目の前の伝説
為すがままに馬車の荷台に乗せられたアランにとって、今の状況はとうてい理解できるものではなかった。
ただ、その少年の目をしても父親であるファンジオがこの馬車の荷台に乗っていないことに不思議を覚えていた。
ふと隣を見てみれば、エイレンに覆いかぶさるようにして目隠しをする村の猟師たち。
エイレンは「え? パパ? あれって、パパ……?」と手を震わせていたが、大男のアガルは何も言わずに彼女の目を塞ぎ続けている。
片や、もう一方を見てみれば母親であるマインが嗚咽を漏らしつつ、ずっとファンジオの名前を力なく読んでいる。ドン、ドンと破られることのない防御結界を前に項垂れるしかなかったマインはその瞳に雨とはまた別の滴が頬を流れていた。
「……みんなで逃げればいいじゃない……何で、何でよバカ……」
先ほどまで馬車の前で鞭を持つルクシアと、その隣に座るフーロイドに嘆願している様子は見る影もなかった。
ただ、呆然自失に小さく項垂れる母親の姿がそこにはあった。
トクン
アランは心の奥底で小さな鼓動が芽生え始めているのを感じていた。
アランが見据える先には、巨大な生き物に向かって怯むことなく一歩、一歩と進んでいくファンジオの雄姿が目に入っていた。
「……カッコいい」
皮肉にも、ファンジオの死にゆくその後姿をアランは好奇心の塊のような瞳で眺めていた。
自らの何十倍もある生き物を相手に、怯むことなく向かっていく父親の姿
いつも土魔法で精製した狩犬に持ち帰らせていて、いつもにこにこ顔で解体しているのを見ていたアランにとって、父親の覚悟を決めた凛とした姿は、何より新鮮で格好良かったのだ。
「パパだ……!」
希望に満ち溢れた瞳。遠くからでもはっきりと分かる父親の気迫にアランは圧倒されていた。
圧倒されていたからこそ、その肌にプツプツと鳥肌が立ち始めている。
「そう……格好いいのよ。ファンジオはいつでも格好良くて、家族思いなの……」
何故、母親が大粒の涙を流しているのか。
何故、素直に父親を応援していないのか。
何故、父親を責めるような態度をとっているのか。
「ママ、パパのこときらいになったの?」
純粋な一つの疑問が気付けば口から出ていた。
「そんなわけ、ないじゃない」
気の動転も相まって、息子の問いかけの真意が一時分からずにいたマイン。だが、現在の様子を鑑みた息子と自分の置かれている状況、そしてアランの思惑を察したマインの決断はあまりにも残酷なものとなってしまっていた。
「アラン」
気付けば、マインの瞳の揺らぎはなくなっていた。それは、決意の眼差し。
自分ばかりが泣いているわけには行かないと――。
ファンジオが自ら下した男の決断を、絶対に無為にしないようにと――。
それを伝えていかねばならない人間が少なくとも目の前にいるのだから、と
夫の背中から得たただ一つのメッセージをマインは受け止めていた。
妻は右手で涙を拭き取った。そして命を懸ける一人の男の背中をアランと共にじっと眺める。
「これからちょっとだけ……本当にちょっとだけ、パパに会えなくなっちゃうかもしれないの。それでも、パパをちゃんと見て」
「あえなくなるの? なんで?」
「パパはね、ママと、アランを護るために頑張ってるの」
「……うん」
「私、ママ失格だったのかもしれないね。彼が聞いたら、怒っちゃいそうなくらい……」
マインは小さく一人で呟いた。
荷台に乗っていた全員が静観を決め込む中で、マインはただ一人、アランの肩に優しく手を置いた。
マインはアランの頭をゆっくりと撫でた後に、裏庭から少し過ぎた場所で霧隠龍と真っ向から対峙するファンジオの姿を見て、指を指した。
「あそこで大きな怪物と戦っているのがあなたのパパ、ファンジオ・ノエル」
「……しってるよ、パパだもん」
「そう、あなたのパパ。そして同時に……村の人たちよりも、誰よりも強い男のヒト。パパの背中を見て。パパの勇姿をちゃんと見なさい、アラン」
エイレンもマインの言葉に耳を傾ている。恐怖に慄いていた姿は微塵もなかった。
「パパと会えなくなるって……どういうこと?」
ドクン
再び、アランの奥底で何かが蠢きだしていた。
たかが六歳。だが、アランももう六歳なのだ――と。
自分でも呟きたくない言葉を、マインはしっかりと、アランの目を見て話した。
「あの大きな化け物は、ママたちを食べちゃうかもしれないの。それをさせないように、パパが私たちを守ろうとしているの」
「でも、パパ、つよいよね! あんなのに、まけないもんね!」
「…………」
