恋は道連れ世は無情
笹塚未来は警察の調書を受けていた。
袖口を切り裂かれたということで傷害未遂という扱い。
人間関係の面から店舗の細かい状況、一部の隙もないくらい質問されていく。
しかし笹塚未来は緊張していなかった。目の前で取り調べしている人物を良く知っているからだ。
薄汚れたコートは忙しい刑事の仕事で汚れつつ、妻の最初のプレゼントとして受け取った物として愛着があるから。
目の前の取り調べの刑事についてはそこまで知っている。なぜなら刑事は笹塚未来の父親である。
入院している最中は中々定期的に来てはくれなかったが、少しでも休みが取れると大好きな果物を買ってきてくれた父親。
笹塚未来は目の前の父親が大好きである。そんな父親と結婚して自分を生んでくれた母親も好きである。
それでも取り調べが長くなってきたことで、笹塚未来は少し嫌気がさしていた。
なんで視力や店内の広さまで調べるのか、警察の調査は本当に蟻すら逃さないほど細かい。
もちろん被害者への調書も一部の隙もなく作る。だからどうしても時間がかかってしまう。
「…未来、本当に声や姿を見てないのか?」
「うん…いきなり背中に誰かいたと思ったら刃物が…」
笹塚未来は証言しながら震える肩を抱く演技をする。
声は聴いた。でも言えるはずがなかった。相手が自分しか知らない情報を持っているなどと。
ましてやそれが今世間を騒がせているアニマルデータのことなど、話すことができなかった。
刃物を向けた相手は確かにアダムスを狙っていた。だが父親や母親にはその存在を知らせていない。
世間を騒がせている存在を持っていると知ったら、両親がどんな反応するか分からないからだ。
もし取り上げられてしまったら面倒である。もちろん笹塚未来の力を使えば両親に命令して従わせることもできる。
でも笹塚未来は両親にその力を使いたくなかった。歯止めとして決めていた。
犯人の姿は監視カメラには映らない場所で笹塚未来を襲撃した。逃げる姿は大勢にまぎれて判別できない。
笹塚未来は取り調べされながら、情報も同時に集めていた。
しかし何一つわかることなく、夜遅くに父親が運転するパトカーで自宅に帰ることになった。
帰ったら母親が笹塚未来の好物を揃えた食卓で待っていてくれた。
何度も心配したのよと言って、強く抱きしめて安心できるように笑顔を向けてくれた。
笹塚未来はまず温かいお風呂に入り、母親と少し遅めの食事しつつ学校の話をする。
明日の学校の準備をして、ベットに寝転がる。電気を消す前に母親がやってきて寝かしつけてくれた。
おでこに小さなキスをされて頭を撫でられる感触が心地よくて、笹塚未来はそれだけで幸せな気持ちになる。
母親が寝たのを確認して電気を消して静かに部屋に出て行く。アダムスは充電器でスリープモードに入っている。
笹塚未来はそのまま幸せな夢を見るはずだった。
化け物なのに、人間みたいに生活するんだね。
夢の中で袖口を斬った犯人の声が聞こえた。化け物と笹塚未来を呼んだ。
自分は進化した人間だと指差したら、その指は人間の手ではなくアンドールの蛙の手。
見上げれば目の前には笹塚未来の体。でも笹塚未来は蛙のアンドールになっている。
では自分は誰で何でどんな存在なのかと苦悩し始めた瞬間、笹塚未来は目を覚ました。
朝の明るい日差しがカーテンの隙間から部屋に飛び込んでいる。起き上がれば寝汗が酷かった。
心臓が大きな鼓動でもう一度眠るのを妨げる。アダムスはまだスリープモードで笹塚未来の異変に気付いていない。
胸を押さえながら笹塚未来は苦々しい物を口にしたように呟く。
「私は…しん、かした人間なんだ…人間なんだよ…」
学校に向かう最中、笹塚未来は呪文のように同じことを呟く。
自分は人間で、能力は進化した証で、アニマルデータが普及すれば皆同じになると。
