007 キャラクターソングの依頼
アニメ声優業だけではなく専門学校の講師を務めている土井垣一郎は多忙の日々を送っていた。今季アニメの大半を出演している土井垣にとっては毎日が収録日だと言っても過言ではない。それと同時に外国語映画の吹き替えもこなしているので、趣味や資格取得などに時間を割いている時間など存在しない。声優業だけで飯を食っていける人間が希少の中で、毎日忙しい日々を過ごせるのは有り難い事だ。有り難い事にしても70歳を迎えた土井垣には休みなしの毎日は疲労感を生み出していた。丸一日休日があったのは、かれこれ20年以上前の話しだ。土井垣が20年以上も休日返上で働いているのは声優という職業に誇りを持っているのもそうだが、父親や祖父の威厳を保とうと必死にもがいているからだ。大人……特に父親は、子供達に働いているお父さんの姿を見せる事が最大の親孝行だと勘違いする場合が多い。土井垣自身も勘違いしていると分かっていても父親の使命感からは逃れられない。父親は決して部屋の中でグータラとせず、外に出て汗水流して給料を稼ぐのが一般的であると。実際にそういう使命感から逃れられないとなると休日を返上して働く必要が出てくる。たとえそれが古希を迎えた老人であろうとだ。働ける内は働いて、依頼された仕事は絶対に断らないのが土井垣の流儀だ。その仕事が一話しか出てこないサブキャラだとしても全力を注いでアフレコをするのが土井垣なのだ。土井垣は次のアフレコ場所を目指して車中にいた。車の運転はマネージャーに任せて、土井垣は下を向きながらノートパソコンを膝の上に置いて開いていた。無論、ブルーライトを抑える眼鏡を掛けているのは言うまでもない。パソコンの画面から常時放たれているのはブルーライトと呼ばれる光線で、眼精疲労やドライアイの症状を引き起こしかねない害悪なのだ。声優に必要不可欠な積極性を失いかねない危険性があるので、ノートパソコンを使用する時はブルーライト遮断用眼鏡は欠かせないのだ。そうまでしてキーボードを叩いている理由は明白だ。実は昨日、土井垣がお世話になっているアニメのプロデューサーから電話が掛かってきたのだ。
『土井垣さんにキャラソンを頼んで欲しいんですよ。それでね、人生経験豊富な土井垣さんに是非作詞もお願いしたいと思うんですけど、どう?』
という仕事の依頼を電話口に直接叩き込まれたのだ。先程も述べたように土井垣は決して仕事を断らないと業界内でも知られている。1秒も立たずに元気な声で返事をした後、土井垣は昨日の晩から大急ぎで作詞作業に追われているのだ。限られた時間内で作詞をする行為というのは、意外と名曲を生み出す鍵となっている。人間は精神と肉体が追い込まれた状況下で初めて優れたアイディアを生み出す事が可能だと、土井垣の中では結論が出ていた。時間に余裕があって締め切りも設定されていない状況では、人間の持っている本来の力は発揮できない。時間が無いからこそ集中力が高まって作業効率が上がるのは70年の人生の中で幾度となく体験してきた。だからこそ土井垣は、決して焦らずにキーボードを叩き続ける。作詞に大切なのは、思い浮かんだ言葉をキーボードに叩き込む事だけだ。アイディアが枯渇したからと言って、絶対に指を止めて頭を抱えていてはいけない。何でもいいから浮かんだ言葉を書き、後から言葉の取捨選択をして気に入った文章だけを取り入れる。それが作詞のコツだと土井垣は考えていた。
カタカタカタカタ。
と、土井垣は一心不乱にキーボードを叩き続ける。とても70歳を向かえた老人とは思えないタイピング能力だ。無論、キーボードなど一切見ずに画面を見ながら高速ブラインドタッチを披露していた。だが決してプロ並みとは言えない。速度だけで言うなら、同じく多忙を極める雑誌編集者の人と肩を並べるぐらいだ。それでも年齢を考慮して考えるならば土井垣のタイピング力は神がかっていると言うべきか。一変の迷いも無くキーボードを叩きつける老人など日本にも数名しかいないだろう。その中に入っているのは光栄であると同時に、老人が変な意地を張ってパソコンを持たない時代への怒りも込み上げていた。70歳を過ぎたからといってパソコンを活用しないのは実に勿体ないのだ。まともな職に就いて退職金を貰っている人ならば、パソコンの一つや二つ用意に変える筈だ。それなのに頑なに流行遅れを気取っているのは寒気すら覚えてしまう。便利な物をどんどんと活用していく事によって、衰えていく脳細胞を活性化させられるのは至極当然の事だ。それにキーボードを使って指を動かせれば軽い運動にもなる。インターネットで最新の情報を得て頭を回転させ、キーボードで検索しながら運動が出来る。少子高齢化の今こそ老人はパソコンを持って立ち上がるべきなのだ。ろくでもない見栄を張って「パソコンなど使わない」というのは、頭の老朽化が進んでいる証拠であると土井垣は考えていた。