アランの不安から飛び出したその表情にマインは何も答えなかった。
何も答えない代わりにアランの目をじっと見つめる。
「……パパ、つよいんだよ?」
ドクン、ドクン
「ええ、パパは強いわ」
「だって、だって、パパ、いつもわらっておにくわたしてくれる! それで、ママにわたすんだよ! おいしくしてねって! あんなやつ、パパがたおしてくれるもん!」
防御結界に護られた内部では雨や風は一切通さない。
猛スピードでファンジオ達から遠ざかっていく馬車はゴトゴトと激しい音を立てている。
次第に小さくなっていく父親の姿に、アランはなおも食って掛かっていた。
「じゃあ、なんでパパをまたないの!? パパ、かつんでしょ!?」
六歳ながらも、アランは薄々と感じ取っていた。
マインの涙、そして父親から遠ざかっている今の自分たち。その状況が指し示しているものをアランは少しずつ理解し始めた。
「……うそだよ」
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン
心臓の鼓動が直接耳に届いてくるほどに高鳴っているのをアランは感じる。
一切遮断されているはずの風の音、雨の音が鮮明に耳の奥に確かな情景として浮かび上がってきていた。
まるでその場にいるかのような臨場感が彼を覆う。
遥か遠くに見えるはずのファンジオと霧隠龍の生じさせる音すらもうっすらと脳裏に浮かび上がってきている。
まるで自らが世界の中心にでもいるような、世界を自らの手でどうにでも出来てしまいそうな感覚がアランを深く、広く包み込む。
「うそだ……うそだ」
ドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクン――ドクン
その瞬間、大空に激しいまでの雷鳴が響き渡る。
馬車をも包み込むような一閃に誰もが驚きを隠せない中で、一人だけは違う。
「あそこに……パパが……」
アランの意味深な呟きにマインが眉を顰める。
「真っ白くて、何も見えないところにパパがいるんだ」
アランの脳裏に浮かび上がってきたのは、今現在展開されているファンジオと龍の戦闘状態だった。
囲い霧の効果による、激しい濃霧に包まれた中にいるファンジオの姿をアランは直観的に確かめていた。
「あ、アラン……?」
怪訝そうにふと近寄ったマインの手をするりと抜けるアランは、もはやファンジオが見えなくなっているにもかかわらず彼の居た方向をじっと見続けていた。
「行ける……ぼく、パパがみえる! パパだ! パパがいるよ!」
アランが喜々として呟いた、その瞬間だった。
ふっとアランが姿を消すと同時に、ルクシアの張った防御結界がまるでガラスが割れたかのように瓦解してく。
「何じゃと!?」
ルクシアが驚きのあまりに後ろを振り向く。
そしてフーロイドの驚愕が、ファンジオのいる方角に向けられていた。
「ぼ、防御結界が……破られた……!?」
防御結界を失った馬車の荷台に次々と降りかかる、先ほどよりも遥かに強い雨。
ルクシアがそれに対処すべく馬に鞭を打つのを中断し、後ろを振り向いたその刹那――。
――ッ
雨の音を全て掻き消すかのような轟音と共に彼ら馬車組の前に現れた一筋の光。
黄金色を呈したその光が、天空から地上に向けて放たれていた。
「ヒヒイイァァァァッ!!」
目の前を覆い尽す光量と耳を劈く爆音によって正気を失った馬が錯乱したかのように暴れ出し、馬車に乗っていた全員を地上へと振り落としていく。
一瞬天を完全に支配した光と音が、何事もなかったかのように消えていくと同時に地面に投げ出されたマインが小さく、「アラン……アランが……」と我が子を求めるかのように辺りを見回した。
「……まさか……アランが……奴が、そうだというのか……?」
馬車が倒れると同時に地面に伏せていたフーロイドは雨に濡れているのも一切関わらずにその瞳を煌かせていた。
「伝説が――この世に顕現したとでもいうのか……!」
フーロイドの瞳が光り輝いた。
「アラン・ノエル、お主が神に愛されし魔法の使い手じゃとでもいうのか!?」
フーロイドは震える手を遥か高くに聳え立つ大空に宛がう。
目の前の伝説を疑う余地はどこにもなかった。フーロイドの肌はぞわりとすべてが逆立つような感覚に支配されていた。
同時に先ほどまで降りしきっていた雨、空を覆い尽していた暗雲が何かに操られるように引いていく。
「天属性の魔法術! 運命とはなんと残酷で! 皮肉に満ちておるのじゃ!」
――この世に一つの修羅が姿を現した瞬間だった。