もっと未来になればきっとこれが普通になるんだと呟き続ける。
何度も何度も呟いて心を落ち着かせようとした。
登校途中の竜宮健斗達に会うまでは。
崋山優香と羽田光輝に白子泰虎もセットのようにいる。
見つけられて声をかけられた時点で笹塚未来は呟くのを止める。
そしていつも通りのすました笑顔で爽やかに挨拶をし、何事もなかったように一緒に登校する。
昨日の袖口を切り裂かれたことについて心配したという声を聞きながら、上辺で大丈夫と応じる。
もちろん心の中では関係ないのに首つっこまないで欲しいと悪態をつく。
誰もそんな笹塚未来の心には気付かない。心は誰にも見えないからだ。
だから笹塚未来は決して本音を口にしない。上辺で綺麗で清楚な少女として活動する。
いつも通りである。病院にいた頃から変わらない笹塚未来の特技である。
「それにしても未来は演技するの上手いな」
竜宮健斗がその一言を告げるまでは、笹塚未来の日常はいつも通りだったのだ。
全くの他意もなく悪意もなく笑顔で言う竜宮健斗はすぐに今日の給食を気にし始める。
しかし笹塚未来及び崋山優香達はそんなにすぐ切り替われない。
一体今この馬鹿は何を言ったと戸惑うだけだ。こういった場合問いただすのは崋山優香の役目である。
竜宮健斗のランドセル掴んで引き止め、どういうことだと迫る。
「いやだって未来は本音で話さないだろう?いつもニコニコしてるけど、どんな時も笑ってるの変じゃん」
いつも通り笹塚未来は笑顔でそれを聞いていた。竜宮健斗の言葉を笑顔で受け止めている。
しかしこの場合は笹塚未来は泣くなり怒るなり、なにかしら行動や感情を晒さなければいけない。
だが笹塚未来の表情は一向に変わらない。笑顔のままただ冷静に告げる。
「そんなことないわよ?いやだわ健斗くんたら」
「ほら。笑ってる。笑うのはいいけどもし俺が馬鹿なこと言ったら怒っていいのに、笑う」
笑顔で受け流そうとした笹塚未来に竜宮健斗は追い打ちをかける。
眉目秀麗な笹塚未来の表情が変化する。些細な変化だが口の端が少し痙攣した。
心の中では本音が暴れまくっている。この大馬鹿野郎がと叫べるもんなら叫びたい。
しかし笹塚未来はそんなみっともないことはしない。大人の対応で笑顔のまま切り返す。
「本音を言えば良いってものでもないから。ほら、やっぱり人付き合いってあるし…」
「…そうか」
竜宮健斗は何かを言おうとして、少し考えてから言うのを止めて話題を終わらせた。
確かに付き合いの中で本音だけで付き合えるというのは、滅多にない。
大体は秘密を持っていたり、建前や本音を混ぜつつも柔らかい言葉で誤魔化す。
馬鹿とはいえ竜宮健斗も本音だけでは誰かと話すのは難しいと知っている。
それでも確かに笹塚未来との壁を感じた。笹塚未来は人付き合いと言った。
友達とは一言も口から発さなかった。
本日のラブラブ大作戦第二弾は南エリアの観光である。
NYRONの観光名所としても有名で海の見える南エリア。
恋人用のオープンカフェや土産物、その他諸々旅行に必要な物が揃っている。
笹塚未来は朝の報復も合わせて、今度こそ竜宮健斗の行動抑止してやると意気込む。
クラス委員長浅野弓子や同級生の山中七海達は早くあの二人をくっつけて楽したいと言うのが本音である。
そして今回一味違うのは二宮吹雪が会見ニュースで見た籠鳥那岐に対し、大いなる興味を持っているということだ。
二宮吹雪曰く、あのチョーきつい眦に惚れた、だと豪語している。
正面切っての惚れた宣言は羽田光輝のような少年の視点から見ても男前に映る。
白子泰虎は特に興味がないらしく、頭を前後に揺さぶって今にも寝そうである。
そんな白子泰虎が倒れないように爆発するように笑う七園真琴が背中を支える。
また放課後に一旦家に帰り、今度は駅前で集合。南エリアまで電車で向かう。
