006 何よりも大切なのは積極性
大御所声優の登場に盛り上がるクラスメンバー達だが、全員が全員立ち上がって土井垣の周りに集まった訳では無い。数名の生徒は相変わらず体育座りをして下を向いて微動だにしない。すぐに近づいてサインなり握手なりを求める暑苦しいファンを土井垣を好き好んでいないにしても。体育座りでジッとしている生徒と積極的に現役声優と触れ合おうとしている生徒、どちらが声優世界で生き残れるのかと聞かれれば答えは決まっている。土井垣の登場にも無表情でクールな自分を演出しているような輩には声優の仕事は務まらないのを土井垣は良く知っている。常に新鮮なリアクションを求められるのは演者としての素質に関わってくるのだから、ここで動かなかった生徒には好印象など微塵にも感じさせられない。現時点では役者の才能が皆無であると認めざる終えない上京である。故に土井垣は熱狂的な生徒にもみくちゃにされながらも、自分流のスタイルを貫いていた。教師と生徒の立場である以上は馴れ合いなど許されないのだ。土井垣はホワイトボードを右拳で叩きながら床に座れと生徒達に指示をした。だが、若者の無限に等しい情熱力はそんな事では冷めやしない。憧れの大御所声優を目の当たりにして黄色い声援を送ってサインなり写真を求めてくるのだ。ガヤガヤガヤと騒がれては他のクラスにも迷惑がかかると思った土井垣は再び強硬手段に出た。
「一旦、黙れ。ここで貴様等とお喋りをするのも楽しいだろうが、ワシと貴様等の関係性を考えると馴れ合いなんぞしている暇は無い筈だ。一刻も早く声優に近づきたくてウズウズしているような顔立ちをしているじゃないか? 分かったら大人しく床に座れ」
土井垣の生声に惹かれた生徒達はメロメロな様子で床に座っていた。その多くが女性なのは言うまでもない。男性生徒達は「なんだよ、あのセンコー」と反骨精神剥き出しの目で睨みつける者が大勢いた。それもその筈である。10代後半から20代前半の男性ファンからは圧倒的に支持が無いのだから。その理由の1つとして考えられるのは70左歳を過ぎた高齢声優がいつまでハーレム学園の主人公役を演じているんだと憎んでいる節が見られる。ハーレム学園物の多くは男性ファンに占められているので、当然男性主人公に自分を投影しようと試みる。だが、中の人が土井垣だと知ると「学園物になんでジジイがいるんだよ!」と男性オタク達は発狂するらしい。古希の声優ががショタボイスを出して美少女にもみくちゃになるのはさすがの雑食オタク達も受け付けないようだ。しかし、女性ファンからの支持を獲得しているのは素直に土井垣の地声がイケメソボイスであるからだ。学園ハーレム物以外では主に敵役のクールキャラを演じる機会が多く、それが影響して女性ファンの獲得に繋がっている。とは言っても世界には土井垣が好きな男性ファンもいるにはいるので、さっき集まってきた生徒の中にも土井垣に近寄ってきた男子生徒も数名見られた。他の男子生徒の多くは親の仇の如く、土井垣を睨みつけているのだが。そんな憎悪と憧れが群雄割拠している空気感を肌で感じながら土井垣は話しの続きをしていた。先程述べたように声優として活躍するためには積極性が何よりも大事だ。大御所声優でさえもオーディションを受ける機会があるというのに、新人声優は特に自分を売り込む必要がある。モデルとは違って声優はスカウトされないからこそ営業マンのつもりになって自分を商品に見立てるのだ。それは初歩の初歩であり、尚且つ土井垣が言わなくても自然に自分を売り込まないと将来的な事を考えても絶望だ。普通の教師はここまで言わないのだが、土井垣は本当に後継者育成に力を注いでいるので熱烈サービスで声優業界の極意を熱く語るのだった。
「声優学校に入学したのはすなわち、それなりの覚悟があるのだとワシは思っている。今の時代、役者で飯を食うなど夢物語に過ぎんからな。すなわち、本当に才能を開花させた者だけが声優の仕事だけで生活が出来るのだ。才能の無い奴はファミレスなりコールセンターのバイトでもしながら声優とは名ばかりのフリーター生活を余儀なくされるのだ。その事実を知った上で入学した前提で話すが……先程、ワシの周りに集まった生徒諸君は声優の一歩を踏み出したと自信を持ってくれて構わない。だが、ワシという教師がクラスに入っても微動だにせず、下を向いて体育座りをしていた者、それからワシを親の仇とばかりに睨みつけていた一部の男子生徒は声優の才能など皆無だ。後者の奴等はとっとと荷物をまとめて田舎にでも帰れ、馬鹿者が!」
この一言に女性生徒から歓声が挙がった。憧れの土井垣に褒められて心底嬉しかったののだろう。キャーキャーと喚いて全身で喜びを表現しているではないか。一方の一部の男子生徒は不満綽々の様子で「不公平だ!」「入学金返せ!」などの罵声を浴びせてくる。いつ何時、どんな状況であっても目上の人間を罵倒するなど社会人には考えられない行為である。近頃の切れやすい若者の縮図を見たようで土井垣も溜め息を出す程に呆れていたのだが、更に呆れる行為を目の当たりにした。男子生徒達が土井垣の言葉を鵜呑みにして本当に帰り始めたのだ
「やってられるか!」
物に当たり散らして本当に帰っていく生徒達。だが全員が全員、家に帰ろうとはしていなかった。大半の生徒が土井垣の周りに集まって「申し訳ありませんでした。もう一度チャンスを下さい」と丁寧なお願いをしてきたのだ。本当に帰ったのは一部の生徒であり、ほとんどの男子生徒は丁寧に謝罪して退学だけは勘弁して下さいと言ってきた。声優業界では積極性が何よりも大事だと述べたのもそうだが、目上の人間が怒っていると謝罪するのは社会のルールでも当たり前だ。最低限のマナーを知っているのだと感心した土井垣は謝ってきた生徒に優しいトーンで声を掛けるのだ。
「素直に謝れるのは生まれ持った素質だな。実に結構、君達はワシのクラスに残っても構わんぞ。さて、逆切れをして帰った連中の事は忘れて授業を開始しよう。声優に大事なのは先程にも言った通り、積極性だ。哲学的にはアンガージュマンと呼ばれる言葉だが、これが有るか無いかで貴様等の声優人生の全てが決まると言っても過言では無い。どんなに技術が優れていても、どんなに素晴らしいルックスをお持ちでも、オーディションを無視して声優の仕事をしようとは考えるなよ。声優歴50年目のワシですら、未だにオーディション会場には積極的に出向いている。その理由は無論、仕事を手に入れるためだ。貴様等は将来的に、中堅、ベテランに交じって役を勝ち取らないといけないのだ。だから技術ばかり身に着けようとするな。一般教養、最低限のマナー、自分の特技を磨いて他の声優共に圧倒的な大差をつけるように心がけろ!」
こうして、土井垣の熱き指導が始まった。