010 常に完璧な声を求められる
声優の給料などたかが知れていると感じ始めたのは20年近く前だ。土井垣は50年以上も声優の仕事を続けているのでランクは最高位に位置していた。声優はランクによって全てのギャラが決まる特殊職業だけあって、本来はランクが上がる度に仕事は無くなる性質なのだ。そうと分かるとなるべく仕事をせずにどうやってランクを上げないようにするかと必死になっている声優がいたりする。アニメに出演すればするほどランクが上がってギャラが高騰してしまい、結果的に出演料が高いと言われて仕事を失う声優が多発しているからだ。WEBラジオやアニメフェスタなどで活躍している声優は人気と実力も備わっているので仕事は増えるばかりだが、口下手で物静かな声優などは人気など皆無に等しいので仕事量は下降線に向かっていく。どうにか仕事を増やそうとするならば個性を造って人気を出さないといけないのだが、世の中はそんに器用な人間ばかりではない。だからほとんどの声優が一発屋として無駄にランクを上げて消えていくのだ。土井垣もかつては一発屋と呼ばれていた時期があったので彼等の気持ちは痛い程分かる。土井垣は声優デビューからまもなく、後に半世紀に渡って語り続けられる伝説のアニメに出演が決まった。しかもそのアニメの主人公役に決まっただけあって、アニメ界では人気と知名度が沸騰して声優ランクが跳ね上がってしまった。若手でも人気アニメに出演してしまえばランクが上がってギャラも沸騰してしまうのだ。こうなると中々オーディションに受からなくなる。どうしても過去のキャラクター像を引きずって仕事に結びつかないのだ。それはアニメ関係者も同じなので、一世を風靡した人気キャラクターの声から一度脱線して全く別物の役柄を勝ち取る必要がある。再ブレイクのためには演技の幅を広げる必要があると、当時では考えられない中性的な高い声を出す訓練を始めていた。土井垣は本来、屈強な軍人や独裁者特有の低い声を売りにしていたので高い声を出すのは苦手だった。しかし、役者として生き残るためには必要だと覚悟して、見事中性的な声を習得したのだ。これぞ土井垣の真骨頂だ。どんな場面に陥っても決して諦めずに努力を続け弱点を長所に変える。新しい長所が仕事に繋がっていくのは相当な快楽数値が高く、それ以来土井垣は、生きている限り永遠に挑戦すべきだと答えを導き出した。70歳を迎えて初めて男の娘の声を演じるのも挑戦を諦めなかったからだ。かつては絶対に出せなかった少年声を出せるようになったのは仕事にも大きく影響されている。男の娘役とは別に意地悪な教師役も勝ち取っているので土井垣は一つのアニメに二つの声で出演しているのだ。これぞエキスパートの成せる技としか言いようがない。
「さてと、それじゃ行ってくるぞ」
玄関で奥さんと別れを告げた土井垣一郎はマネージャーの運転する車に乗っていた。バイクに乗って収録場所に向かうのもいいが、それだとマネージャーの仕事が減ってしまう。働いてて一番辛いのは何もする事がなくて暇を持て余している時なので、土井垣はなるべくマネージャーに仕事を与えるようにしていた。自分で出来る仕事もマネージャーにやらせて積極的に仕事を与える。これは何処の社会でも同じだと思っているので、何にも特別な事では無かった。そうこうしながら車中で揺られているとマネージャーとの会話が発展していた。会話と言っても今日のスケジュールを確認するぐらいなのだが。
「土井垣さん、今日はゲームの収録が入ってますね」
「ああ。とてつもない大仕事になるぞ」
ゲームの収録ではアニメとは比べ物にならない台詞量を用意されているので一日中収録場所に拘束されるのも珍しくはないのだ。しかし、仕事は仕事なので集中力を切らさずに完璧な状態で声の演出を続けなければならない。声優にはどんな時にも安定した声を求められる仕事なのでアスリート並の体調管理が必要なのだ。それこそ声が不安定だとキャラクター崩壊のレッテルを貼られる危険性も秘められているのだから、常に完璧を求められる職種だ。いくら給料が少なくても誇りを持っているのは言うまでもない。