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――なぜ?
心の中でただひたすらその言葉を繰り返した。普段の自分なら闇雲に疑問を投げる真似などしない。答えというものは他人から聞き出すのではなく自分で見つけ出してこそ価値があると壱与は信じている。しかし今は幻聴でもいいから自分の問いに誰か答えて欲しいと切に願った。
――なぜ、あたしはこんな状況に陥ってるの?
現状を受け入れるよりもこうなった経緯を振り返り、無駄と知りつつ過去の行動を改めるという現実逃避へ走る。
――昨日に買い物を済ませておけば、いつものスーパーで買い物をしていれば、余計な店に立ち寄らなければ、あの時すぐに逃げていれば……。
そこまで振り返ってやっと詮ないことだと思い至る。だが何度その境地に至っても結局また無為な回想に迷い込んでしまうのだ。この堂々巡りをもう何度反芻しただろう。
なにせ自分が置かれた状況を理解しようと努めても――。
「……どう受け入れろってのよ? こんな状況」
誰にも――化け物集団はもちろん自分以外の人質にも聞こえないように壱与は呟いた。
見渡せば壱与を含めて十二人の人質の周りを六体の異形が取り囲んでいた。
異形は白い肌、青白い鱗に赤い目という共通の特徴を有していても、各々を見比べると人型を保っている個体もあれば右腕が巨大化していたり顔が変形して言語が解読不能になっている個体もいたりと様々だ。見たこともない生物だが、ここにいる全員それがなんであるかを理解していた。
これが魔精だと、壱与はそれだけ辛うじて受け入れた。それが却って壱与の現実逃避に拍車をかけていた。当然と言えば当然だ。今まで知っていてもどこか遠い場所での出来事と思っていた事態に、いきなり直面して正常でいられる方がおかしい。
壱与以外の人質もそれは同じ筈だ。老若男女問わず集められた者達は皆どう見てもただの一般人で、この環境で正常に振る舞える人間なんている訳がない。
「あの~、おトイレ行きたいんですけど宜しいですか?」
いる訳ないと思っていたのだが、あまりに緊張感のない申し出は壱与の意識を無理矢理に現実へ引き戻してくれた。発言者は自分と同年代の女子で栗色のショートヘアと大きな目が印象的な可愛らしい少女だ。肝が据わっているのか、それとも空気が読めていないのかは分からないが、この状況で人外の輩に声をかける行為は多くの視線を集めた。
「駄……目ダ。誰……モ……動カ……スナ……ト……言ワレテ……イル」
少女の申し出は顔面崩壊で滑舌が悪い個体に却下された。しかし少女も引き下がらない。
「それなら、誰か見張ってくれてもいいですから連れて行って下さい」
その提案に今度こそ壱与は度肝を抜かれた。
――見張っててくれって、あなたこんなのに見張られて用が足せるの⁉ あたしだったら一定空間で一対一になるのも無理!
「問題……ヲ……起コスナ……トモ……言ワレ……タ。コレ以……上……騒グ……ナ」
かなり勇気ある訴えであったが、相手も頑として譲らなかった。その対応に少女は不服そうに唇を尖らせている。それを横から見ていた別の化け物が少女を咎めた。
「お嬢さん……。いい加減言う通りにしてくれないかな」
喋り出した化け物はもう一方と違い滑舌は流暢だった。その代わり……いや、そのせいなのか随分と過激な気性を覗かせていた。
「君らはね、オイラ達の気まぐれで偶然生かされてるだけなんだよ。殺そうと思えばいつでも殺せるんだ……。それなのに図々しくお願いをしてきた上に断ったからって不機嫌になるなんて身の程を理解してる? もし、してないんだったら――」
一度言葉を切ると、流暢な化け物は手の鉤爪を少女の首に当てて不気味に笑った。
「ザックリ切り裂いちゃうよ」
途端に壱与の体に僅かに残された熱が失われた。自分に向けられてもいないのに、目前で放たれた殺意は無慈悲に壱与の心と体を侵食した。言葉を失い、人質の中には呻くような悲鳴を上げる者や、これから起こる惨劇を予期して目を背ける者もいた。
それなのに当の少女はというと、果敢にも爪を突き付ける相手の目を見つめ返しているではないか。その顔には少しの恐怖も浮かんでいない。少女の勇敢さに改めて敬意を賞したかったが、この場では不適切な態度だと言わざるを得なかった。
見返された化け物は少女の態度が気に食わなかったらしく、明らかに機嫌を悪くしている。心なしか手にもさっきより力が籠っているように見えた。その様子に壱与は体の震えを止められなくなっていた。
――誰か……お願い! 助けて‼
このままでは彼女が殺される。壱与は言葉にできない助けを必死に乞うた。
自分では助けられない。この状況を回避できるなら誰でもいい。今日何度目かも知れない現実逃避でここにはいない誰かに縋るように救いを求めた。その時だった。
「待て‼」
ここにいる誰でもない声が響いた。突然の事態に自分だけでなく他の人質も化け物達も困惑している。しばらくして全員の視線がある一点に注がれ、そこにいる妙に見覚えがあるシルエットに壱与は掠れる声で呼びかけた。
「……大……和?」
目線の先によく知った黒縁眼鏡をかけたヘタレ男子が必死な顔つきで立っている。
その光景に再び壱与の意識は現実に定着された。
「待て‼」
それは条件反射で口から出た。目の前で起こりかけた事象をなんとか回避しなければいけなかったから。そのためにはこれ以外に手はなかった。そして空護は続けてこう言った。
――なにをやってんだ俺は⁉
心の中で自分に言い放った。今更だがどうするか全く決めていない。はっきり言ってやってしまった感が満載だった。なんの策もなく敵の前に姿を晒すなんてどうかしている。
しかしこうでもしなければ間違いなく日向は殺されていた。例え無策でもやむを得ない判断だったと言うしかない。それでも空護はこうなった経緯を呪わずにはいれなかった。
――まず天道、なんでお前がいる?