東エリア事務所には南エリアに遊びに行くと伝えてあり、南エリア事務所にも遊びに行くとメールをしてある。
南エリア駅に着いたら即座に事務所へと向かう。少し重めの扉を開けて事務所に入る。
すると見目麗しいゴシックロリータの服を着た御堂霧乃が、籠鳥那岐を押し倒していた。
「…お、お邪魔しました…」
「待て。おいどけ人生最大汚点。健斗達がやってきた」
「ありゃ本当。うぃーす、ひっさしぶりー」
最初に扉を開けた崋山優香がひっそりと扉を閉めようとした。
それに気付いた籠鳥那岐は上に乗っかっていた御堂霧乃を蹴飛ばし立ち上がる。
蹴飛ばされた御堂霧乃は後転してすぐに立ち上がり、怠そうな挨拶をする。
事務所内ではあとは窓の外を眺めて無視を決め込んでいた錦山善彦がいた。
竜宮健斗は普通に中に入っていき、籠鳥那岐とシュモンに挨拶する。
シュモンはこっそりと籠鳥那岐大量友達獲得チャンスと目を光らせる。
錦山善彦は空気を呼んで入ってきた人数を数え、お茶の用意をし始める。
その足元ではペンギンのアンドールであるギンナンが行動を共にしている。
「優香ー聞いてくれよー。なっちゃんったらアタシがせっかく手編みのセーター作ってやろうと採寸測ろうとしたら抵抗するんだぜ?」
「お前の作った物などきな臭いだけだ。市販品にしろ」
「あ、ああ…そういうことなんだ」
勝手に勘違いしてしまったことが恥ずかしくなった崋山優香は顔を赤くする。
しかし錦山善彦は知っている。採寸は押し倒しの一部でしかないということ。
滅多にないチャンスで御堂霧乃が籠鳥那岐に色々と、それはもう押し倒さなければできないあらゆる内容を実行しようとしていたことを。
だからこそ窓の外を眺めていたわけだが、あえて言う必要はないので静かに茶を蒸らしていく。
二宮吹雪は籠鳥那岐の顔を眺め、そして少し考えた後こう言う。
「チョーチェンジ。なんというか思ったよりチョー背低い」
「…竜宮健斗、この失礼な奴は?」
「うおう!?いきなりフルネーム…怒ってるなぁ…俺と同じクラスの二宮吹雪」
それを皮切りに浅野弓子や笹塚未来達も自己紹介していく。
紹介を終えた者から錦山善彦はお茶を渡していく。
するとそこへ南エリア所属の伊藤三つ子と布動俊介達が事務所に入ってくる。
竜宮健斗が声をかける前に、有川有栖と伊藤三月が抱きつくように飛びつく。
「健斗さぁあああん!!会いたかったです!最近会見とか色々あって事務所にもいないし寂しかったんですよぅ?」
「ぐす…会見良かったです。それと南に来たのは、その、ぐすっ、私に会いに?」
有川有栖は涙目上目遣いに腰に腕を回す完璧な肉食系女子体勢。
伊藤三月は服の端を掴んで、頬を赤らめての恥じらいを入れた守ってあげたい女子を再現している。
同じ女である崋山優香や浅野弓子達から見て、明らかに攻めに行っているとわかる完璧なアプローチである。
しかし悲しいながら相手は馬鹿で鈍感の竜宮健斗である。笑顔で応対しつつこう言う。
「二人とも久しぶりだな。今日は那岐に会いに来たんだよ」
その瞬間有川有栖と伊藤三月の肩が脱力するのが目に見えてわかる。
恋敵とはいえ崋山優香すら同情してしまうほど、その姿は敗北の悲壮感が漂っていた。
布動俊介は基山葉月と一緒に固い笑顔である。伊藤一哉と伊藤二葉はいつも通りと達観している。
そして事務所内の人口密度が一気に高くなったところで、御堂霧乃が出口へと向かう。
その際に笹塚未来の横を通ることになり、偶然にも目線がしっかりと合ってしまう。
御堂霧乃は少しその視線を受け止めた後、意地悪く笑う。悪役顔負けの底意地の悪そうな顔である。
「健斗、お前も厄介そうなのといるなー。これはNYRON大会楽しみだな」
「大会!?詳細決まったのか!!」
「今度メールで送信するからちゃんと事務所行けよ、じゃあな」
