせて腹をさすっていた右手を日向の頭に乗せた。まるで幼児をあやすようなやり方だと気付いて後悔したが、日向が微笑み返したのでどうでも良くなった。
「……和んでるわね。あんた」
互いに死角からかけられた言葉に驚いた。声のした方向へ顔を向けると、生温かい顔をした壱与がいた。肩まで伸びた癖のないセミロングの前髪を横一文字で切り揃え、その下にやや吊り上がった目をジトっとさせている。
――そう言やいたな。
発見した当初は随分気にしたが、自分も人質になってからは存在を忘れていた。
「……おっす天道。今更だが奇遇だな」
「ほんとに今更、そしていきなりいつも通りね大和」
お前もなと腹の底で切り返した。小一時間前にビクビクしていた時とはえらい違いだ。
「いったいどういう神経してんの状況分かってる? こんだけ非日常的に切迫した事態に陥ってなんでいつも通りの態度なの?」
前言撤回。そうでもなかった。
「……お前の目に俺がどう映ってるか知らんが、現状ここにいる誰にもどうしようもないだろうが。だったら慌てるだけ無駄ってもんだ」
「あんたねぇ……。なにもできないんだったらなにしにここに来たのよ? 見つかってなかったんだから助けを呼ぶとかできたでしょ。それを『人質になりにきました』って馬鹿なの? なんのつもりで出て来たの?」
「お前……言うに事欠いて馬鹿とはなんだ馬鹿とは。俺だって本気で人質になりたかった訳じゃねぇよ。大体、人質のことは外でも分かってんのに、助けを呼ぶ意味なんかあるか」
流石にカチンときた。そうせざるを得ない状況だったというにあまりの言い草だ。
いつもなら平気で受け流せるが、今の空護にそんな余裕はない。平静を装う努力をしているのにそれを楽天主義みたいに見られるのもまた腹立たしい。
一気に険悪な空気が漂う。そんな二人を見て日向が控え目に割り込んできた。
「あのぅ……大和くんのお友達ですか?」
あまりに温度差のある質問で空気が弛緩する。戸惑った壱与が改めて日向に向き直った。
「あ~神代、こちら天道壱与。俺の通ってる学校のクラスメートだ。そんで天道、この娘は神代日向。……俺の友達だ」
どう紹介したものか迷った。まさか引き取ったとは言えない。
「えっと……初めまして、天道壱与です。ふーん、うちの生徒じゃないわよね。他校の子? 何年生?」
「あっ同い年です。中二。引っ越して来たばかりでまだ学校は決まってなくて、今は大和くんの家にお世話になってます」
「……へっ?」
日向の発言に壱与は目を丸くしてフリーズした。そのコンマ数秒後に空護は「うぉい!」と絶叫したいのを必死に堪えた。そのせいで人外の言語を口からダダ漏らす事態になった。
更にコンマ数秒後、壱与が怪訝と不審に満ちた視線で空護を射抜いた。
「天道待って、誤解すんな。いやなに考えてんのかなんて知らんけど、その……なんだ、神代ん家と俺ん家って親同士が知り合いでさ、ちょっとした事情で彼女をうちで預かることになったんだ。今日ここに来たのも日用品の買い出しで――」
咄嗟に事実と隠蔽と捏造の入り混じった作り話をでっち上げた。しどろもどろに話すとボロが出そうなので開き直ってみると、我ながら綺麗に筋が通っているように思えた。
聞いている壱与も脳が正常に再起動したらしく納得顔でうんうん頷いている。
《ちょっとした事情》に踏み込んでこない分別の良さにも感謝だ。
「なるほど、結構親しい仲なのね。それ聞いてあんたの行動にも合点がいったわ。最初は正気を疑ったけど、彼女を助けるために体を張ったのね。……ごめん早とちった。確かに彼女ああしないと危なかったわ。それにあんた自身それで痛い思いしてるのに、あたしのあの言い方はちょっとないわね」
素直な謝罪は空護の中のわだかまりを払拭した。
壱与のこういった聡い面を空護は嫌いじゃなかった。今のような会話で事情を察してくれるならもう少し丁寧に接した方が良かったかもしれない。
――いや、もしかして神代独特の雰囲気がこういう空気の下地を整えたのか?
