ラブラブ大作戦with襲撃者
周知の事実ではあるが、大変忘れられることがある。
崋山優香はアニマルデータを持っていない。つまりユーザーではない。
普通のアンドールである兎のラヴィを持った、普通の女の子である。
ただ幼馴染の竜宮健斗がアニマルデータを所持したことにより、流れで関わってしまっただけである。
一度は手に入れてみようかと試したが、失敗している。そして手に入れることは止めている。
そのためアニマルデータを持っていないのだが、エリアチームに所属していたためマスコミに追われる羽目になってしまった。
学校に行けなくなってしまったある日の夜、会見ニュースを見てド肝を抜かれた。
最後まで見終えた後はお決まりの言葉を吐き出すしかなかった。
「相変わらず馬鹿なんだから…」
翌日、登校できると踏んだ崋山優香は学校へ向かう。
その途中で竜宮健斗に会う。いつもと同じように。
違うのは周りの視線や対応だ。いつもと変わらない光景の中で世界の常識が少し変化した。
ただそれだけなのに崋山優香は居心地の悪さを感じた。
だというのに目の前にいる馬鹿な幼馴染は呑気に欠伸をしている。
しかも大口開けての遠慮ないものである。崋山優香は脱力するしかない。
「おはよー」
「おはよう…って、昨日のニュース出てたけどまた馬鹿なことしたわね」
「…応ぅう…やっぱり俺変なこと言ったかな?」
「いいんじゃない?なんかいつも通りの馬鹿で少し安心したから」
世界が変わると誰か偉い人がテレビで話していた。
でも崋山優香の日常はどこも変わってない。
いつも通りに学校に向かい、いつも通りの竜宮健斗と話す。
今日は雲一つない晴天で、明日は雨だと予報が言っていた。
隣の家の犬は姿を見かけたら喜んで尻尾を振って近付いてきた。
放課後にはいつも通り事務所に集まって、ユーザー探しに奔走する。
むしろマスコミに追われる方が非日常だった。崋山優香はそうまとめている。
ただ一つ口惜しいと言えば、狙っていた皆勤賞が貰えないことだけだ。
「優香も何も変わらないな」
「そうね。ケンも変わってないわね」
世界が変わると言われた。アニマルデータの存在が知られた。
それだけで変わってしまうと思っていた。目の前の全てが。
しかし結果は呆気なく何も変わってない。それを二人で確かめあう。
そしていつも通り学校に向かうだけの、いつも通りの朝が戻ってきただけである。
そのいつも通りが気にくわないの者もいる。
世界の常識を変えようと画策して動いた笹塚未来だ。
表面上は取り澄まして優雅に本を読むために自分の席に座っている。
しかし内心は面白くなかった。まさか同じクラスの竜宮健斗がアニマルデータを持っているとは思わなかった。
蛙のアンドールであるアダムスもセイロンにはなにかあるらしく、テレビを見て激怒していた。
さらに会見で竜宮健斗は甘いことを平然と言ってのけた。そのせいで世論が少し緩やかになってしまう。
様子見しようという意見が増えてしまったのだ。もっと劇的な変化が欲しかった笹塚未来からすれば納得いかない。
なんのために派手なパフォーマンスをしたのか、その意味がなくなってしまう。
クラスでもアニマルデータの話があるが、暢気なもので俺も私も欲しい、という買い物感覚だ。
笹塚未来が欲しかったのはそんなものじゃない。もっと心の底から渇望するような願いと変化。
誰もがアニマルデータを望み、その方法に手を伸ばそうと躍起になる事態が欲しかった。
これも全て竜宮健斗が馬鹿なことをしなければ叶ったかもしれないのに、と怒りを煮え滾らせている。
もちろん外面は綺麗で澄ました表情で凛とした清々しい姿である。中身を知らなければ完璧美少女である。
そこで笹塚未来は竜宮健斗の行動を抑止する方法を考える。
