マインの懺悔
「ママ、くるよ」
草原で、小さな体を広げた少年は隣の母親に向かってふと呟いた。
その声を受けた母親――マインは、顔をさっと青ざめて「さっき干したばっかりなのに……?」と抱えていた敷布団をいそいそと家の中に放り込み始めた。
「なんかべとべとしてるから……。あしたもかなぁ」
「明日も降っちゃうの?」
「うん、たぶん!」
「せ、洗濯物が乾かないじゃない……」
そう小さく嘆息した母親、マインは「でも教えてくれてありがとうね、アラン」と少年の頭を優しく撫でた。
アラン・ノエル、四歳。
あの雷雨の日に産まれた彼に名付けられた名前は、古代にて『雷神』の意を持つものだ。
雷雨の日に産まれた彼は、存在そのものが奇跡だった。
あの時、確かに雷は分娩室の直上に落ちていた――だが、誰もが無傷。
雷が落ちた場所そのものが、アランに直撃したとかつて助産師は言った。
それに対してそんな馬鹿なとファンジオは反発したが、そうでなければこの子諸共、あの場で皆は死んでいただろうとのことで、妙に信憑性が伺えた。
そこから名前を付けられたのが、古代で『雷神』と称されたアランの名。
「でも、洗濯物が濡れてまた洗い直し……ってことじゃないだけ、いいんでしょうね」
マインはもう一度にこりと笑みを浮かべて洗濯物を総じて家の中に取り込んだ後にもう一度庭先に出た。
「アランにはいつも助けられてばかりだわ。今日は特別サービスに、昨日パパが狩ってきてくれた筋肉狼のお肉を使って焼肉でもしましょうか」
「やきにく!?」
そんなマインの言葉に涎を垂れ流しながら振り向いたのはアラン。「やっきにっくやっきにっく」とステップ交じりに笑顔を浮かべるその姿は、マインにとってとても子供らしく、そして非常に愛おしかった。
アラン・ノエルは一つ、能力を持っていた。
例えば、事前に翌日の天候を知ることが出来る。例えば、数時間後の突発的な雨でさえも予想することが出来る。例えば、一週間後までの天気すらも読み取ることが出来る。
それについてアランは、「くうきがべたべたする」という単語を使うことが多い。
マインも一度その真意を問うてみたが、それは彼女にはあずかり知らぬことでもあった。
アランが、「空気がべたついている」旨の発言をしたとしても、マインにはそれは一切感じることはできないものだからだ。
「アランはきっと、将来すっごい人になるの。ママ、応援してるわよ」
もう一度優しくアランの頭を撫でたマインは手を引いた。
それにちょこちょこと付いていくアランを眺め見て、彼女は小さく笑みを浮かべる。
「そろそろパパもおうちに帰ってくる頃だから……。今日はいつもよりも腕に寄りをかけてご飯作るわ! アラン、手伝ってね!」
「うん! わかった!」
再びステップしながら笑顔を浮かべる一組の親子。
草原に、初夏を告げる温暖な風がすうっと吹き通った。
彼らは、村の中でもかなり異端視されていた。
事の発端はアランが三歳になり、初めて天候を予知した時のことだ。
この世界において、『天候』とはかなり神聖なものである。特別な巫女でも呼ばない限りは先々の天候を見据えることは出来ない。さらには、天候の予知などは、神の使いでもある巫女以外はすることができないとされている。
神が決定を下すことに対して先読みをする――すなわち冒涜行為だと信じられていたからだ。
巫女は、神の僕。それ以外の者がみだりに天候を予測したり、操ったりすると『悪魔の子』とレッテルを貼られてしまう。
そしてそれはアラン達一家も例外ではなかった。
「悪魔の家系め! さっさとそのガキを殺せ!」
アランが初めて天候予知を行った数日後、元々アラン達一家が住んでいたコシャ村の住人が大挙して、彼らの平穏を壊しに来た。
いつの時代も、異端な技術や能力を持つ者や迫害される。それはアラン一家も例外ではなかったのだ。
彼らに屈すれば、アランの命は無いものに等しい中で、彼らは村を追われた。
その逃げ場として、コシャ村からおおよそ三キロの位置にある草原に佇む一軒家を借家として暮らしている状態だった。
「ママたちね、週末……また街に出かけなきゃならないの。アランって……確か街には――王都には行ったことはあったかしら?」
マインの問いかけに、アランは首を傾げながら「おーと?」と呟いた。
その瞳の先には、マインが焼く肉に注がれている。
「えぇ。ママたち、ご飯を作る材料を買ってこなきゃならないの。それに、パパが今までに取ってきてくれた材料も王都でたくさん売れるの。奮発して買っちゃおうかなーって、ね」
小さめのウインクを浮かべながらお玉を持つマインは白髪のロングストレートをゆらりと揺らした。