だとしたら只者じゃない、などと一人で悶々していると壱与が続けに日向に話しかけた。
「でもそれならほんとに来たばっかりなのね。引っ越して来たのって土日のどっちかなんでしょ? あたし金曜に大和ん家行ったけどいなかったもんね」
「……? 先週の金曜か? お前来たっけ?」
「渡す物があって。あんたは留守だったからお母様にお渡ししたけど」
天啓が閃いた。空護の中で長く――実際は一日半――燻っていた疑問の答えにようやく辿り着いた。再びなにかに火が着くのを感じた。
「お前か天道⁉ 《夏休み特別課題の追加分》を母さんに渡したのは‼」
「えぇ、あんたってばすぐ帰っちゃったし、伊達や真田くんもいないから家知らないのにあたしが地図片手に届けたのよ」
「いらん世話だ! あれのせいでどんな目に遭ったと……。っつか隠蔽工作に腐心した俺の労力返せチクショウ‼」
「はぁ⁉ あんたなに言って――」
再び論争が白熱しようとした時、冷たいなにかがそれを遮った。
体温と言うか生気が宿らない凍てついた声が空護と壱与を静止させた。
「うるさいよ君ら。喋ってもいいけど静かにしろって八上さんに言われただろ。これ以上騒ぐなら無理矢理に黙らせるよ」
その魔精は小柄でリーダーの男――名前は八上というらしい――に比べるとやや異形化しているが、他の四人よりは人間らしい原形を留めていた。
口もまともに聞けるらしく理性的なやり取りが望めそうな分、殺意を明確に感じ取れた。
おかげでやっと元気を取り戻していた壱与は再度大人しくなったが、空護は相手の魔精を見るや逆になにか言わずにはいられない衝動に襲われた。
「……よう内田。しばらく見ない内に随分とイメージ変わったな」
それを聞いて驚愕したのは壱与だった。再び空護の正気を疑うような視線で射抜かれたが、問題の相手は極めて冷静に受け答えた。
「まぁね。気付いてくれて嬉しいよ大和くん」
しばらく無言で互いの視線を交錯させた。すぐ横で壱与が空護と内田を交互に見やって、まるで懇願するような目をして空護に向き直った。
「なに……言ってんの、大和。このヒトが……内田くんって……そんな筈ないじゃない」
「よく見てみ、面影があんだろ。それに俺と神代は今日ここで内田と会ってんだ。間違えようがねぇし、なにより神代を攫ってここに連れて来たのが内田なんだよ」
見るからに化け物然とした存在と面識がある風に話す空護の態度に、他の人質がざわつき始める。それとも化け物相手に平然と話しかける空護に慄いているのか。
後者の立ち位置にいる壱与は少し間を置いて、恐る恐る内田に話しかけた。
「……本当に……内田くん……なの?」
それに応える内田は壱与には好意的なのか先程より高揚したように微笑を浮かべた。
それを見て空護の背筋に悪寒が走った。
「そうだよ天道さん。正真正銘、僕は内田実さ。……君までここにいたなんて、今日の僕はツイてるね」
なにがツイてるか察しかねるが、内田の返答に壱与は閉口していた。実際に声を聞いても信じられないといった様子だ。今はなにも言えそうにない。代わりに空護が口を開いた。
「この状況でツイてるなんて羨ましい。だったらこの機会にツイてない俺達の質問にちょっとでいいから答えてくれると嬉しいんですが」
「八上さんと話してた時も思ったけど、君って結構大胆だね。僕らに平気で話しかけられるその神経にはびっくりだよ。……態度がちょっと気に入らないけど、その勇気に免じて答えてあげてもいいよ」
空護に対してはもっと冷淡になると予想したが、意外にも友好的だった。
ただ空護の知る内田からは想像できないくらいに勝ち誇った態度が癪に障った。
「じゃあ幾つか質問させてくれ。まず一つ、お前って魔精だったの? 今まで俺達の前では人間の振りしてたとか?」
手始めに聞いてみたが空護にとっては聞くまでもない。
魔狩なら内田が何者かは一目瞭然である。
