002 WEBラジオ収録日にて
土井垣一郎のやり方は古いと言われて何年もの月日が流れたように本人は感じていた。しかし現実は非常だった。古希の年齢を迎えた土井垣に衰えの兆しが見えたとアニメ関係者やファンの間から声が飛ぶようになっていた。滑舌的な意味でもそうだが、一声一声間を開けて発声する気概が圧倒的に多くなった。これが意味しているのはブレスの劣化だ。所謂加齢によって喉の力が弱まり、全盛期と比べて息継ぎの力が無くなっているというのだ。この声にはさすがの土井垣も怒り心頭である。自分はまだ衰えていない。今季アニメも主人公役を5つも得ていて絶好調だと自負していた。しかしこれにも周りからは不満の声が漏れていた。いつまで土井垣政権は続くんだと年下の後輩声優が愚痴をこぼしている瞬間をたまたま聞いてしまっていた。歳を重ねる度にトイレの機会は増えるので、おまるの土井垣は個室で用を済ませていた。するとワイワイと楽し気にトイレに入ってきた後輩達がいたのだ。彼等は声だけで特徴を掴む必要がある職種に就いているだけあって、声を聞いているだけで誰だか判断可能だ。この日、男子トイレに入ってきたのは事務所の後輩二人組だった。子供みたいな年齢だが同じ職業に就いている仲間には違いない。土井垣なりにプロ意識を持って接していた仲だけあって、彼等の言葉を聞いた時はショックを隠せなかった。「いつまで土井垣政権は続くんだ。早く、若手声優にも仕事を与えてくれよ。なんで70歳を過ぎたジジイがハーレム学園物の主人公を演じる必要があるのか俺には意味が分からないって。そこは油の乗ってる若手に譲るべきだろうがあのクソジジイ、まじで空気読めてねーよな。いつまでも調子に乗って仕事があると思ったら大間違いだからな」と普段温厚で知られる後輩達が大声を出して土井垣批判をしていたのだ。可愛がっていた後輩がまさかのアンチ土井垣だったのだ。上と下に挟まれているサンドイッチのような中間管理職あるあるを、まさかこのタイミングで聞かされるとは思わなかった土井垣は暫く床に俯いたまま動けなくなっていた。いつのまにか、後輩に仕事を回さない最低の人間になっていたのかと思うと一気に加齢が襲いかかってきた気分だ。しかし、50年以上声優人生を歩んできた土井垣はものの数分で元気を取り戻して快調の便を便座に叩き込んでいた。男性声優に求められるのはフレッシュ感覚よりも安定感だ。安定感のあって女子人気の高い中堅声優が起用される事が多い業界の中で、土井垣は50年以上もの間、主役級の声を演じてきた。これを意味しているのはファンの間でも一定評獲得数が多いのを意味している。つまり、先程愚痴をこぼしていた後輩声優よりも人気度は上なのを意味している。さっきの言葉は土井垣の女性人気に嫉妬した一言に過ぎない。そうと分かった土井垣は個室の扉を勢いよく開けて、そのまま洗面所に向かってガラガラペーをした。今回収録するのはアニメもそうだがWEBラジオも収録する必要があるのだ。二段構えの仕事構成に、後輩の愚痴を聞いたぐらいでやる気を失ってはいけない。断固とした絶対的な自信を胸に抱いて収録に臨む必要があった。そして収録現場に向かってなんやかんやアフレコを終わらせると、ただちにラジオ番組の収録時間となった。この番組はさっき後輩が話していたハーレム物の学園アニメを主軸とした声優ラジオだ。パーソナリティは主人公役を務める土井垣一郎とハーレム要因の一人でヒロイン級の活躍をしている役を務めている神田亜矢子という女性声優の二人だ。土井垣一郎の年齢は言わずもがなだが、神田亜矢子は女子大に通っている現役女子大生だ。70歳の土井垣と21歳の神田がメインパーソナリティの番組など当初は誰も見ないと予想されていたが、予想よりはだいぶ検討して見れる数字となっていた。この日もプロデューサーが適当に原稿を流し読みして「後はフリートークで繋いでください」と土井垣と神田に伝えて本番が始まった。この番組は大体の流れが決まっているだけで後は声優の独断に任せるというクソみたいな放送体制をしている。クソとは土井垣観点からの感想であり、神田を始めとしたスタッフ一同も土井垣の実績を知っているから全幅の信頼を置いているのだ。土井垣の口から発声される言葉の多くは、何度もラジオ初体験の原作者や音響監督の緊張感を解いてきた。言葉巧みにイジリ倒してラジオブース内のみならず、視聴者の皆さんに笑いを届けてきた。だから余計な打ち合わせなど必要無いとスタッフ一同は心得ていた。それを知らない土井垣は心の中で「プロ意識の欠片も見当たらない連中だ」と静かに罵倒していた。そのターゲットは同じメインパーソナリティの神田にも向けられていた。
「あの……私は大学でも友達がいなくて、投稿者さんの気持ちは良く分かります。学校に通っていても毎日が平凡がつまらないと思う気持ちは私にありました。でも、投稿者さんは勇気を振り絞って友達を作る努力はした方がいいと思います。だって楽しくない学園生活よりも楽しい学園生活の方が良いでしょう? そして、友達を一人でも作って楽しい学園生活を送れるようになったらまたお手紙を下さい。その時は是非、友達のいない私にアドバイスをして頂ければ幸いです」
などという事をおしとやかな声で言っているのだ。内心、土井垣の腸は煮えくり返っていた。ギョロリと白目を剥いて口から火炎放射を吹きそうな勢いである。今、巷で有名になってアニメの主題歌も歌っている人気声優に友達がいないなど断固として有り得ないからだ。しかも某有名女子大学に通っている高学歴声優がだ。さっきの一言は友達の少ないアニメオタクに話しを合わせるための社交辞令に過ぎない事を瞬時に察した土井垣は怒りによって悶え狂っている心の波を落ち着かせながら、静かに神田の話しを聞くのだった。




