汝らは天使か、それとも悪魔か
終末世界へようこそ。
リアルな世界の描写を頑張ってみました。楽しんでいただければ幸いです。
アブラクサス――汝らは天使か。それとも悪魔か
/橘悠馬
そして、さかしい動物たちは、わたしたちが世界の説き明かしをこころみながら
そこにそれほどしっかりと根をおろしていないことを
よく見ぬいている。
――リルケ『ドゥイノの悲歌』
第一章ユート
一、
仲間の間で警備タワーと呼ばれるのは、電柱に精一杯伸ばした梯子を立てかけたものだ。見張りの当番は交代するまでそこにぶら下がり続けなければならない。僕は重たい自動小銃を手にしてそこに向かった。
そこから世界を俯瞰して、人間が、自分たちの世界が永久に続くと信じ込んでいたことが莫迦みたいだと、僕はいつもそう思う。
僕がぶら下がる電柱以外、周囲に何も建っていない。瓦礫の山だ。灰色に濁った世界。空気は淀んでいる。僕たちが生まれる少し前の世代は、こうなる前の世界で暮らしていたらしい。世界が変わって何年も経っても老人めいた大人たちはこの世界を受け入れられないようで、そろそろ大人になる僕たちはこれよりまともな世界があったのだと想像することは出来ない。
命綱をしっかりとつけて、梯子に足をかけてバランスをとりながら、僕は周囲を見渡す。こんな所を攻撃されたら、地面に叩きつけられて頭がかち割れてしまう。だが、悲しいことにこの世界には電柱以上に高い建築物が存在していない。見張りに使われる警備タワーの電柱だってとても数が少なくて、大抵は折れているか、斜めになって危険なのだ。
かつての世界がどんなものか、いまの僕には想像することもできない。でも電柱がたくさん立っていた世界は見てみたいなとは思っている。
「おーい、ユート!」
ふと、遠くから声をかけられた。聞き慣れた幼馴染の声だ。首を回すと瓦礫の山を苦労してこちらに向かう仲間の姿が見えた。いつもより大きな荷物を抱えて、サブマシンガンを背中に回している。
「コージ、どうした。何かあったのか」
電柱の上から尋ねると、仲間のコージは電柱の近くに座り込んで疲れたように息を吐いた。
「ああ、天候が悪くなりそうだから増員だ。あとで応援が来る。今夜は出るかもしれないって。だから予備の手榴弾と弾倉と照明弾も渡された。あと弁当の支給もあったぜ。おまえの分もある」
「まじか。交代したら食おうぜ」
「荷物が重すぎるぜ。あと、様子はどうだ? 何か変わったことは?」
「いまのところなんにもないよ。何も近づいてきていない」
なら安心だな、と言ってコージは水筒を取り出して水分補給をする。どうやら最短距離でこちらに来たみたいだが、荷物が重いのと急ぎすぎたので疲れたらしい。莫迦だな、と思いながら僕は見張りに戻る。
コージとは幼馴染で、十八になると同時に人類救済委員会の自警団に加わった。人類救済委員会とは、こんな風になってしまった世界で、もっとも力を持った集団だ。僕たちの居住区を防衛するために頻繁に兵隊を派遣し、僕たちのような未熟な志願兵を訓練し、自警団に充分な武器を預けてくれる。僕が持っている自動小銃やコージが持っているサブマシンガンは人類救済委員会の支給品だ。
もし敵が接近して来た場合は方向と距離を確認して、僕は地上に降りる。そして敵がキャンプに近づくようなら銃撃か爆撃して撃退する。前衛は自動小銃を持った僕。後衛はサブマシンガンを持ったコージだ。
自動小銃は正確に射撃できる性能があり、僕は狙撃がうまい。
サブマシンガンは反動が大きいが、コージは力を持っているから、僕が撤退する際はうまく援護射撃してくれる。
僕とコージはバディを組んだ当番兵だ。
ぶら下がったまま廃虚の世界に目を凝らした僕は、ふと、遠くで何かが巻き上がるのに気づいた。まるで砂塵か黒煙のように見える。自動小銃のスコープを外して、僕は遠くに目を凝らす。巻き上がった何かは風に揉まれているのか、奇妙に渦を巻いている。もしかすると竜巻だろうか、と思ったが、かすかに烏の鳴き声が聞こえてきて僕は嫌な予感を覚える。
大人たちがよく言っている。
烏の鳴き声は、不吉な前兆だと。
「コージ、烏が鳴いている」
スコープを覗いたまま下の相棒に声をかけると、コージは慌てて水筒を仕舞ってマシンガンを構える。
「どこだ? 距離は?」
「離れているから判らないけど、用心して。北西の方角。烏の群れが飛んでいる。待って、砂埃が見える……」