「その推理は間違ってるよ。大和くんは魔精に詳しいって評判らしいけど、なんだ、大したことないね。……僕は人間だったけど生まれ変わったのさ……人間より優れた魔精に」
内田は優越感に浸るように恍惚としていた。つまりは凶堕だ。
気力と魔晄が入り混じった独特の気配は凶堕の証――外見よりもこれで判別するのが魔狩の定石だ。
よって答えを聞く必要はなく、空護にはこの質問を通じて確認したいことがあった。
一つは内田の心理状態を確認したかった。魔精化した影響か、優位な立場にいるせいか、内田は随分と優越を感じている。言い換えれば調子に乗っている。こういう手合いは口が軽くなるので情報を聞き出すのにもってこいだ。
どれだけ有益な情報を持っているかはさて置き、これに乗じて空護は驚く振りをして、もう一つ確認したい事項を聞いてみた。
「マジかよ……。人間が魔精になるって話で聞いたことはあるけど、本当だったんだな。ってことはここ四階にいる五人と各階に一人ずついる見回りのヒト達は全員が元人間なのか? あのリーダーっぽい八上さんも人間だったのか?」
「……半分正解だね。確かにここにいる全員と見回りのヒトらは元人間だよ。でも八上さんは違う……あのヒトは本物の魔精だよ」
内田は誇らしいかのように赤い目を輝かせた。もしかしてと疑っていた――腹の底では違いますようにと願っていた――が、これである事実を受け入れざるを得なくなった。
八上の正体は生来の魔精――魔狩が《胎魔》と呼ぶ者達だという事実を。確かに他とは比較にならない程に純粋な魔晄を感じたが、そういう凶堕もいない訳ではないので確信はなかった。他の凶堕と似た外見だったのも理由の一つだ。
ある要因で後天的に魔精化した変化や凶堕と違い、胎魔は最初から魔精としてこの世に生を受けた存在だ。
多種多様な種族が存在し、それは人間とは異なる知的生命体――人間ならざるヒトと言うべき生物。そういう意味で、彼らは《本物の魔精》と呼べる存在だった。
この時点で空護は想定していた事態の中で特に厄介な事態に巻き込まれたことを悟った。
下手したら自衛隊が出動する……そうなれば脱出は困難になると危惧していると、内田は聞いてもいないのに重要情報を嬉々として空護に暴露した。
「八上さん達は最高だよ。知ってるかい? 今日ここと同じことが図書館と国分工場でも起きてるんだ。僕達はそのために選ばれた精鋭なんだよ、すごいだろ? 誰にもできないことを今日僕らはやるんだ‼」
それを聞いて今度は素で驚いた。
「ここだけじゃねぇだと⁉ 国分って《日ノ出製作所》のか? 同時に三か所って……それに『八上さん達』って言ったか? 本物の魔精がここ以外にもいるのか⁉」
つい声を張り上げてしまい咎められると思ったが、内田は空護のリアクションに満足したのか笑いながら問いを肯定した。おかげで空護の脳内に全力の警戒警報が鳴り響いた。
どう考えても警察の手に余る。下手しなくとも確実に自衛隊が動く……と言うより多分もう動いている。
自力突破も無理。援護も困難。ならばいっそ自衛隊が助けてくれるのを待つべきか。
そんな消極的な策を検討していると、誰かが消え入りそうな声で喋り出した。
「……内田くん…………どうして……?」
壱与だ。とても小さな声だった。その声は誰にもかき消されることなく、その場にいる全員の聴覚に行き届いた。沈黙の中で壱与は次第に語気を強めた。
「どうしてこんな……馬鹿なことを……⁉」
言わずにはいられない、溜め込んだ感情を吐き出さずにいられない程に彼女の言葉は強く悲壮だった。
それに対する内田の返事は先程の陽気さが微塵もない、極めて冷ややかなものだった。
「馬鹿とは非道いじゃないか、僕にはとても大事なことなんだよ。ようやく思い知らせることができるんだ……今日のために僕がどれだけ我慢してきたと思ってるの?」
