意識の彼方で
そこに広がっていたのは何もない、白い空間だった。
上も、下も、右も、横も。見渡す限りの白に包まれたその空間にアランはただ茫然と立ち尽くしていた。
ただ、彼の頭上にはぽつりと黒い点があった。
「……龍?」
その黒い点は、ゆっくりと動いている。何もない白い空間を悠然と羽ばたくその龍は目測にして、相当遠い場所にいるが、自由そのものだった。
「……って、ここどこだ?」
ふと、通常思考に戻ったアランが再び辺りを見回した。
先ほどまでの頭痛が嘘のように引いていた。
空から降り注いできた謎の光に打たれた直後から彼はこの白い空間にいる。
先ほどまで共にいたエーテルも、尾行対象のエイレンや、シド。更には王都の人々までもが、ここにはいない。
ビビ……。
「――っ!?」
ふと、アランの眼前に現れたのはノイズだった。そこから現れるのはラグを含んだ一人の人物。
それは、見たことのない一人の少年だった。
おおよそアランと同じほどの年齢の少年が、ただ毅然と目を閉じて立っている。
「ええっと、ここがどこだか分かったり――」
そう言葉を発して、向こう側にこちらの声が届いていないことを悟った。
同じ空間にいながら、相手を認識することが出来ても、声は届かない。そして触れることすらかなわない。
アランの頭の上にいくつもの疑問詞が浮かぶ中で、その少年はハッとしたように今度はアランをじっと見つめた。
じっと見つめているその顔は、次第に憤怒のものへと変わっている。
「……なんだ?」
訳が分からなかった。こちらの声は聞こえない挙げ句、目の前にいる人物へはこちらからコンタクトをとることが出来ずに、何やら怒りの意思表示が見える。
その少年は姿から高貴さが窺える。
何枚もの黄金色、そして紅、紫などの着物を羽織った上ですぐ後ろに映るその椅子も並大抵の値段のものではない。
直感的に、どこかのお坊ちゃんだろうか、とアランはため息交じりに息を吐いた。
「……お?」
その少年は、確固たる意思を持って届かない声でアランに向けて言葉を発している。
その最初の一言は、「お」。
読唇術を使えるわけでもなかったが、その憤怒の表情から繰り出される言葉は単純な殺意を含んでいたからだ。
「おまえを……ころす?」
瞬間、何もない白い空間が、ぐにゃり、ぐにゃりと変遷を遂げていく。
重力も、質量も、色も、自分自身も。すべてが変わりゆくその世界でただ一つ、遙か上空を浮遊する龍だけは我関せずを貫いている。
アランは既に、自分自身を保つことが出来ずにいた。
突如として変化していくその世界に意識がついて行けなかった。
まるで水中に放り投げられたかのような虚無感と、倦怠感。夢か、幻か――彼の眼前には淡い気泡が漂い始めていた。
――あいつは……。
見たことのない景色、会ったこともない人物。だが、なぜか他人だとは思えなかった。言葉で言い表せなかった。その中で、自分に似たものを感じていた。
そんな不思議な疑念を抱きつつ、アランの意識は泡と共に消えていった――。
○○○
「――アランッ!」
ふと、意識を取り戻すと同時に彼が感じていたのは全身の寒気と妙な浮遊感だった。
「水属性魔法――水淼巻害っ!」
落下の感覚と共に、すぐ右隣を通り過ぎたのは水の豪渦。
アランの目でさえも追えない俊足の水を含んだ竜巻が、水の質量と風の気流で相乗効果を生み出して轟音を生み出していた。
眼下でアランを呼んで叫ぶのはシド、エイレン、エーテル、さらにはフーロイド、ルクシア、そして水淼の魔術師ウィス・シルキー。
シドは血相を変えて腰の剣を構えて、今にも抜刀せんとする勢いで鋭い眼光を突きつけている。
エーテルの横には巨大化した海竜の姿。苦い顔をしたフーロイドと、ルクシア。先ほどの水属性魔法の発動はウィスだった。
その面々が見据える先は、いずれもアランの背後だった。
ぞくり、と。地面に向けて急速落下を続けるアランは咄嗟に殺気を感じて背後を振り向いた。
背後にいたのは、巨大な龍の頭が、天空から貫くようにしてアランを静かに見下ろしていた。
「なっんだよ……こいつ……!?」
思わず、落下の恐怖を忘れるほどに。壮大で、強大な気配を放つその龍は今しがたアランが白い空間でまみえたあの龍に他ならなかった。
天空を裂くほどの巨大な龍は、その角から徐々に霧散して雲となっていく。
物理法則の何もかもを無視したその龍の眼光を突きつけられたアランは、まるで蛇ににらまれた蛙のように殺気を身体で受け止めていることしか出来ずにいた。
「海竜! アランを!」
地面の方で、エーテルが落下するアランに向かって指を突きつける。その指示に呼応したエーテルの召喚獣、海竜が「ウガッ!」と短い返答をした後に長い体躯とぬめらせた体躯をアランに近づけていき、滑り台でも滑るようにアランをきれいに地面に着地させる。
そんな中でも、ウィスが大空に放っている水属性魔法は勢いを衰えさせない。
次第に、上空に現れた巨大な龍の頭部は完全に霧散し、王都レスティムを覆っていた厚い曇天が晴れていき、再び太陽が顔を出し始める。
その龍の出現は、王都の民に確かな恐怖を刻みつけて、音もなく去って行ったのだった。
 