それまでじっとしていたアランが、ふと「村の人たちとは物の交換しないの?」と純粋な瞳で母を見つめる。
母親であるマインの胸をチクリと刺したその言葉だったが、マインは心の中で自身に喝を入れた。
「そうねぇ。村の人たちにとっては、いらないモノなの。でも、それが大きな町に行くとすごく大切なものになるの」
それがマインの精一杯の嘘だった。
だが実際のところは、そうではない。
この世界、都市部では貨幣が流通している。しかしながら、田舎まで行くと貨幣などは全く通用しない物々交換の世界。
貨幣の流通が成り立っていない田舎に置いて物々交換をする相手がいない、ということは生活を営むことが出来ない――すなわち死を意味している。
アラン達一家は村を追い出された件以来、村の住人達との物々交換をほとんど行っていない。
基本的に自給自足、助け合いが原則の地方にとって村八分の扱いを受けるのはライフラインすらも封じられることになる。
一家は村の人々に対して好意的に接しようとしていたが、アラン一家を「悪魔の家」と認知してしまった村の人々と物々交換など出来るはずもなかったのだ。
「パパが帰ってきたら荷造りをしましょう。それまでは、ママも荷造りしなきゃ……いつもパパ一人に行ってもらってたものね」
マインはそう言いつつ、魔法を使って炎を巻き上げた。そうして大きな鍋の中でスープを湯がしていく。
「それって、みんなでりょこうするのー?」
マインが調理を続けるその後ろで、ご飯はまだかまだかと忙しなく動き回る我が子に、彼女は「そうね」と呟いた。
「アランにとっては初めての遠出だものね」
マインの声が家に響き渡る中で、アランは待ちきれないとでも言うように部屋をトコトコと歩き回る。
「『おーと』って……ほかのいろんなひととおはなしできるの?」
ふと、アランが家の外を眺めながら呟いたその言葉に、マインの肩がピクと跳ねた。
「……ええ……。きっと、沢山いるわ……」
「みんな、ぼくをこわいめでみないのよね……『おーと』って」
全てを諦めたかのような、それでいてすべてを悟ったかのような一言にマインの腹の底に重いものが圧し掛かってくる。
「――っ……!」
白髪を振り乱して、掛けていた火を投げ出して、マインは家の中を横断していた。
その頬には一筋の涙が流れていた。それは、紛れもなく後悔の念でもあった。
悪魔の家系と、そうレッテルを貼られてからはや二年半。コシャ村から離れた地に住んでから、アランは他人との会話を一切知らないでいた。
ファンジオは狩人で、森に入る時は村人以外とも交流があり、定期的に王都に食料調達のために向かっていた。
マインもここ一年近くは家族以外の会話を持っていなかったが、それでもこれまでの人生の中ではそんなことはありえなかった。
だがしかし、アランは――。
アランは、生まれた時から家族以外の誰とも話したことがない。ということにまでマインは気を回すことが出来ずにいた。
そんな言い知れぬ後悔。細部まで我が子を思いやれなかったその不甲斐なさ全てが相まってマインはただ無言で我が子を抱きしめてしまっていた。
「……いたいよ……ママ……?」
「ごめんね……ごめんね、ママが……ママがもう少しちゃんとしてれば……。村の人たちを説得できるだけの力があったら……」
ぐっと、我が子を抱きしめつつ後ろで結ばれたその両手甲からは、自身で食い込ませた爪により小さな痣が出来ている。
草原の中に佇む一軒家。元は借家だった。だが、大家は既に他界してしまっていたらしく、手のついていない家になっていた。
コケやツタが生えるその家を改築したのは、ファンジオとマインに他ならなかった。我が子を守るため、我が子と共に生活を送るため――そう思って改築し直した二人にとっては、アランがどんな思いでこの二年間を過ごしていたかが理解してやれなかった――と。
腕の中でもぞもぞと動くアランの頭をもう一度マインは優しく撫でていた。
「……ねぇ……ママ」
「どうしたの?」
「――おにく、こげちゃうよ」
「アランが楽しみにしてるご飯だものね、すぐ戻るわ……」
「あと……あとね」
と、アランは家の窓から見える晴れ渡った空を見て小さく呟いた。
「もうすぐ、あめがふるんだ。ながくて、よわいのが……いっぱいふるんだって。もしあたったら、ほめてくれる?」
その感覚をマインは理解することが出来なかった。
だが、アランの問いかけにマインはにこりと笑みを浮かべた。
目尻にたまった涙を人差し指で払いながら「もちろんよ。だってアランは偉い子なんだから」と何度も何度も頭を撫でる。
「にひ~」
無邪気に笑うアランの声が草原の風と共に空に消えていったのだった――。