できれば人間関係がこじれるのが一番だ。特にアニマルデータを管理しているエリア関係で。
しかし笹塚未来が知っているエリア関係の人間といえば、同じクラスの崋山優香である。
竜宮健斗の幼馴染でアニマルデータは持ってないが、深く関わっている存在。
そして竜宮健斗に恋をしているというバレバレな姿をした少女である。
だが不可解なことに普通は小学校高学年まで行けば大抵は茶々を入れて二人は囃し立てられるものだ。
それなのに竜宮健斗と崋山優香の間にはそれがない。クラス全員が友達同士のように、あえて触れないように接している。
あまりに不可解なため笹塚未来は、おそらくクラスで一番事情を知っているであろうクラス委員長の浅野弓子に尋ねる。
すると浅野弓子は曖昧な笑顔で言い辛そうにしながらも、はっきりと告げる。
「ほら健斗くん馬鹿だから…物凄く鈍いんだ」
笹塚未来は全てを納得した。そして腹が立った。
あの作戦を邪魔する大馬鹿野郎はどこまでも大馬鹿だということ。
ならばこれは引っ掻きまわすしかない。二人の仲が近づいても引き裂かれても構わないほど。
笹塚未来としては二人が付き合おうが絶縁しようが関係ない。
要は竜宮健斗の行動が抑止されればいいわけである。
崋山優香はそのための生贄だと、ラブコメなんて甘い考えはしない。
休み時間に何故か仲良くなった山中七海を呼び、計画を話す。
そしてそれに二宮吹雪、七園真琴、果てには浅野弓子も協力者に。
さらに男子側から羽田光輝と白子泰虎も参戦する。
笹塚未来主導、クラス全員による竜宮健斗と崋山優香ラブラブ作戦が始まったのである。
放課後、いつも通り事務所に向かうために一旦家に帰ろうとした二人。
その二人を笹塚未来は呼び止める。もちろん上品で清楚で穏やかを文字にしたような呼び止めだ。
二人が何事かと目を向けていれば、東エリアにある新しくできたアンドールショップに行かないかという話だ。
そこに山中七海と二宮吹雪、七園真琴が行きましょうと押し寄せてくる。
説得力の後押しとしてクラス委員長浅野弓子も混じる。
女の子だけで竜宮健斗が腰を引けたところ、羽田光輝や白子泰虎も行きたいと声をかける。
二人は特に断る理由もなく、事務所に一言いえば相川聡史達も納得するだろう。
七人に圧倒されて、二人は承諾した。これが作戦であることも知らないまま。
全員は一旦家に帰宅する。財布やアンドールを取りに行くためである。
またランドセルを置いて身軽に動くためでもある。教科書の束など子供達には重いだけである。
竜宮健斗はセイロンに今日はクラスの子供達と遊ぶと言って、リュックを背負いセイロンを肩に乗せる。
エリアボスの証であるバッジをつけた帽子はいつも被っているため、そのままである。
そして母親に遊びに行ってきますと言って、待ち合わせ場所に走っていく。
七人もいるため自転車では動きにくいからだ。そして一番最初に着く。
待ち合わせ場所は遊び場としても有名な公園で、竜宮健斗はジャングルジムに昇って座る。
細い棒の上に座るためバランスが必要となるが、子供からすれば簡単なことである。
長時間座るのには向いてないが、すぐに全員集まってくるだろうと足をぶらつかせる。
すると次に来たのは笹塚未来だった。その腕の中には蛙のアンドール。
<…!?この気配…アニマルデータ!!>
「え?」
セイロンが慌てたように笹塚未来が抱いているアンドールに注目する。
竜宮健斗は目を丸くして同じようにアンドールを見る。
だから気付かなかった、笹塚未来のもうばれたのかよ、という表情を。
いつもの上品な様子から程遠い異様な表情に。笹塚未来もそれに気付いてすぐに表情を作る。
「なんでセイロンわかったんだよ?」