「なら、十中八九遭遇だな。ユート、下に降りろ」
「判った」
僕は命綱を外して梯子を降りる。その頃にはコージの目でも砂埃や烏が飛ぶ影が見えるようになっていた。僕は銃にスコープを取り付けて、構えたまま覗き込む。明らかに近づいてくる。まだ十キロ以上も離れているが、歪な影が見えた。
「――敵影確認」
僕の言葉に、コージは頷いた。
「よし、照明弾をあげる」
銃声がして、上空に赤の照明弾が打ち上げられた。これで自警団本部は後衛を整える筈だ。僕たちはその間、敵の進撃を食い止めなければいけない。
こんな世界だから、もちろん銃弾や手榴弾は多用することはできない。
慎重に動く必要がある。
威嚇射撃で敵が退けばいいが、もし敵が進路を変えないようであれば、急所に銃弾を的確に打ち込む必要がある。それは僕の仕事だ。
「どうする、移動するか?」
「高台に移動しよう。銃座をおいて一撃で急所を狙う。失敗した場合は援護して」
「分かっている。こりゃ初めての実戦だな」
コージはわずかに緊張を滲ませた声で呟く。そう、これが僕たちの初陣だ。初めての戦闘活動。初めての、敵との遭遇。
「よし、――行こう」
僕は自動小銃を構えたまま移動する。コージがあとに続く。僕たちは敵の進路を予測して、安全な攻撃ポイントを確保する。ビルの残骸が積み重なった丘だ。僕はそこに銃座を置き、コージは少し離れたところで待機している。
僕はスコープを覗き込んだまま、敵を待つ。
砂埃は大きくなってくる。
そして、それはこちら側に近づいてくる。
「さあ、姿を現せ――化け物」
心臓の鼓動が次第に大きくなる。気を抜けば思わず引き金を引いてしまいそうだった。生唾を飲み込んだ回数も判らない。敵は近づいてくる。時間の経過が正確に判らなくなる。いったい何秒経った。敵は何メートル進んだのか。
来い、来い、来い、来い――。
その時、僕はこの世界のすべてが凍りついたような錯覚を覚えた。
巻き上がる土煙のなかから姿を現したのは、まるでナメクジのように巨体を引きずる奇怪な生き物だった。細長い首に不釣合いな巨体。六つの足を持っている。巨体を引きずっているため、瓦礫の山は次々に崩れて土煙を巻き上げている。初めて遭遇した敵の巨体だった。急所を探そうとしてスコープを動かし、僕はあることに気づいた。体の後ろ半分の肉が腐ったように崩れているのだ。
――これが、僕らの敵……
「……死に掛けている」
僕は後方に待機するコージに聞こえるように声を張り上げる。
「コージ、“足”だ!」
――僕たちの敵は大まかに“足”と“翼”に分類される。
“足”はあのように地面を移動してやってくる敵。
“翼”は空から襲い掛かる敵だ。
どちらも人を殺そうとする化け物だ。襲撃の際、照明弾で居住区の地下にある避難所に非戦闘員は退避される。“足”がその上を暴れると地下が崩壊するため、何としてでも撃退しなければならない。“翼”がやってきた場合は戦闘員も非戦闘員も地下に逃れて、敵が立ち去るのを待つしかない。いまのところ、周辺の複数の居住区に“翼”がやってきたことはない。
「かなり大きいが死に掛けている。急所を狙って仕留める。出来ないときは頭を吹き飛ばすぞ!」
遠くで了解だ、と応える声が聞こえた。
僕は自動小銃を構えて狙いを定める。敵はかなり接近するが、幸い、僕には気づいていない。近距離での銃撃。僕は細い頭の目を狙おうとしたが、銃口の向きを変えて胴体と首の付け根を狙う。以前、教官に教えてもらったことだ。生き物というのは首を取られれば必ず死ぬ。人間や烏やほかの動物も同じことだ。それが敵に通用しないとは誰も証明したことはないという。
首を狙おう。急所や心臓が見えないのだから、狙うとしたらそこしかない。
僕は敵の首と胴体の付け根を狙い、引き金を引いた。乾いた銃声が連なる。瞬きした次の瞬間、スコープ越しに見える首が赤く爆ぜるのが見えた。
命中。
敵の急所だったのか、苦しむような敵の咆哮があたりに轟かした。
「ユート、大丈夫なのか?」
後方で、コージが叫ぶ。
「まだ判らない!」
スコープを覗き込んだまま怒鳴り返して、どうか、これで死んでくれと僕は祈る。何かを殺すことはこれが初体験だった。僕はあっけなく消える命も、燻るように消える命も見たことがない。これが、初体験だ。自ら手にかけた命が消える瞬間を、僕ははっきりと見届けなければいけない。それはとても息苦しく、目を逸らしたくなる瞬間だった。
