異次元散歩
目の前に広がるのは、現実世界では見たことの無いような壮大な異世界風景。
「まさか……本当に異次元へ迷い込んでしまったのか……」
得体の知れない女性の視線を感じながら、僕は呆然と立ち尽くしていた。
午後5時、切なさが入り交じる秋の香りと夕焼けがどこか懐かしさを感じさせる会社からの帰路。
駅前だけが妙に栄えている地方特有のオフィス街の中、人々は疲弊した表情で次々にすれ違う。
そんな街中には靴底とアスファルトがぶつかり合う音色が虚しく絡み合う。それはまるで疲弊した社会人による交響曲のようだ。
学生、社会人、老人、男、女……誰しも心に闇を抱える世の中。こんなにも先進で恵まれた世界なのに、なぜ?
今やどこに居ようとスマートフォンなどの通信デバイスを手に取れば、嫌でも電脳世界が目に入る。有益な情報の裏に蔓延るのは虚言、見栄、陰謀……無意味な自己顕示に偽りの賛美、そんな歪な世界に陶酔している愚かな道化達はひたすらに俯きながら、自らの意志で情報の波に溺れている。
ブルーライトを発する甘美なる悪魔に取り憑かれた現代人よ、自らを虐げていることにそろそろ気づかないといけないよ。まぁ、気づいたところで、もうこのディストピアからは抜け出せないんだけどね。
かくいう僕もそんな人々の一員ではあるが、運が良い事に自己顕示で疲れることは無い。理由はお察しだけど、無意味に鬱憤溜めてる人よりはマシだ。いや……マシなのかな? まぁマシだということにしておこう。
こんな電脳世界が蔓延る中で孤独に生きている僕にも日頃楽しんでいる少し変わった趣味がある。
外界からの音的情報は耳元にしっかりとはめたイヤホンから流れる、かつての自分を呼び覚ますような音楽でシャットアウト。加えて人が滅多に来ない山中をフラフラと練り歩く。そんなシチュエーションが交わり醸し出された異次元感、そこは言うなれば異次元世界! 現代社会と乖離した世界に迷いこんでしまった僕。という非現実感を気軽に楽しめる、ストレス社会が生み出した異常者予備群による遊び、その名も異次元散歩。この聖域だけが退屈な現実世界から僕を解き放ってくれる。
唯一の弊害はスーツで人気のない山道を徘徊する姿は割と変質者寄りの風貌なので、地元のSNSで噂されたりとか、不審者情報に載ったりしているんじゃないかなんて不安に思うこともある。これも現代社会における弊害だよなぁ。でもそんなの関係ない! と開き直る。
オフィスが立ち並ぶ通りは駅前だけで、しばらく歩くと辺りにまさに田舎な感じのトタンで出来た茶色い民家がポツポツと現れ始める。
道が傾斜に変わり、辺りが自然に染まってきたところで現れる里山への入り口の石階段。そのすぐ近くに少し色褪せた微妙な品揃えの自販機がある。この自販機でいつもあたたか〜い缶コーヒーを買い、カイロ代わりに使用する。
見慣れた風景だが、そこに異次元への扉があるのではないかという期待感に胸を膨らませながら、今宵も秋の風と雰囲気のある曲に世界をリンクさせる。
さて、今日はどんな新世界を見せてくれるのか。まだ見ぬ新世界へ心を寄り添わせながら、小さな里山、その名も金山の入り口である石階段へ静かに一歩を踏み入れる。
階段を暫く登ると道は傾斜の厳しい遊歩道へと変わり、さらに進むとコンクリート素材の椅子とテーブルがある簡易休憩所へと辿り着く。勢いが良いのは始めだけで、社会の歯車として、歳月を蓄積した身体では中々に骨が折れる。ここで一旦椅子に腰を掛け、寒空の元、心地よい音楽と乾いた風に身を委ねながら、小さくなった街並みを眺めつつ、少し冷めた缶コーヒーを嗜む。
ほのかに風に含まれる枯草の香りを感じながら、街の外れに無機質に立ち並ぶ、儚く薄赤色に染まった鉄塔をただ眺める。送電線を目で追っていると、どこかに落としてきてしまった何かを思い出せそうな、そんな気持ちにさせられるのだけど、現実という柵が思い出すことを拒絶するかの如く反芻し始めるため、すぐさま平静を保つためにコーヒーの苦味と口の中に広がる大人らしい薫りで気持ちをリセットする。
黄昏モードをしっかりと堪能したところで、この先にある杉の木が立ち並ぶ森へと歩み進む。
道中には小さな橋があり、そこを流れる沢のせせらぎと、水の冷たさを感じさせる香りは、街中の喧騒で疲れきった心を五感全てで忘れさせてくれる。
橋を越え沢を越え森を抜けると、辺りは狭くて荒れた遊歩道へと様変わり。異次元散歩も終盤へと差し掛かかる。今日も異次元への扉とは遭遇できず、ひたすらに自然の中で癒されただけで終わるということに、徐々に現実世界へと引き戻されていく。まあ、当たり前なんだけどね。
如実に強くなっていく現実を感じながらも歩いていると、異次元散歩最終スポット、名も無き小さな神社に到着した。
孤独に佇む古びた神社は特に何の変哲もない。しかし、なぜだか凄く神聖な空気を感じる。人気もないことから、図々しくも僕だけの不思議なパワースポットとか勝手に決めつけている。
この小さな神社の裏手には扉があり、そこから社中へと入れる。ただ、中は御神体の鏡以外は何も無い殺風景な空間。本当は勝手に中に入ったりしちゃダメなんだろうけど、なんだかこの神社に入ることで、受け入れられているという気持ちになるので時折お邪魔させてもらっている。孤独をこじらせすぎて暴走した、行き場のない承認欲求故の感情なのかな。はぁ、いい歳して何やってんだか……
普段はあまり中へ入ることはないのだけれど、今日は何故か導かれているような気がしたので、久しぶりに中へ入ることにし、扉を開けた。
「頭狂亡聖ギブアンドテイクへようこそ!」
そうそう。中には何も無くて……なくて?