去り際に笹塚未来に含み笑いを見せつけ、御堂霧乃は出て行く。
笹塚未来は自分と同じような物を感じ取って、もう一回会うことがあったら気を付けようと警戒する。
有川有栖と伊藤三月達六人は改めて遊びに行くと言って、事務所から出て行く。
目まぐるしく出会う子供達に、事務所に初めて深く関わる羽田光輝達は言葉が出てこない。
ただ二宮吹雪が錦山善彦にずっと視線を向けている。
「チョー良い。そこのお茶くみチョー良い感じ」
「ん?俺のことかいな?」
「チョー知りたい。良かったらメルアド交換しない?」
あっという間に籠鳥那岐から狙いを変え、錦山善彦にアタックを仕掛ける二宮吹雪。
その潔さと切り替えの早さには誰もが舌巻く。足元のギンナンがモテキどすなぁと呟く。
竜宮健斗だけがそのラブコメの始まりに気付かないまま、新しい大会へと期待を膨らませている。
白子泰虎が今にも眠りそうでお茶を零しそうになると七園真琴がフォローする。
「…ありがとう…ぐー」
「マジウケるんだけど!!なんでお礼いった後寝るかなー、こいつは!」
大笑いしながら肘で白子泰虎の脇をつつく七園真琴。
それはとても楽しそうな光景で、浅野弓子は横目で羽田光輝を見る。
しかし羽田光輝は竜宮健斗に新しい大会ってなんだと質問している。
少し黙考した後で浅野弓子はわざと熱いお茶を一気飲みし、舌を火傷したような演技をする。
錦山善彦が水を持ってきて、笹塚未来が大丈夫と声をかけてくる。
しかし羽田光輝は新しい大会ということに夢中で気付いてない。
「…第二のニブチン」
<ああ…ここにも応援したいような子が…>
その様子をずっと眺めていた崋山優香とセイロンが呟く。
クラス委員長の浅野弓子はしっかりした女子で、いつも羽田光輝の尖った髪型を注意している。
しかしその姿はどこか嬉しそうで、勘の良い女子は何人か気付いている。
だがお互いにタイミングやアプローチが噛みあわず、空回りを続けている。
崋山優香が同情の視線を向ける横で、山中七海は密かに焦りを感じた。
もしかして自分だけ色恋沙汰から置いて行かれているんじゃないかと。年頃女子特有の焦りである。
内心冷や汗だらけでお茶を飲んでいたら、笹塚未来と目が合う。
「未来…アタシ達いい友達でいようね」
「え、ええ…」
同類扱いされた笹塚未来は少し戸惑いつつ応じる返事をした。
しかし内心は別に私くらいになればいつでも恋くらい簡単にできるんだけどと呟く。
ついでに今はそんな暇がないだけ、とモテない人特有の言い訳を口にする。
そんな賑やかな色恋の気配を感じ取ったシュモンは、平然とお茶を飲んでいる籠鳥那岐に声をかける。
<フォーリンラブ。恋はいつも突然に>
「おっさんくさい」
短く要件だけをまとめた籠鳥那岐の言葉は、シュモンに予想外なダメージを与えた。
そしていつも通り首のあたりを締められ、余計なこというなと脅される。
やはり友達と言う外堀から埋めるしかないかと、シュモンが諦めていないことに気付かないまま。
その後はただのんびりお茶を飲むことに従事してしまい、ラブラブ大作戦は失敗に終わるのであった。
玄武明良は試作機SUZUKAの関節やコードの構成を眺める。
人間と全く同じ生活ができるアンドール、いやアンドロイドともいえる造形。
血管代わりのオイルチューブに筋肉代わりの伸縮するゴム繊維。
骨組みの柔軟ながらもある程度の強度を持った鉱物を使った骨組み。
動きや循環を管轄する胸のCPUと視覚情報など記憶容量を司る頭内部のCPU。
食物を消化できて熱エネルギーとして変換できる内臓代わりの機械の数々。
その内臓代わりの機械もゴム袋などで体の屈折に対応できるようにしてある。
皮膚にはフェルトに近い布地で、うぶ毛などの人間の皮膚を殆ど再現している。
暑くなれば水を放出して冷ます機能付きでもある。髪も鉄の構造を利用した鬘に近いものを使用。