日向を助ける方法を思案していた時、空護は敵集団に《練気》全開で突っ込んで離脱する作戦もありと考えていた。一瞬だけ人目に付くだろうがその場の誰も空護を知らなければさして問題はない。だが壱与がいては話が違ってくる。一瞬だろうと目が合えば空護が怪し過ぎる。後日どう言い訳すればいいか分からない。
次に、なにより信じられなかったのが日向の行動だ。
――そりゃ一人または犯人の誰かと二人だけになってくれれば助け易いけども、今日び『トイレに行きたい』っつって引っかかる阿呆がどこにいる。しかもどんだけ腹が立ったか知らんが、相手の殺意を煽る態度を取る奴があるか。殺してくれと言うのと変わんねぇ。
実際殺されそうになったため、やめさせるには注意をこちらに向けるしかなかった。
以上の事態が重なった挙句、空護はどこぞのヒーローかとツッコまれる勇ましいセリフと共に姿を晒す羽目になってしまった。やってすぐに激しい後悔と羞恥心に苛まれる。
せめてセリフは必要なかった。
そんな空護に犯人グループと人質は珍獣を見るような目を向けている。少し沈黙した後、空護に話しかけたのは日向を殺そうとした魔精だ。
他の魔精と共通の特徴を有していたが、引き締まった長身にダメージジーンズと真紅のタンクトップを着合わせた外見と、赤く逆立った頭髪が派手な心証を強めていた。
「言いたいことと聞きたいことが色々あるんだけど、まず一つ……お前はなにしに出て来たのかな?」
――それはむしろ俺が聞きたい……ぜひ教えてくれ。
そんな心境でいたせいか、口にした回答は周囲だけでなく空護すら唖然とさせた。
「あの……えっと、人質になりに来ました……隠れてるのが怖いんで……」
口走った直後にまっ白い視線が突き刺さった。特に人質の方々の視線が痛過ぎる。
それはそうだろう。一瞬とは言え助けに来たと期待させて出て来たのがドロドロの格好した上に、情けない口上を垂れるひょろい小僧だったら誰だって失望する。
羞恥で爆発しそうな空護を見て、相手の魔精はせせら笑いながら話しかけてきた。
「お前なかなか冗談が上手いな。ツボっちゃったんだけど」
相手の背丈が高いので見下ろされる形で睨むと言うより粘つくような目を向けられた。
相手の鋭い三白眼と目線が交錯し、その奥に形容し難い狂気が垣間見えた気がして空護は反射的に臨戦態勢に入るのを必死に堪えた。
「でも言い訳としては苦しいよ。怖いからって無理ない? 隠れてればいいじゃん。折角さ、見つかってなかったのに」
「……見つかったら殺されると思ったから。そうなる前に人質になりたくて」
この人質になりたいというのは半ば本気だった。こうなった以上、独力での現状打破は不可能と考えた方がいい。煉達の援護を期待するならできるだけ近い場所から新鮮な情報を仕入れて、それを外に伝えなくてはと空護は考えていた。
「ふーん。確かに見回りの連中には見つけた奴は殺せって言ってあるけど……」
「……!」
あれこれ考えている最中、会話の中に空護は聞き逃せないワードを発見した。
目の前の男は今『言ってある』と言った。つまりこいつが店内の魔精に指示を出しているということ――連中のリーダー格だということだ。
思わぬ僥倖だった。敵から情報を引き出すには多くの情報を持った相手と自然に会話を成立させることが重要なのだが、空護は今そんな相手と会話を成立させている状況にある。
この機会は逃せない。煉に早く確実な救出作戦を立案してもらうためにも、こいつから色々と聞き出さなくては。それにはなんとしても人質として潜り込む必要がある。
「あの……俺、殺されちゃうんですか?」
「う~ん、どうしようか。見回りが見つけたら殺すことにしてるけど、オイラ見回りじゃないし、別に人質一人増えても問題ないし。う~~ん……よし!」
どうなるかは現時点で運に任せるしかないので空護は身構えた。
「人質様一名追加でーす。なお入場の際に携帯電話をお預かりしておりますので、お持ちの方はこちらに」
言われて出て来たのは日向の相手をしていたカタコト口調で喋る魔精だ。手にはレジ袋が下げられており、その中に人質の物と思しき携帯電話が幾つも放り込まれている。空護も自分のスマートフォンを放り込むと「これでいい?」という視線をリーダーに向けた。
「はい、ありがとう。それじゃ他の皆さんと一緒に大人しくしててよー。静かにしてればお喋りも許可してるから」
空護は上っ面だけと分かる笑顔で案内され、足早に人質の輪に入ろうとした。
「あっ! 忘れてた」
その一言に振り返った瞬間――鈍い打撃音が響いた。そして空護は宙を舞っていた。
腹部に強い衝撃を受けて日向と壱与がいる付近まで優に五メートルは吹き飛ばされる。人質からの悲鳴がけたたましい場でリーダー格は至極楽しそうな笑顔で言い捨てた。
「最初に『待て‼』ってオイラに命令したでしょ。その一発でチャラにしてあげるよ」
蹴り飛ばされたとすぐに分かった。咄嗟に発気で防御したが不完全だったため衝撃を防ぎ切れず、否でも体がくの字に折れ曲がる。
顔を上げると日向が半泣きになって「大丈夫⁉」を連呼していた。空護は言葉にならない声で無事を告げると無理矢理に笑ってみた。それを見て日向はまだ心配そうではあったが落ち着きを取り戻したようだった。