<アニマルデータは電磁波を常に出してるだろう?俺達はそれを気配として捉えられるんだよ>
最初に相川聡史とキッドに会った時もそうだっただろう、と言うセイロン。
そう言われたらそうかと竜宮健斗は納得する。そしてあまりにも人やアンドールが密集しているとわかりにくいと聞く。
人間自体も電磁波を出しているし、デバイスや電子機器も電磁波を出している。だから集まると判別が難しい。
だが今は砂場や遊具が広がる公園内で二人きり。だからわかりやすかったとセイロンは言う。
「なぁ、未来…お前のアンドール…」
「ん?ああ私のはなんだか健斗くんと違うみたいだから気付かなかったわ」
<…気温変化による…ジジ…>
機械的な喋り方をする蛙のアンドール。竜宮健斗には覚えがあった。
不完全なデータとして復活したアニマルデータはこの状態でいることが多い。
むしろ完全なデータは少ない。クロスシンクロして記憶を思い出して脳を共有すれば話はまだ別ではあるが。
目の前のアニマルデータもそんなデータなのだろうと竜宮健斗は思う。
「そうか…まぁでも未来がユーザーとわかって良かったよ」
竜宮健斗は明るい笑顔で言う。笹塚未来も笑顔で返す。
その心の内は、この能天気大馬鹿が本当に鈍くて良かった、と呟いている。
また蛙のアンドールであるアダムスも、セイロンが正体まで気付かなかったことに安堵する。
これなら隠し通せると、笹塚未来は腹の中であくどい笑みを浮かべる。
そこへ崋山優香達がまとめてやってくる。そしてアンドールショップへ向かうことになる。
笹塚未来は話しながら全員のアンドールを見る。
気の強い少女山中七海は蝶のアンドールで頭に飾りのように止まっている。
チョーといつも語頭につける二宮吹雪はシロクマのアンドール。ぬいぐるみデフォルトなので可愛らしい。
吹き飛ばすような爆笑の七園真琴は蛇のアンドールである。首に巻き付いていて一瞬ギョッとする。
クラス委員長の浅野弓子はアヒルのアンドール。白い羽が綺麗なので白鳥と間違えそうになる。
ツンツン頭の羽田光輝は猿のアンドール。こちらもぬいぐるみデフォルトで愛嬌がある。
今にも寝て倒れそうな白子泰虎は腕にナマケモノのアンドール。そちらも寝ているように抱きついて動かない。
それぞれアンドールを持っているが、笹塚未来と竜宮健斗以外はアニマルデータを持っていない。
現在アニマルデータを持っていると判明しているのは、竜宮健斗だけである。
羽田光輝や山中七海は竜宮健斗の肩に乗っているセイロンをひたすら眺めている。
「なぁなぁ、本当にそれ喋るの?ちょ、ちょっとだけ聞かせてくれよ…」
「あ、アタシにも聞かせなさいよ!!」
「ちょ、別に普通だよなセイロン」
<そうだな。そしてこれから広がっていくのだ…今だけじゃないから慌てるんじゃない>
青い西洋竜から発せられた言葉に、羽田光輝達だけじゃなく浅野弓子や眠そうにしていた白子泰虎も興味を見せ始める。
そして触らせてやもっと喋っての嵐である。セイロンは困ったように順番に、と注意する。
しかし外でも自由に喋れることが嬉しいのか、拒否することはなかった。
質問に的確な返事をし、またセイロンの方から今の時代の学校などについても質問していく。
機械とは思えないほどの滑らかさに、子供達はアンドールが本当に人間のように感じた。
もしこれで外見が人間のロボットであったら騙されるだろうと感じるほどである。
「セイロンって昔の人間なんでしょ?むにゃ…死ぬのって眠るのに似てるの?」
<…俺の死に方は確かに眠るようにだったな…しかしもう一度味わうのは怖いな>
「ぐー…」
<…寝てるけど、この子はこれでいいのか?>
「泰虎はいつもこうだよ!ほらー起きろー」