どうして心はこんなにも重苦しくなるのか。
――一瞬、人間を脅かす敵に対して、僕はほんとうに莫迦なことを考えてしまった。初めて手をかけたが、これは僕たちがほんとうに殺してもいい生き物だったのだろうかと。
「……クソ」
僕は下唇を強く噛む。これも教官に教えてもらったことだ。集中したい時は自分を痛みつけろ。傷つけろ。そうすれば余計に痛がることも傷つくこともないと。
呼吸を落ち着かせ、瞬きを決してせずに、僕は敵が息絶えるのを見届ける。
苦しげに長い首を動かしながら、ゆっくりと敵は頭を瓦礫の上に横たえる。スコープで頭部を確認して、次に胴体を確認する。動きはまったくない。これがほんとうにそれなのか判らないが、僕はゆっくりと息を吐いて目をそらす。
「よし、死んだ」
気づかないうちに汗を掻いていたらしく、僕は寒気を覚えて手の甲で汗を拭う。
「ユート、大丈夫か? 殺したのか?」
コージが瓦礫の丘を駆け上がりながら質問する。そして目の前に巨大な敵の死骸が転がっているのに気づいて、驚きのあまり息を止める。
「……これが、俺たちの敵なのか」
僕は不意に、敵とは別の呼び名を思い出して、頷いた。
「ああ、実物を見るのは初めてだけど……これが、アブラクサスなんだ」
アブラクサス。
それは遠い昔、この世界に住んでいたという生き物らしい。
訓練が始まったばかりの時だった。僕とコージは一番前に座り込んで教官の説明を聞いていた。
いわく、アブラクサスとはわれわれ人類の最後の敵。人類の領土を侵した化け物。アスファルトの道が整えられ、コンクリートやガラスのビルが林立し、地上は車が、空は飛行機が飛んでいたあの世界を瓦礫の山に変えてしまった張本人だという。
木のテーブルを引っくり返して、その裏面にナイフで写真を突き刺していきながら教官は説明を続ける。それは死亡した兵士が撮影したアブラクサスだという。見たこともない化け物の姿がそこにはあった。
教官の説明は続く。
いまだ人類はどの個体も殺したことに成功していない。こいつらは病気か老衰で死んだ個体だ。つまりわれわれは負け続けている。諸君ら自警団はやがてこの脅威と直面することになるだろう。その時、やるべきことをいまからわたしが叩き込む。よく覚えろ――。
それから強制的に記憶させられたのは、敵と遭遇した時に照明弾を打ち上げること。居住区に敵が向かわないように注意を引き付けること。可能なら殺すこと。そしてそれが無理な場合は、とにかく生き延びること。生き残ること――教官は逃げることを恥じるなと言って、アブラクサスに関する説明は終わった。それ以後、僕たちは敵についてよく話をするようにはなったが、アブラクサスという呼び名のことはすっかり忘れてしまった。
今日、不意に思い出すまでは。
「アブラクサスか。ほんと、懐かしいよな。教官に教えてもらったことは覚えているけど、そのことだけはすっかり忘れていたよ」
サブマシンガンを構えたまま、コージは敵に近づきながら呟く。
その面持ちは険しく、用心したままだ。
「だよな。敵の区別も“足”と“翼”だし、アブラクサスなんて呼び方、誰も使っていないからな。忘れて当然だよ」
「……よし、死んでいるな」
「おい、気をつけろよ」
コージはサブマシンガンを構えたまま、敵の頭部に近づきつま先で顎を突いた。近づきすぎだ、と僕は警告する。いまに目を覚まして襲われたら足が消えるぞ。だが、幸いなことに敵は目を覚まさない。
「……間違いないよ。死んでいる。お手柄だな、ユート」
そう言われても嬉しくないよ、と僕は沈んだ声で返す。なにしろこの個体は死に掛けていたのだ。自分の体が半分なかったら、果たして動けるだろうかと想像して僕は寒気を覚える。それは、痛い筈だ。とても痛いことだろう。それほどの大怪我を負ったことはないけれど、これが普通の行動でないことを僕は容易に理解できた。
「見ろよ、あの下半身。腐って崩れ落ちているぞ」
「ほんとだな。でも、おまえが止めを刺したんだ。こいつは間違いなく死に掛けていたけど、おまえが止めを刺さなかったら、きっと止まらずに居住区に突入していたぜ。そうなりゃ、敵の重みで地下は崩壊だ。おまえは英雄だよ。何千人も救ったんだからな」
