夫婦
「――で……アランは怒ってるのか。そりゃ、マインが悪いなぁ。っははははは」
ファンジオの快活な笑い声がリビングに木霊した。
目尻に涙を溜め、腹を抱えて爆笑しているファンジオに対してマインは何か言おうにも何も言い返せずにいた。
アランの自室からは、小さな嗚咽が流れていた。
「わ、分かってるわよ……。ああ……もぅ…」
頭を抱えつつテーブルの上で突っ伏すマインを見ている内にファンジオは自然と笑みをこぼしていた。
事の発端は昼のことだった。
アランが薪を取ってきて帰ったら、勝手口から少し離れた場所で九十度直角に腰を曲げて謝るマインの姿がそこにはあった。
マインの横の皿の上には焦げきって形が崩れ始めた血染狼の肉塊。
アランが楽しみにしていた肉料理は、最早食材ではなく蠅のエサと化していた。
それを見たアランは、一時呆然自失。そして手の付けられないほど泣き始めたのだった。
「おにくがぁぁ! ぼくのおにくがあああああ!」
そんなアランを泣き止ませるのにはしばらく時間がかかっていた。
アランのように、黒髪に黒瞳を持ったファンジオは筋骨隆々とした太い腕で小さな酒の瓶をぐっと掴んだ。
顎に蓄えた髭をさすりつつ、「仕方ないことではあるぜ」とマインを慰めるかのような言葉をかける。
「まぁ、今までどんな魔法力の適性テストをしてきても、どの属性にも当てはまらないんだからな、アランは。気になるお前の気持ちは分からなくもない」
「……うぅ……」
「一言で済ませちまえば俺たちの手に負える範疇は超えてるぜ」
ファンジオは机に置いていた酒をくいっと一呑みしてから妻の作った造りを無造作に口の中に放り込んだ。
ふと、家の窓から外の景色を見たファンジオ。
家の灯りに反射した草むらには多くの水滴が付着している。
「雨か……。明日は狩猟なんて出来やしねぇな」
ファンジオは腕のいい猟師だった。毎日コシャ村の近くから少し離れた危険地帯に足を踏み入れている。
普段ならばコシャの村人と共同して行かねばならないはずの森での猟だが、ファンジオが同行することはできなかった。
理由は、『悪魔の家系』だから――ただそれだけだった。
悪魔が居れば不幸が訪れる。悪魔と行動をすると自身にも悪魔が宿る。
そんな根も葉もない噂がちらほらと流れる中で、ファンジオが村人と行動を共にするのは不可能だった。
「……ったく、下らねえ……」
酒の入った瓶を見つめてファンジオは小さく毒づいた。
コシャ村から少し離れた場所を狩場にしているものの、そこはコシャの森よりも更に危険地帯だった。
獰猛な食肉類や害虫、そして毒虫が蔓延る森の中で二年半を過ごしたファンジオのスキルはとても高いものになっていた。
そのおかげで普段取れない希少食材や希少アイテムを取れる日々が続いているのだが――。
そんなファンジオの様子を見てマインが今まで突っ伏していた顔をふと上げて夫を見つめる。
「今日、アランがまた天候を予想したわ……」
マインの言葉に、ファンジオの眉がピクリと上下した。
「へぇ、当たったのか?」
「『数時間後に、弱くて長い雨が降る』ってね」
「こりゃ驚いた。ドンピシャじゃねぇか」
不敵な笑みを浮かべつつファンジオは自身の息子がいる二階に目を向けた。
「天候を予測できる……か。人類の偉業だな、こりゃ」
「……どういうこと?」
マインの疑問に答えるかのようにファンジオは「いいか?」と指を三本立てた。
「人類がまだ成し遂げられていない偉業の三つのうちの一つだ。一つ、自力飛行。一つ、航海技術。そして最後の一つに天候予測がある。そのうちの一つをアランは一人でこなしちまってるってわけだ」
「た、確かに……そうだけど……」
「俺たち猟師にとって天候ってのは命を左右するんだ。俺たちでも空気の流れや湿り気から多少は予想できる。だけどいつ、どこで嵐や竜巻、台風や豪雨、雷雨が起こるかなんて皆目見当もつかねえ」
窓の外で降る静かな雨を酒の肴にファンジオは食器棚から一つ徳利を取り出してマインに手渡した。
「え、お酒? 私が?」
「おう。飲んどけ飲んどけ」
為すがまま、されるがままにマインにグラスを持たせたファンジオはその白い歯を見せて笑みを浮かべる。
「いつもお前も頑張ってるだろう。たまにはいいじゃねぇか。焦げ付いた鍋も、洗濯も、アランも。今日は俺に任せとけ」
「え……で、でも……」
「たまにはゆっくりしてくれ。最近頑張りすぎだぞ、マイン。……な?」
ファンジオの言葉に、マインは胸がトクンと脈打つのを感じていた。
さも平然のように「乾杯」と二人の徳利を寄せ付けて、一気に中の酒を飲み干すファンジオを真似て普段酒を飲まないマインはお酒に口を付ける。
「いい飲みっぷりだ。それでこそ俺の嫁さんだ」
「い、意味が分からないってば!」
「いやー村中に自慢してやりたいぜ。『俺の嫁さん世界一ぃぃぃぃッ!!』ってなぁ」
「ちょ、ちょっと……止めてよ……!」
「あー可愛い可愛い。ウチの嫁さん超可愛い」
ファンジオは徳利をテーブルの上に置いて、その太く筋肉のある手でマインの頭を力強く撫でた。
「……うぅ……」
それでも特に嫌がる様子のないマインは、大きく、そして温かな両手の中に顔を埋めたのだった――。