質問をしたのに答えを聞く途中で眠った白子泰虎。
竜宮健斗と羽田光輝が体を揺さぶって声をかけて、なんとか起こす。
目をこする白子泰虎は瞼を何度も動かしてセイロンに言う。
「…アニマルデータって、どう?」
<難しい質問だな………俺は、まだ答えが出せない>
空を見上げてセイロンは寂しそうに言う。
それは誰かを想って告げたような、会えない誰かに伝えるような響きだった。
正しい答えすら出せない、どんな解答も正解のような難しい問題。
セイロンは答えを濁したわけではない。本当に答えが出せないことを正直に告げた。
それを白子泰虎だけでなく、羽田光輝達も受け取る。
「アダムス・フューチャーズは全人類に必要ってチョー言ってなかった?」
<…俺はそう思わない。彼には悪いが、俺は…必要に感じない>
「…どうして?病気がなくなるのよ?」
それまで黙っていた笹塚未来が、少し鬼気迫る声を出す。
どこか必死で辛そうな、いつもとは違う雰囲気でセイロンを見ている。
誰もが笹塚未来がつい最近まで病院にいたことを思い出す。
セイロンはそれを知らない。だから自分の考えを素直に言う。
<病気がなくなっても我々には大きな問題がいくつもあるんだ>
「死ぬことなんてないんでしょう?それだけでいくつの問題がなくなると思うの?これはチャンスでしょう!」
<……ああ、人間をやめるチャンスだな>
それはずっとセイロンが抱いていた感情。
もう人間ではないと認めたことによる、静かな思い。
その言葉に羽田光輝達も盲点と言わんばかりに目を丸くする。
笹塚未来もそこまで考えが至らなかった。だから同じように目を丸くする。
そして実はもうアニマルデータになった自分は、人間の体に入ったなにであるのか。
クロスシンクロしてアダムスと体を入れ替え、そして変な能力にも目覚めた。
もしこれら全てが人間じゃないとしたら…答えは簡単だ。
人間じゃないなら、化け物である。
笹塚未来は人知れずアダムスを抱きしめる力を強くする。
そして考えを広げていく。今の人間が進化してないだけだと。
アニマルデータの技術で進化して、全人類が同じになれば、人間という定義が変わる。
だからこのまま計画を進めればいい。それだけである、と。
だから笹塚未来はすぐに気を取り直して、明るく言う。
「私は病なんてしたくないから、アダムス・フューチャーズに賛成」
<…まぁ、それも正しいんだろうな。きっと>
「セイロン…あまり難しいこと言ってると、ほら。ケンが理解追いついてない」
今にもオーバーヒートしそうな顔の竜宮健斗。
それを見て崋山優香がさり気なくセイロンに伝える。セイロンは慌てて竜宮健斗の名前を呼ぶ。
いつも通りの竜宮健斗の馬鹿さ加減に、緊張していた山中七海達が笑い出す。
それだけで空気が変わっていく。日常へと戻っていく。
笹塚未来はそれが面白くなかった。だから崋山優香に視線を向ける。
この後が勝負なのだと気合を入れる。覚悟しろよ竜宮健斗と意気込む。
そんな笹塚未来達の後を追う影があった。
アンドールショップはアニマルデータ認知により混んでいた。
大盛況、万来御礼と言わんばかりに人が溢れていて歩くのも難しいほどである。
これはさすがによした方がいいんじゃないかと竜宮健斗が意見しようとして、背中を押される。
押すのは羽田光輝で横では浅野弓子が崋山優香の背中を押している。
そして七園真琴が大笑いしながらはぐれないように近くの人と手を繋いでと大声で言う。
もちろん竜宮健斗の場合は崋山優香である。片手にはアンドールを抱えているため、他とは繋げない。
崋山優香はいつも通りと言わんばかりの顔で平常心で手を繋ぐ。
しかし人の波が動いて予想外に竜宮健斗の胸元に飛び込んでしまう。