睫毛などもそうやって再現されている。口も筋肉の動きで動くように柔らかい。
粗を探せば探すほどにその完成度に舌を巻くしかない。動けば本当に人間と見分けがつかないだろう。
「…今の俺では作れないな」
「それってさり気に将来は作れるって言ってるね」
玄武明良の呟きに扇動岐路は感心するように言う。
ロボット工学に強い玄武明良は素直にその言葉を受け取る。
そして扇動岐路が保存していたマスターとクローバーとやり取りしたメールを見る。
クラリスと逃亡生活を続けていた中で、試作機SUZUKAを作る際に送られてきた設計図の数々。
流し読むように高速スクロールで設計図を見ていく。普通の者からしたらありえない速度である。
しかし玄武明良は細部まで読めているので問題ない。むしろ無駄な時間が取られなくて効率的と考えている。
全ての設計図を読み終えて、玄武明良は痛む目頭を押さえつつ溜息を零す。
「やっぱり…俺達の予想は当たっているようだ」
「そうかい。てことは…」
「ああ。クローバー博士の正体はあいつだ…」
沈痛な表情で玄武明良は確信する。
マスターの設計図はまだ現代技術を応用した数年先の技術。
しかしクローバーの設計図は明らかに一足飛びした未来の技術と言わんばかりの物が詰め込まれていた。
それこそ試作機SUZUKAを一度解剖して仕組みを知ったような、細かすぎる内容。
地底遊園地で聞いた発言の数々に、言い直した呼び方。
全てが繋がってある人物に辿り着く。しかしそれは大きな問題を呼び込む。
「…クローバーはなぜ名前を変えているのか…あんなに好きだと言ってたのに…」
「まず彼がどれだけ遠い人物かわからない…もし数百という長い先に居たら…アニマルデータならそれができてしまう」
雪降る北エリアのある一軒家。その中において玄武明良と扇動岐路は表情を暗くする。
未来を目指して動いてきた。理想と夢の中でもがきながら進んでいた。
でもその未来が幸せかどうかは誰も知らない。それが自分の寿命ではたどり着けない先だとしたら。
人間の寿命は百年と少し。アニマルデータになれば半永久的に伸びる。
もし長く生きたいなら現時点ではアニマルデータになるしかない。人間をやめるしかない。
「…今度は何が起きるんだよ…もう事件はゴリゴリだぜ」
「私もだよ。しかし時間は待ってくれない…今は世間の動きを見て進めていくしかないね」
アニマルデータに関して今のところは平和な動きで進み始めた。
しかし不安は消えない。いつどこで誰がどう動くか全くわからない状況になってしまった。
誰も管理できない場所までアニマルデータという存在は認知されてしまった。
だからこそ用心しなければいけない。世の中全てが悪いことじゃないとしても、確実に悪いことはあるのだ。
最悪だけは避けなければいけない。そんな状況で玄武明良は思わず愚痴のように似合わないことを呟く。
「未来を知る機械が発明できたら良かったのに」
梟のアンドールであるロロを肩に乗せ、時永悠真は北エリアの外を散歩していた。
雪がぱらつくまだいい天気と言える状態の天候の中、傘を差しながら買い物袋を片手に自宅へと向かう。
ポケットには今は使う予定がない十徳ナイフ。まだ一回しか使ったことがない新品のような道具。
できればその一回で使用を終わらせたかったが、時永悠真は失敗してしまったのであと一回は確実に使うしかない。
本当に使えることができたら銃が良いのだが、それでは面倒なことになる確率が高い。
だからナイフなのだが、時永悠真はうんざりしていた。
「…人の命って重いね…」
<そうだな。なぁ悠真……その、そのさ>
「でもね知ってる?」
<…?>
「人の命の音は軽いんだよ。一瞬で消えちゃう」
まるで本当にその音を聞いたように、時永悠真は真剣な声で告げる。