「……望んでこんなことを……? じゃあ人間やめて、魔精になったのもあなたの望みなの? なんで……そんなことを……⁉」
「決まってるじゃないか……僕のすごさを分からせるためだよ」
当たり前と胸を張る内田を見て、壱与は愕然としていた。まるで自身に言い聞かすように内田の言葉を繰り返す。
「……すごさを……分からせる……?」
「そうさ、僕の本当の価値も分からずに、どいつもこいつも馬鹿にして……そんな連中に今日こそ思い知らせてやるんだ。僕には誰も敵わない強さがあるってことを‼」
「強さって……まさか魔精になったことがそうだと言うつもり⁉ ダメよ、そんなことで強くなったって意味なんかないわ! 強いってそんなものじゃない!」
「『そんなものじゃない』だって、じゃあ天道さんにとって強さってなに?」
「正しいことをするための力よ。間違ってもこんな風に誰かを傷付けるのを強いなんて言わない。それに、人間やめて手に入れた力なんて偽物よ。本当の強さじゃない」
壱与の訴えをここにいる誰もが正しいと感じた。しかしその正しさは人間でなくなった少年の心には響かず、彼を逆上させる結果を招いた。
「偽物なんかじゃない! 他の誰でもない僕の力だ! 言っただろ、僕らは選ばれたんだ。八上さんと同じ力を得るのに相応しい者として‼ 候補者の中には耐え切れずに死んだ奴らが大勢いた。僕には資格があったんだ、これは与えられるべくして与えられた僕自身の力なんだ! これさえあれば、誰も僕に逆らえない……だから僕は強い‼」
「……! 違う……違う‼ 暴力や理不尽で他人を押さえ付けることは強さなんかじゃない、強くなんか――」
「綺麗事を言うな‼ だったら君はどうなんだ? 学校で阿久根と井尻を力づくで叩きのめした君は⁉ あれと今僕がやろうとしていることのなにが違う⁉」
「そんな……あれはあなたを助けようと――」
「僕は助けて欲しくなんかなかった! 自分でなんとかできたのに君が余計な真似をしたんだ! なんだよあれ……自分がどれだけ強いか見せつけて、優越感に浸ってたんだろ⁉ 君も連中と同じだ、僕がどれ程惨めだったか知りもしないで……‼」
「違……あた……あたしは……」
「よせ、もういいよ天道……。これ以上は……」
無理だと、肩を叩き無言で訴えた。聞き入れたのか、ショックのせいか定かでないが、壱与は崩れ落ちてしまった。今にも泣き出しそうだ。
他の人質はというと一連のやり取りを見て戦々恐々としていた。
いい加減見ていられなかった。内田の言い分は滅茶苦茶だ。自分は強いと言いながら、強者に劣等感を抱くなど矛盾し過ぎている。筋の通っていない相手に正論で筋を通そうなど、壱与でなくとも無理だ。いや、むしろ正論だから無理なのだ。
壱与の言い分は正しい、正に正論だ。しかし正論は誰が聞いても正しい反面、誰でも思いつく言葉でしか表せない。だからこそ相手を黙らせることはできても相手の心を動かすことはできない。なにより説得の類に正論を使うのは死路でしかない。
間違いを犯す者とてなんの躊躇いもなく間違うのではない。良心の呵責と言うか、必ず一度は自問自答して踏み止まる……自身に正論を投げかけて。そして自分は正しくあれないと諦めた上で間違うのだ、そうするしかないと。そんな相手に後から他人が正論を説いた所で『言われなくても分かっている』と返されて終わる。
「天道さん……君がここにいてくれて本当に嬉しいよ。阿久根達がいないのは残念だけど、君にも僕のすごさを分かって欲しかった。今日の僕は本当にツイてる」
とうとう天道が嗚咽を漏らす。やや落ち着いた内田のセリフからこいつの『ツイてる』の意味がやっと分かった。同時に腹の底で沈殿しかけていた疑問の解にも辿り着いた。
「なるほどな、お前が神代を攫った理由がやっと分かったよ。今日も阿久根らに絡まれてたのを神代に助けてもらってたよな、あれも迷惑だったってことだ」