これにはさすがの崋山優香も茹でた蛸のように真っ赤になって、口をパクパクさせる。
竜宮健斗は今にも押し潰されそうでそれどころではないのが残念なポイントである。
セイロンは一体何が起きてるのかと思っていたら、羽田光輝が近づいて小声で言う。
「いい加減この二人にはくっついてもらいたいんだよ…協力してくれセイロン」
<…まぁ、そういうことなら>
セイロンとしても二人が付き合うことには賛成なので承諾する。
そして竜宮健斗に秘密話をするように小声で言う。
<健斗。少しでも余裕を持たせるために優香を抱き寄せろ>
「お、応。わかった」
抱き寄せるという行為に深い意味を感じてない竜宮健斗はあっさり崋山優香を抱き寄せる。
崋山優香はそれだけで悲鳴ではなく心臓が口から飛び出そうになる。
そして周りの視線が気になり、顔を下に向けたら運悪くセイロンと目が合ってしまう。
それだけで恥ずかしくなった崋山優香は繋いでいる手で、力の限り上にフルスイングする。
竜宮健斗は崋山優香の手だけではなく自分の手も合わさって顎を強打。痛いという声すら出せないほど激痛。
結果大暴れすることになり、二人は弾き出されるように店外へ。
続くように羽田光輝が浅野弓子と手を繋いで出てくる。そしてお互い顔を赤くしてすぐに放してしまう。
少し経ってからボロボロの姿で山中七海が眠っている白子泰虎を引きずるように出てくる。
揺さぶって起こすではなく、殴って起こす。白子泰虎は小さく痛いと言うだけである。
山中七海が激怒していると、二宮吹雪と七園真琴が抱き合うように出てくる。
七園真琴が大笑いしながらこれ百合じゃねと言う横で、二宮吹雪がチョー面白くないと嘆息する。
しかし笹塚未来だけが出てこなかった。
笹塚未来は芋洗いのような店内でまごまごしていた。
折角の竜宮健斗抑止作戦なのに、これでは自分抑止作戦じゃないかと苛立っていた。
そこで後ろに誰かが立つ気配がした。流れてきたような感覚ではなく、意識して後ろに立ったような悪寒。
あまりにも感情を凝縮しすぎて小さくなったような声が響く。
「死んでよ、アダムス」
視界の端で冷たい金属が輝いたように見えた。
竜宮健斗が顎を痛みが和らぐように触っている中で、アンドールショップ店内で悲鳴。
すると人が雪崩れるように店外へと駆け出していく。巻き込まれないように歩道の端へと寄る。
あまりにも多い人の数に気持ち悪さが込み上げる中、その人の中に見知った姿を見かける。
似ているだけかもしれないがそれにしては似ていると竜宮健斗は目で追おうとした。
しかしすぐに人の波で消えてしまう。見間違いかと首をひねる。
「今確かに…悠真がいたような」
いきなりの事態で外に逃げ出した人達が少しずつ戻り、野次馬のようにまた集まってくる。
店内では店員が笹塚未来に話しかけている。竜宮健斗達は友達と言って近くに行く。
近寄れば笹塚未来の服が少し裂けていた。力任せではない刃物を使ったような裂け口だ。
袖が裂けていて、あと少しずれていたら抱きかかえている蛙のアンドールが傷つく位置だ。
笹塚未来は青ざめた顔で涙すら出ない、放心した状態で座り込んでいる。
「なんで…なんで…」
「未来ちゃん!?大丈夫?」
「アタシの友達に…誰だー!!ぶっ倒してやるー!!」
「なっちーチョー落ち着いてよー」
浅野弓子が笹塚未来を宥めている横で山中七海が激怒する。
その激怒した山中七海を二宮吹雪がクールダウンさせているが、あまり効果はない。
しかし笹塚未来は床を見ながらなんでと呟き続けている。
全く知らない声だった。その声の人物がアダムスの名前を知っていた。
自分しか知らない名前を呟いて殺そうとした。そのことに恐怖を隠せなかった。
中央エリア、シンボルである鐘が鳴る時計台。