ロロはその顔を見て何も言えなくなる。得意の却下すら出せないほど。
本当は止めたい気持ちで一杯で、気軽に却下できるならしたかった。
でも時永悠真の目的や生きる意味を知っている今は言えなかった。
時永悠真は止まれない。自分で決めてブレーキを壊してしまったから。
もし止まる時があるとしたら死ぬか、それ以上の何かがある時だけである。
それほど強い覚悟をもって時永悠真はチャンスを待っていた。
クローバーは自室兼研究室でソファの上で本を読んでいた。
熟読するように端から端まで眺めて、ついでに製造年月日と版数まで確認する。
一字一句逃さない読み方で全て暗記し、読み終えた本を床の上に置く。
おかげで大量の本が無造作に床に積まれて今にも崩れそうな程だ。
欠伸を一つして同じように本や器具で埋もれている机に近づく。
本を大切そうにどかして、フラスコでお湯を沸かしてコーヒー粉末を入れる。
即席コーヒーをビーカーに入れて飲み流し、真っ白な頭を適当に整える。
「さてさて柊くんは予定通りに行動してるかな……って、盗み聞きは良くないよお客さん」
本の山に隠れるように座っていた人物にクローバーは声をかける。
人物は一言も発さずにただ隠れ続けている。しかしクローバーは気にせずにビーカーを片付け始める。
そしてホワイトボートに黒のペンでいくつもの公式や理論を書きだしていく。
今となってはあまり作られてない道具を用いてることから、クローバーは変人扱いされている。
しかしクローバーはこの懐かしい感覚を忘れたくなくて、昔ながらの道具を用いる。
「世界構築理論、時空干渉による複数世界、魂という存在の定義による時空移転の制限…」
「…」
「それら全て合わせて、貴方は過去には行けませんよ…アニマルデータの王、アダムス」
本の山に隠れている人物を、クローバーはアダムスと呼んだ。
さらにはアニマルデータの王と前述を置いた。それはクローバーのいる世界では正しいこと。
ホワイトボードに綴られた公式達は全て時空移転、つまりタイムマシンに必要な理論。
その理論によると自分のいる時代には行けないとなっている。
アニマルデータが一人につき一つしか存在しないように、魂も一つの世界では一つしか存在できない。
だからこそアダムスは過去のアダムスがいる過去世界には向かえない。
つまり消失文明で生きていた時代と、竜宮健斗達が生きている世界には行けないと断言しているようなものだ。
「別に過去が変わっても、それは未来世界が複数増えるだけ。僕はその理論で開発しました」
クローバー博士の理論とは、世界は単一ではなく複数存在するという内容だ。
過去が変わると未来が修正されるのが単一世界、過去が変わっても未来が変わらないのが複数世界。
複数世界では選択した数だけ可能性が生まれ、その可能性の数だけ世界が増えるという内容だ。
だから過去に戻って時代を変えたとしても、変えた分だけの世界が生まれるだけで元いた未来世界の内容は変わらない。
つまり未来の誰かが竜宮健斗の時代やアダムスの時代に干渉しても、今の時間や世界は変わらないことになる。
「だから彼が過去を変えたとしても、違う未来が生まれるだけ…今の貴方が消えることはないし、何も変わらない」
「……」
「この世界はもうそうやって決まってるんですよ。誰かの死んだ過去は変わらないし、生き続けることもない」
「…」
「しかも僕の発明したあれの最大の欠点を貴方は知っているでしょう?」
少し恥ずかしそうにしながらも真剣な顔でクローバーは一つの本を取る。
それはクローバーが開発した物に関する自伝と、批判するための本。
偉大な開発をしたとしても、素晴らしい発見をしても、全てが優しくなるわけじゃない。
むしろ風当たりはきつく、使い方によって大きな後悔を生むだけである。
それでもクローバーは開発した。開発の結果、今の技術ではある重要な機能が再現できなかった。