「そうさ、彼女にもどうしても見て欲しかったから。見つけた時は興奮して乱暴に扱っちゃったけどごめんね。でもあれで君も僕のすごさを分かってくれたでしょ?」
日向は悲しそうな表情で何も言わない。代わりに空護が率直な感想を述べた。
「あぁ、お前の誇り高さには感服するよ」
精一杯の皮肉だった。その異常に屈折した自己顕示欲に反吐が出そうだ。自身の弱さに向き合わず、他者の強さを妬むこいつの性根は岩戸村の住人と変わらない。むしろ下手に力がある分、連中より質が悪い。奥歯を噛み締めながら必死にそれを悟られまいと堪えた。
これ以上の会話は正直不愉快だったが、最後にもう一つ確認したことがあるので口を開こうとした時、最もそれに相応しい男が現れた。それを見て主に人間側の空気が凝固した。
「やっほー内田ちゃん、なんか大きい声が聞こえたけど問題発生?」
「いえ、違いますよ八上さん。知り合いと会話が弾んでしまって……」
表面的なフランクさを撒き散らす胎魔に心の歪んだ凶堕が楽しげに歓談している。空護にはそれが酷く滑稽に見えた。
「知り合い? ……えっ、お前内田ちゃんと知り合いなの⁉ うあースゲェ偶然じゃん。そうと知ってたら蹴っ飛ばしたりしなかったな。大丈夫、痛くなかった?」
痛ぇに決まってんだろと強く抗議したかったが、これ以上は事を荒立てたくない。情報を得るなら向こうから話しかけてきたこのチャンスは逃せない。
空護は継続して感情を押し殺し――この男相手は難しいが――相手を刺激しないように再度確認のために口を開いた。
「いえ、恐縮ッス。腹の方はなんとか大丈夫……です。その……それより、図々しいかもなんですけど、内田の知り合いってことに免じて一つ……質問してもいいですか?」
空護としては限りなく卑屈になった態度だった。
これ以上はどう頑張っても下手に出られない。この男と内田がどんな関係かは計りかねるが、この繋がりがなんらかのアドバンテージになって欲しかった。
「別に構わねぇよ。オイラが答えられることなら」
返事は意外にも軽い。俺は肩すかしを食らいそうなのを我慢しつつ、如何にも嬉しそうに礼まで言って質問した。
「ありがとうございます。それじゃあ単刀直入に聞きたいんですけど、皆さんの目的ってなんなんですか?」
「……一応、それを聞こうと思った理由を教えてくれない」
「えっと……ぶっちゃけ安心が欲しいんです。その……八上さん達が目的を達成したら、俺ら必要ないって言うか、解放されますよね? だから、それが上手くいきそうなのか、いつ頃に帰れるかの目安にしたいんです」
理由は予め用意してあった。解放される保証などないが、それを望む心理は不自然ではない。先の不安を軽減したいという欲求にも説得力があるだろうから警戒はされない筈。
「う~ん、ま、いっか。隠す理由もねぇし」
「八上さん……いいんですか? 言ってもこいつらに理解できるとは到底思えませんが」
相変わらず空護に対して不遜な内田の物言いを八上は笑い飛ばした。
「いいのいいの、実はさっき連絡があってよ、もう声明出しちまったらしいから。それに目的は教えてやるけど、その理由まで言う気ないし。内田ちゃんの言う通りこいつらじゃ分かんねぇと思うし」
そう言って八上は空護に向き直って、声高に宣言した。
「簡単に言うとよ、愛宕神社をぶっ潰して欲しいんだよ」
人質全員がキョトンとした。その雰囲気に当てられたのか、今まで一言も喋らなかった人質の老人が追加の質問をした。
「愛宕神社というと幾つかありますが、それは行方市の夜刀神社のことですかな?」
「おうジジイ、そうとも言うな。理由は言えねぇがオイラ達はそこを潰してくれって日本政府に頼んでる真っ最中なんだよ。……返事はまだ貰ってねぇがな」
たかが神社一つ潰すためにこんなことを?