かつてはここでクラリスというアニマルデータが隠れ住んでいた。
つい最近までは封鎖されていたが、今は一般公開されていて誰でも入り口から入って内部を見学できる。
秘密の通路はコンクリートで埋められた。三階までが一般公開で、四階からは簡単な整備室と鐘をコントロールする機械が置かれているだけ。
管理人はいるが、常駐していないので実は五階まで簡単に行けてしまう。
その五階には中央エリア中に音を響かせる鐘と、それを鳴らすための機械だけ。
機械は鳴らすだけとは思えないほどの最先端の機械だが、あまり知られてない。
そして誰も知らない。その中に扇動涼香の最初の友達、扇動岐路が作った人工知能のクラリスが眠っていることを。
誰も知らないはずなのに、その機械に近づいて人工知能のクラリスを目覚めさせる者がいた。
少年のような外見をしている。誰がどう見ても人間である誰か。
「おはようございます」
<…涼香は?女王クラリスは?今は…こんなに時間が経ってる>
機械内の内部時計を見て、目覚めた人工知能クラリスは驚愕する。
そして確証はないが、悟る。女王クラリスはきっと扇動涼香を蘇らせることができなかったと。
バックアップシステムとして用意されていたが、使われることがないと。
そこまでは良かった。しかし人工知能クラリスは疑問に思う。
何故一度も姿を見たことがない者が自分を目覚めさせたのだろうと。
そしてその人物がどうしても人間に見えなくて、人工知能クラリスはただ疑問に思う。
<貴方は誰ですか?>
「…貴方の知らないものです」
答えにならない答えが返ってきた直後、人工知能クラリスのデータは別の場所に移された。
それは目覚めさせた人物が持ってきたパソコンで、現代では再現不可能なほどの容量を持っていた。
人工知能クラリスを余裕に受け入れられるようなパソコンだ。
少年のような人物はそのパソコンをリュックに仕舞い、時計台から離れる。
そして中央エリアからも離れる。向かうは拠点がある雪舞う場所。
時永悠真は電車の中で汗まみれで震えている自分の手を見ていた。
ポケットには小さな十徳ナイフ。一回使用したばかりの物である。
北エリアに向かう電車は人が少なく、誰も時永悠真に目を向けない。
その顔が青ざめていながら、悔しそうに歪んているのに気付かない。
汗を服で拭い、両手を握りしめて上体を前に倒す。
あと少し、絶好の機会だったのに失敗した。
悔しくて仕方ないのに、安心している自分に嫌気がさす。
覚悟していたはずなのに恐れてしまったこと、それが悔しかった。
これではなんのためにわざわざ危険を冒したかわからない。
でもこれで少しは未来が変わるかもしれない、変化があって欲しい。
時永悠真は祈るように願う。でもこれでは駄目だと頭の片隅が警鐘を鳴らす。
「哲也…雷冠…必ず奴を殺すから…………仇は取るから」
もういない二人の友人を思い浮かべて、時永悠真は唸るように小さく呟く。
片目から意図しない涙が一粒零れる。それもすぐに拭って消してしまう。
電車の窓が冷気で白くなり始める。北エリアが近くなっている証拠である。
時永悠真が住んでいる場所であるが、生まれ育った場所ではない。
それでもその冷気に時永悠真は懐かしさを感じるようになった。まるで故郷に帰るように。
「…もう帰れないのに、なんで思い出すんだろう」
思いに引きずられるように、かつての生まれ育った場所を思い出す。
もう二度と戻れない、遠すぎて手の届かない場所。
距離はない。ただ時間の壁だけが目の前で立ちふさがっている場所。
時永悠真は辛くなるだけだと、思い出すのを止めた。
今更未練があると言っても戻れないから。
未来には誰も戻れない。ただ進むだけである。