そいつはどうも、と僕は苦笑いして答える。人を救った実感より命を殺した実感のほうが大きいのがいまの僕には辛かった。
その時、雷のように低い音が聞こえた。
聞きなれない音に僕とコージは、音がする方向に目を向ける。瓦礫の合間から姿を現したのは滅多に使われない四輪駆動車だった。もとは自衛隊の軍用車だったらしく、人類救済委員会から支給されたものだ。どうやら運転はとても難しいようで、危なっかしげに揺れながらこちらにやってくる。
「……あれ、どうやって動くんだろう。前エンジンルームを覗いたことはあるんだけどさ、どうやって動くのかまったく分からなかったよ」
「ああ、そりゃおまえだけじゃなくて、いま生きている人は全員分からないさ。壊れたらもう遮蔽物くらいにしか使えないぞ。あんなの。自分の足で充分だっつぅの」
コージはそう笑って、降りよう、と言った。どうやら増援らしくかなりの人数が乗車している。そのなかには見知った顔も幾つかあった。僕たちが手を振っても、彼らは敵の死骸に目を奪われている。乗車した誰かが「あれはなんだ」「なにって敵だよ! アブラクサス!」「でも動いてないぞ」「死んでんだよ!」と悲鳴と怒声を交互に上げ続けている。
それを見て、僕とコージはもう一度笑った。
「おまえら、無事だったか!」
運転席から飛び降りたのは大柄な男だった。自動小銃を持っていて、腰のホルスターには拳銃が入っている。
「オーヤマさん!」
僕とコージは敬礼する。
彼は僕たちの居住区の自警団を束ねる男だ。
オーヤマは僕たちを抱きしめてから怪我はないかと尋ねながら自分で確認する。
「照明弾が見えた時は肝が冷えたぞ。住人の避難も若干パニックになっていたからな。応援が遅れてすまなかった。怪我がなくてほんと良かったぜ……」
安堵の息を吐いて、彼は表情を引き締める。その視線は瓦礫の山に横たわる敵の死骸に向けられている。
「あれは……おまえたちが倒したのか?」
「そうっす。ユートがやっつけました」
「大したことはしていません。すでに敵は死に掛けていました。体の半分が腐って崩れ落ちていた感じで……首に数発撃ち込むだけで息絶えました」
コージのことばに、慌てて僕は正確に報告する。
「怪我した個体とはいえ……おまえが仕留めたのは事実だな。よくやった。おかげで何千人もの命が救われた」
オーヤマは感嘆の声を漏らす。いえ、と返す僕をコージが肘で突いてくるが頑張って無視する。
「ともかく、委員会の本部に報せないといけないな。使った武器を報告して不足分を支給してもらわないと。しっかし、施設で育った悪ガキどもが立派になりやがって。おまえら俺たちの英雄だな。ユート、コージ」
「やめてくださいよ、恥ずかしい。あと、コージ何もしていません」
「おまえ! 手柄を独り占めかよ!」
僕の一言にコージは信じられないと言いたげに声を張り上げ、それを見てオーヤマは意地悪く笑みを浮かべる。
「そうか、なら帰って宴だな。酒と肉を久しぶりに引き出すとしようか。ユート、おまえの手柄が大きいから誰よりも多目に食え。ただし、なんもしていないコージはみんなと同じ量だ」
「いやいや、オーヤマさん、俺だってユートが失敗した時に備えて待機していたんですよ? 俺だって仕事していたんですから!」
必死で反論するコージの背中を叩いて、オーヤマは冗談だと大声で笑う。ほっとしたコージは次の瞬間、僕に襲い掛かってくるが腕をつかんで僕は背負い投げる。が、コージはなんなく着地して僕に向かい直る。喧嘩だ、喧嘩、と誰かが声を張り上げて笑う。僕とコージのいつものじゃれ合いにオーヤマは程ほどにしろと声をかける。
「よっしゃ、勝負だ、ユート! 勝ったらおまえの肉を全部頂くぞ!」
「いまのことば、後悔するなよ。おまえ、ほとんど僕に勝っていないだろう」
「いや、ときどきおまえに勝ってはいるんだぞ!」
どっと沸きあがる笑い。やれやれ、とはやしたてるような拍手。その日はいつもより誰もが笑い合って、語り合って、杯を交わしていた。これほど最高な気分で過ごせた一日は人生初めてで、僕は決して忘れないだろうと確信する。
――それから一週間後、アブラクサス撃破の功績を認められ、僕とコージは人類救済委員会本部に招聘された。
続編執筆中ですが、いつ投稿できるか分かりません。
長い間待っていただくことになるかもしれませんが、よろしくお願いします。