その風景は、まるで神々が戯れし超次元の楽園! 大地は無限に広がり、空には無数の浮遊岩が神秘のオーラを放っている!! まるでSFファンタジーの世界に迷い込んだかのような、常識を超越した絶景! そして、その景色を切り裂くかのように、ド派手なネオンカラーに光り輝く未来的な受付カウンター!! これは宇宙最先端の企業が開発した、異次元との交信装置なのか? それとも、異世界への入り口なのか? その真相は謎に包まれている! そしてそのカウンターに立つは、まるで二次元から飛び出してきたかのような超絶神秘的で神々しい雰囲気を放つ美少女! これは現実なのか、それとも夢なのか? それとも、俺の脳内世界が具現化したのか?!なにここ?!
「ここは頭狂亡聖ギブアンドテイク、と貴方は考えているはずです」
受付嬢は丁寧に告げるが、その声音は淡々としていて、どこか非情な響きを孕んでいる。
「まぁ、世界の歪みみたいなもんですよ。選ばれし者だけが辿り着ける、異次元から来られたお客様に最高のサービスを提供する場所です」
「あの、頭狂亡聖ギブアンドテイクだの世界の歪みだの、なんのことやらさっぱりなんですけど……」
僕は戸惑いを隠せないまま、それでも何かに惹かれるように尋ねる。
「で、ここでは何ができるんですか?」
「お客様の望むことは何でも叶えられます」
受付嬢の瞳に一瞬、深淵なる狂気の光が宿る。
「現実じゃ絶対に叶わない願望も、ここならば実現可能。まずはこの異界の調律石に手のひらをかざして、異次元の因子と同調するんです」
「何でも叶うって、具体的にはどんなことなんですか。現実離れしすぎてて、正直信じられないっていうか……」
僕は遠回しに疑念を示しつつ、それでもくすぶる好奇心を抑えきれずに問いかける。
「文字通り、何でもですよ」
受付嬢の口元に不気味な笑みが浮かぶ。
「冒険、特別な力、理想のパートナー……お客様の望みはどんな形であれ実現できます。ただし、『絶対等価の理』により、見合った代償は必ず伴いますけどね」
「代償? それってどんなことなんですか?」
「それはお客様次第ですよ」
受付嬢は悠然と答える。
「望みが大きければ大きいほど、代償も大きくなる。それがこの理の狭間のルールなんです」
「はぁ、よくわかんないなぁ。だって現実とは全然違うみたいだし……」
「ここは異次元、現実と非現実が交差する狭間の世界。君の常識は通用しないんだ」
受付嬢の声音には不思議な説得力がある。
「もう迷わないで。君が探し求めていたのは、この場所なのかもしれないでしょ?」
「……マジですか。信じられない話だけど、まぁ確かに自分の中に秘められた可能性を信じてみたいかもですが…」
半信半疑ながらも、僕はホログラムのパネルに導かれるまま、おずおずと手のひらをかざした。
その瞬間、辺りが眩い光に包まれ、世界が歪み始める。これが新たな次元への片道切符なのか。僕の冒険は、始まったばかりなのだ。というやつなのか?
飛び起きる、そこはいつもの何もない神社の中。なぜ寝ていたんだ僕は。
それにしても、今のは一体何だったんだろう。異次元へ行きたすぎて気が狂い、扉を開けた瞬間に絶頂に達して失神してしまったのだろうか。それとも、神の逆鱗に触れて幻覚を見せられていたのだろうか。
初めての異次元感溢れる奇妙な体験に、沸き立つ高揚感と得体の知れない恐怖感にしばらく呆然としていたが、ふと我に返ると日は沈みかけていて、辺りはかなり夕闇に染まっている。暗がりの神社の社内に霊的な怖さを感じ始めた僕は、ビクビクしながら家路を急いだ。
無事に家へ着き、今日の出来事を思い返しながらシャワーを浴びる。
いったいあれは何だったのか。普段から異次元散歩などという変な遊びばかりしているから、とうとう頭がバグってしまったのだろうか。
自分の中で、今日の出来事が脳の誤動作として納得しつつある中、ふと手首に何かがあることに気がついた。
……なるほど。僕は、異次元の世界へ本当に迷い込んでしまったのかもしれない。手首に出来た文字化けのような痣を凝視しながら、そう思うのだった。