6/26(SUN) 人生の終わり、物語の始まり
俺の住んでいる噴水という町はこれでもかというくらい平和でのどかな町だ。
これは小学生の頃からここに住みはじめた俺なりの総評だ。 これは額面通りの良い意味も、皮肉を交えた悪い意味も含んでいる。 良い意味は説明する必要はないから悪い意味を特別、説明しよう。
のどかすぎるのだ。
まず、田んぼは常に見えていると言っても過言ではない。それに対して、米を売っているような店は数軒 しかないのだ。 もちろん娯楽施設も電車を乗り継がなければたどり着けない。 その電車さえ二時間に一本なのだから救いようがないのは火を見るよりも明らかだろう。
そんな田舎である噴水にはもちろん本物の噴水などない。なんで町の名前が噴水なのか、は町の誰 に聞いたって「知らねっこて」と異国語のような訛りで一蹴されるだけだ(訛りは老人に限るかもしれ ないが)。
何しろ都会になくてここにあるもので特筆すべきものなど田んぼと原発くらいのものである。 都会にあってここにないものの方が圧倒的に多いのだ。
先ほどの噴水も然り。
電車も然り。
娯楽施設も然り。
店も然り。
そして、事件も然り。
ここで一言目戻るのだが、この場所は極めて平和でのどかなのである(たまに変質者はでるのだが)。 だから殺人事件などまったくの無縁で絶無。無秩序な行動なんてものは無論、ないのである。
けど、そんな現状に俺は無事ではなく無味という感想を抱いていたのだった。
こうも思っていた。
――――自分が死んだっていい。
――誰かが俺の無味な一生を楽しませてくれないかな。
だからだろうか。この現状にたどり着いたのはそれ故の必然なのだろうか。
一瞬だった。
体験したのだから間違いない。まばたきと同じスピードだった。 たったその一瞬で、
俺の生命活動は衰弱していた。
「ってえな……」
力なく叫ぶも、周りには誰もいない。存在を強調しているのは俺の腹から出ているおびただしい程の血 液だけだった。既に血溜まりと言えるほどに広がっている。……割と綺麗じゃねえか。
じわりと口の中に鉄の味が広がる。それはいつか鼻血が出た時と同じ味だった。
人の生命などこんなに簡単に揺らぐんだな、と自嘲気味に思う。 実際に知的生物を名乗っている人間だが、その実、人間そのものはほとんど進化していないのだろう。 それだから感情に左右され、同族殺しなんて蛮行をしてしまう。
こんな時なのに記憶ははっきりとしている。ついさっきの事実を夢のように思い出すことができた。
いきなり刺されたのだ。
もちろんこの出血量、蚊などではない。 普段、俺が魚とかの腹をかっさばくナイフで、だ。 ――先の尖った銀色の恐怖。
ああ、いや。これだけだと突飛すぎるな。捕捉しよう。
物音を聞いたんだ。 音のそれ自体が慌てているような音。 最初はラップ音かと思った。 しかし、それにしてはおかしすぎるのだ。
ちょうど形容するならこんな感じだった。
ドンカンギャンコンカッポンパンスッキェンペンボン
うるせぇよ。 そう思っていた俺は二階にいた。割り当てられた自分の部屋でゲームをしてた。もちろん消音だ。俺は ゲームにでも集中するたちなのだ。多少うるさい方が集中できるというやつもいるが、俺は違った。完璧 な静寂こそ俺の大好物だ。その大好物をけたたましい物音が見事に阻害していた。
犯人を特定しようと家族全員の予定を頭の中で再生する。
父と母は仲良く街まで出て行って、デートしていた。 まだ、再婚して間もない二人は当分、熱々のカップルでいるようだ。
熱いと言えば傷口が痛いというよりかは熱い。まあ、痛いのよりかはましか。
また、妹と言うと部活とやらで休日にも関わらず正方形と長方形がくっついた形の施設に登校してい る。 今年で中2になる妹だが最近俺への態度が冷たい。呼び名「お兄ちゃん」よ、カムバック!