そんな疑問が広がっていくのが分かった。内田の言った通り誰もそんなことをする意味が分かっていない。しかし理由は話さないと言っていたので疑問が解消されることはない。
犯人達には深い意味があるんだろうが、結果期待も失望もせずにどうなるか分からない不安に皆が飲み込まれていった。空護を除いた皆が。
聞いて、空護は戦慄した。
――こいつら、なんてことを要求しやがる‼
他の人質と違って空護はそれがどれだけ大それたことか分かった……分かってしまった。
今日一番の激震が胸中を襲ったがそれを全力で抑え込む。連中が嘘を吐いている可能性も否定できないが高確率で真実だという確信があった。周囲に理解されない嘘を吐く意味がないからだ。
動揺を悟られてはいけない。八上は目的の意図を察する人間をあぶり出そうとしているのかもしれない。もしそうなら勘付かれた瞬間なにをされるか分からない。
――夜刀神社って、《特定封印地》じゃねぇか‼
前の仕事で風真に説明した記憶が蘇った。結論を言えば要求は通らない、通る筈がない。
たかだが市民数十人のために超が付く国の重要拠点を放棄するなどあり得ない。
この時を以って、人質の運命は決まった。要求は通らず、全員が八上達に皆殺しにされる。でもそれが最悪の結末ではない。空護は更に別の結末も危惧していた。
この要求が本当に政府に届いているとしたら、もう警察はもちろん自衛隊すらお呼びじゃない。高確率で政府直属の対魔精部隊《八咫烏》が出て来る。
奴らの仕事は国家に仇なす危険な魔精の駆逐であり、政府は八上達が特定封印地の名を出した時点で連中を国に害ある、または国の機密を知る存在として最優先で殲滅対象に指定しているだろう。それはもう決定事項と言ってもいい。
そしてそうなった場合、八咫烏の特性が空護達に非常に良くない事態を招く。
それが空護のもう一つの危惧だった。
八咫烏の行動目的は敵の殲滅であり、市民の救助はそこに含まれない。
むしろあらゆる被害を被ってでも目的を達することが求められる。彼らが必要と判断すれば突入と同時に人質ごと敵を一撃で吹き飛ばす可能性も高い。
つまり人質の運命は魔精に殺されるか、八咫烏に殺されるかのどちらかということになる。八咫烏と八上達の戦闘に巻き込まれた場合、一般人はもちろん空護でも生き残るのは至難の業だ。
武空術を使えば生き残れるが、それだけはなにがあろうと避けなければならない。
八咫烏は術士のみで構成される部隊だ。彼らは術士と一般人を正確に区別できる。
因みに特定封印地の管理も彼らの管轄だ。そんな彼らの目を欺くのは容易ではなく、魔狩だと判明すれば一発で連行されてしまう。彼らは制約もなしに術士が陽の下を歩くのを絶対に許さない。
こうなれば、いっそ周りに不審に思われるのを覚悟で強行突破を図るべきではないかと空護は真剣に考えた。正体を晒すことを怖れて実行しなかったが、目撃者が後で処理されると確定している今ならリスクは限りなく低い。
仮に生き残る者がいたとしても最悪は後日、空護自身の手で始末してもいい。十人以上の口封じは困難でも一人か二人なら労力も少なくて済む。
そうなると懸念材料として挙げられるのは日向を連れて逃げ切れるかどうかという点だった。内田を見た限り魔精達の脚力は侮れない。
流石に人一人抱えた状態で上手くやる自信はなかった。もし失敗すれば丸腰でやり合うことになる。
――いざという時は……神代も見捨てる必要があるか?
『怖くない……だってあなたの――』
そんな不条理な決断を下す瀬戸際で、あの時の日向の顔と声が鮮明に浮かんだ。途端に決意が激しく揺らぐ。急にあの言葉の続きを聞きたくなった。
なにを考えていると自分を強く叱責した。そんな場合ではない。
こうしている間にもタイムリミットは迫っている。しかし下手をすれば二度と聞けない。
だったら意地でも日向を連れて帰るように努めればいいだろうが、こんなことにこだわって自分の命を危険に晒すのもどうかしている。大して親しくもない人間のためにあれこれ悩むなど全くらしくないと空護は頭を抱えた。
空護は改めて日向に向き直った。自分が今どんな顔をしているか分からないが、目が合った日向は「どうしたの?」と言いたげに首を傾げている。そんな日向を見ると、自分の意志とは無関係に口から言葉がこぼれた。
「神代……あの時、お前……なんて――」
そこまで言いかけた時、《なにか》が目前に突進して来た。
それは裸の上半身に八上や内田のように白い肌と青白い鱗を纏っていた。一瞬見張りの誰かと思ったが、そいつはなんと人質の周りにいる魔精達に襲いかかった。
いきなりの出来事に人質は慌てて逃げ出し始めた。
空護は真っ先に仲間割れを疑ったが、新参者の凶堕と目が合った直後にニィッと笑いかけたので、ようやく察しがついた。
空護も自分の懐に忍ばせたある物を握り締めながらそいつに笑い返した。
「タイミング悪過ぎだ阿呆」
おかげで日向に聞きそびれてしまった。