「僕のタイムマシンは、元の時代…世界に戻ることはできない」
もし過去に戻れるとしたら戻りたいと多く望む者はいるだろう。
しかし元の時間に戻れないとしたら、一体どれだけ多くの人が悩むだろうか。
さらには過去に戻れて内容を変えたとしても、元いた時間が変わるわけではない。
ただ変えた分だけの未来世界が生まれるだけである。元いた時間は変わらずに進むだけである。
死んだ人は蘇えることはない、今にも死にそうな人が急に元気になるわけでもない。
ただ死ななかった可能性や元気になる可能性の世界が増えるだけである。
クローバーの作ったというタイムマシンは、そんな機械なのである。
「だから彼がこの世界に戻ることはない」
「…」
「君は今まで通り覇道を突き進めばいい。何も変わらないさ。この世界は…ね」
クローバーは窓の外を眺める。一見普通の住宅街である。
しかし道を歩く多くはロボットである。人間の姿を見るのは極稀である。
そのロボットは一見人間と変わらない容姿をしている。むしろ人間にしか見えない。
だがそれは外見だけで骨組みや脳に内蔵、全てが人工物である。
工場で大量生産できるほど安くなってしまった、むしろ無料の体。
中身はアニマルデータや人工知能など様々で、誰か人間だったか判別するのは難しい。
機械の発達や人間の減少による二酸化炭素激減によって、環境破壊は少なくなっている。
平和の象徴のように青空は鮮やかに澄み渡り、太陽は恵みを与えるように輝く。
「それなのになんで僕のところに忍び込むほど不安になっているの?まさか…過去の自分が殺されるのが気に食わない?」
「っ!?」
「だとしても、君は過去に干渉できない。過去の君が死ぬまで…ね。しかも栄華を極めたこの世界に戻れないオマケ付き」
「…」
「それとも彼が向かった理由が知りたいの?この時代に戻れないことを覚悟して行った彼を」
山積みの本が一部崩れる。動揺で肩を動かしてしまった人物のせいだ。
後で急いで直そうと思いながらもクローバーは相手がどう出るか反応を待つ。
それ以上動かないところを見ると話の続きを聞くつもりらしい。
クローバーは懐かしそうに目を細めながら、忌々しそうにはっきり言う。
「君が彼の友達を殺した原因だからさ。彼は友達の未来世界を守るために…君を殺す」
それは明確な殺人予告。予告と言っても過去の出来事ではある。
だがその未来はまだ決まっていない。複数ある過去世界の一つは変動を続けている。
変動の数だけ未来世界は瞬間的に生まれ続けている。そして未来世界の変動は過去世界にも影響を与えている。
だが魂が味わえる世界は一つだけ。存在している世界だけで、確定した過去に悩みつつも可能性の未来を掴もうとしている。
「僕はただそれを…無力なまま眺めるだけなんだ」
クローバーは自嘲するように床に顔を向ける。
タイムマシンを開発して、天才と呼ばれ、あらゆる知識を身に着けてきた。
それでも難しいことは難しいままだし、クローバーの手では世界を変えることはできない。
ずっと昔に考えていた願いすら叶えられない、その無力さだけを思い知った。
だけどクローバーは死ねなかった。死ぬわけにはいかず長い時間を生きてきた。
「これはね…決まってたことなんだ。君も知ってるだろう?ただ君が間違っただけなんだ…またね」
「…」
「まさかその姿で手を伸ばせば変えられると思ったの?呆れるよ」
笑ってクローバーは窓に顔を向ける。自然と背中は扉に背を向けることになる。
その背後で扉が勢い良く閉められる音と、走っていく音が聞こえる。
子供の足音で歩幅は狭くも歩数の多い足音である。
足音が少しずつ遠ざかっていくのを聞きながら、クローバーは窓の外を見つめる。
「そう。僕は世界を変えられない。でも………誰かに変えるチャンスは与えられる」