冷たいと言えば傷口が冷えてきた。傷口というか全身が冷えて、寒い。
おっと。話が逸れた。
結局はその物音の正体が空き巣でそいつにキッチンにあったナイフで刺されただけの話だ。 あっさりし過ぎていたかな?現実なんてそんなもんだ。
あいつも自炊してるのか、ナイフの扱いが巧かった。一撃で確実に俺は死を決定された。 俺は切る専門で、まさか食材が「この恨み。晴らすべし」と突然喋って逆襲してこない限りはナイフの避 けかたなど心得ていない。
ところでなんとなく魚を捌いていたナイフで刺されるのは生理的嫌悪が湧いてくる。俺は普段、野菜を 捌いていたナイフで魚を捌いていたのだからめぐりめぐって自業自得とも言えるのだが。 食べ物の恨みは怖いのだ。
…………いきなりだがそろそろ思考が鈍ってきた。 なんというか、眠いのだ。寝たら二度と覚めないとわかった上でグースカ寝たい。
人生最後の、そして最大の見せ場だ。状況説明だけだと物足りないだろう。その調子じゃ説明能力を 買われて、来世は取り扱い説明書だ。さすがに一生のほとんどを箪笥の肥やしとして過ごすのは憐憫 の部類に入る。
辞世の句は用意しきれないだろうからここは一つ、俺のボキャブラリーからカッコいい別れ言葉を選定 してさよならしよう。 誰に見せるか、って? それは俺の死を画面越しに見てくれている君しかいないだろう。
俺の物語はここで終わりを迎えるのだ。 主観時間にして16年。 まあ、大したものだろう。犬猫には勝ったな。
いや、ちょっと待った。そろそろ限界だ。無駄話をしている場合じゃない。ネロの気持ちがよく分かる。気 を抜けば一撃でパトラッシュだ。
よし、行くぞ。
カウントダウンで、だ。
10、9、8……、いやそんな暇はないか。
3から行くぞ。
3、2、1……、アディオ……。
死んだ。
〇
死んだ。
そんな確信があった。
積み上げてきた薄っぺらいもの。それらが容易く崩れた感覚だった。よく分かってんじゃねえか。薄っぺ らかったって。
もちろんその場合は体の器官がどうとかの科学的な感覚はなく、次に見えるのは数匹の羽の生えた 赤ん坊か、おばちゃんパーマを進化させた螺髪の仏か。それとも二度と何も知覚できないか。その辺で あるはずだ。 というか、その辺かなー、と思っていたのに。
俺は床に倒れた状態のまま、周りを見渡せるまでになっていた。
つまりは、意識が戻った。
もしかして:生きている
まじかっ!?
検索サイト風に提示した普通なら妄想とまで言えるであろう仮定に、死の間際までいやに冷静だった 俺でも驚くしかなかった。
見れば分かるのだが、俺は自分の生に関心が持てないタイプだ。 今さら知ってたと言われればそれまでだが、死ぬ間際にやけに深刻ではなかったのはそのためだ。言っ てしまうとひねくれに聞こえるが、別に悲劇的な理由もなにもなしに、自分が死んだってそれを自然の 摂理として受け止められるほどの歪な形状の心――自分で言うことではないが――を有しているのだ 。 心をそのまま器に例えると、他の感情に関しては通常の深さを持つが、自分の死に関しての部分だけ、 まるでこぶのように底が飛び抜けて深い。 そう考えてもらうと認識の齟齬はさほど起こらないだろう。
しかしそんな俺にも死にたくない気持ちがなかったというとそれは嘘だ。
他人が自分のために泣いていると思うとなんだかやるせなくなる。けったいな罪悪感からの逃げの感 情だ。 所謂理性による死にたくないという感情。 その点は他人と同じ、いやそれ以上――これもまた、自分で言うことではないが――なのだ。
その分、生きているということは驚喜に陥るべき吉報だ。
いっそ死ぬのも良し。だが生きるのならば生きることを全うしたい。 というか、ナイフで刺されて生きているとか我ながら人間とは思えないな。 立派に生んでくれた母親に感謝。 衝撃を多少和らげた服のメーカー、ユニシロにも感謝。
それにしても不幸中の幸いなんてものじゃない。 さっき死んだことなど生きているという幸い中の不幸にすぎないとまで思えてくるな。
案外この体験は俺に死を通して生を教えてくれたのかもしれない。 まあ、生も悪くないな。浸ってやらんでもない。
だけど、見ると床に血がこびりついている。 早めに拭いておかないと後々厄介なことになるだろう。自分の死後処理など自分でやりたくないのだ が、致し方ない。 おっと。今の俺は死んでいないんだった。
戯れ程度にそんなことを考えながらも時計を見て、そろそろ妹が帰ってくる時間であることに気づく。 叫ばれたらまずい。
さーて、処理するぞ。まずは証拠隠滅。マッポにバレたら大変じゃけん……。ヒヒヒ……。
……こう見るとまるで俺が犯人であるかのような光景だな。
さて、いつまでもフローリングの冷ややかさに身を任せている場合ではない。とりあえず俺自身が風呂 にでも入らなければ。
水音一つ立てずに起き上がる。 体は痛みを感じずに、むしろ普段より思い通りに動いてくれた。 それにやけに体が軽い。それは以前までの軽快な気分故なのかもしれない。 慎重に歩く意識はしていないものの、本能における警戒心はまだ赤色なのか、足音はまったくと言って いいほどなかった。
完璧な静寂。
血が垂れることもなしに、当然岩に染み入る音すら存在していない。
……果たしてそんなことがあり得るのか?
ふと、存在していないのはなにも音だけではないことに気づく。
俺の足が消失していた。
生まれてからのよしみである、そして死ぬまでの腐れ縁であることをほぼ確信に近い程に信用してい た、俺の足。
その部分はまるで不都合な部分を写したくないようにすっかりぼやけてしまっていた。
もちろん、我が目を疑ったさ。
目をギュッと閉じ、カッと見開く。
消えていない。
その光景は相変わらず消えぬまま、地面を掴む器官は消えたまま。
しかし、あるはずの存在が全てマイナスになったわけでもない。その証拠に、振り返ると。
「――――ッッ!?」
自分の背中と同じように、決して振り向いた程度では見ることのできないもの。つまり、
俺の亡骸が存在していた。
まさに驚天動地の事実がここに二つ存在していた。
おいおい、冗談だろ。これじゃ、まるで――――
ここで突然だがプロローグというべきか、エピローグというべきか、とにかく本作の冒頭部分に遡ろう。 なぜならそこに今の俺の存在に対する答えが載っていたような、一種の確信があったからだ。 説明を省かせてくれる昔の俺には感謝してもしきれないね。その前に死なないでくれたら勲章モノだっ たのだがな。
俺が唯一否定した、否定したかった存在。
問題形式にしてもいい。
1天国
2地獄
3極楽浄土
4輪廻
5転生
6幽霊
7無
一番あり得ないであろう存在。 俺がそこまで評した存在はどうであっただろうか。 存在というからには7番では矛盾するのかもしれないが。
読者や本人にはこれほど簡単な問はないだろう。
優麗と同じ読みのくせに全く優雅でも麗しくもなくて、存在自体が地に足をつけていない。
幽霊。
不本意ながらもそれが今の俺を表すのに最も適した言葉であろう。
全身が薄らいでいて、消えそうなのに、消える気は全くしない。存在の朧気な雰囲気を決定づける一つ にまとまったふにゃふにゃの足は逆さにしたアイスクリームを連想させる。透き通った中身には内臓など の類いは一切なく、その存在が純粋な思念によって構成されていることは簡単に予想がつく。
その証拠に、目の前の妹は思念であるところの現俺ではなく、物言わぬ実体の元俺を見ていた。
「き、」
一呼吸を置く、絶叫の前触れ。
「きゃあああああぁぁぁぁ!!」
尻餅をついた音すら存在を思わせないような奇声が世界を揺らす。 案外、その表現は比喩でもないのだろう。
律儀に寄り道せずに帰ってきたのだろう鏡花がその死体を目の当たりにして、その細い喉のどこから 出ているのかが疑わしいほどの絶叫を上げていた。
茫然自失。
事の意外性に驚き、呆気にとられるという意の茫然と我を失うことである自失とを組み合わせた言葉 だが、今は俺のために作られた言葉であるとしか思えない。
しかし、妹である鏡花という名前の少女が茫然と自失している時間は人生の先輩である俺より短く、 我ながらの未熟さを思い知らされた。
鏡花は素早く立ち上がろうとすると、まるで生まれたての小鹿のようにすぐに膝を震わせ、それを折っ てしまった。 鏡花の着衣が少し乱れる。 それに構う程、我が妹は事に無頓着ではない。今度は不恰好な軍人のように震える腕の力で匍匐前 進を始め、ものの数秒で俺の亡骸にたどり着くことができた。
どこでそんな非常マニュアルを叩き込まれたのやら、鏡花はおもむろにそれの白い手をとると、その手 首に自分の手を叩きつけるようにして当てた。
ずっとあてつづけた。
ただ脈拍の計測を目的とする行動にしては長すぎるほどに手を当て、時には血が止まりそうなくらい にギュッと握り、手首に涙一粒を残して、手を放した。
それは抗いきれない一つの結果を表していた。
「お、にいち、ゃんっ!……起きて、よ。起きてよ!喋って!動いて!目を、開けてよ!」
お兄ちゃんはここにいるぞ。 お前の隣だ。ほら、こっち向けよ。 いるんだぞ、気づけよ。
すー、っと伸ばした手は透ける。触ることができない。
だから、俺はシャボン玉を撫でるようにして格好だけでも鏡花を抱き締めた。 意味がないだろ、って? 世の中、そんなことだらけだよ。意味もねえ、下らねえ世の中で、俺は早く死にたかったんだっけか。
存在が多少交わる程に鏡花を強く抱き締める。
こんなの何年ぶりだろう。 小さい頃に泣き止ませるためにやったきりだった気がする。けど、今の目の前の鏡花もあの時と変わら ない。
まるで子供のように泣きじゃくっていた。
いるんだ。ここにいるんだ。 少しは気づいてもいいだろ。 せっかく「お兄ちゃん」って呼んでくれたのに。
こんなの、ないだろ。
そうだ。この光景だ。
これだけは見たくないから幽霊という可能性を排除したかったのに。
なんでそれだけが実現するんだ。あまりにも都合が良くねえか、神様よ。俺にどうしろっつーんだ。
言うなればこの状況は俺に対する罪なのだろう。 褒められない趣味だぜ、神様よ。
まあ、そうは言っても俺はこの状況を打開できない。 何も掴めないこの手で俺に何ができるんだ。生前とは違って死後の願いはそれを知ることだ。 誰か教えてくれ。
流れに身を任せろとでも言うのか?
このまま待ってればお迎えとかがくるのか?
ないないない。俺は送迎システムを頼んだ覚えはない。第一、そんなものは空想の産物――。
「ねえ、ここで誰か死ななかった?」
――じゃなかったようだ。