雪の降る夜に刺客
「小難しい説明を抜きにして一つ。どうやらクローバー博士が死にかけてるらしい」
豆乳バナナオレという飲み物。いつも栄養ゼリーばかり食しているマスターにとっては珍しい物を飲みながらマスターはそう告げた。
青頭千里は焼きそばパンに初挑戦と言わんばかりに大口を開けて食そうとした矢先の一言に、動きが止まる。
そのせいで焼きそばパンの上にお飾りと言わんばかりに乗っていた紅ショウガが紺色の上等スーツの上に落ちる。
ポケットから取り出したハンカチで紅ショウガを取り除き、使い捨てと言わんばかりにハンカチと共にゴミ箱へ。
着替えてくると一言残して青頭千里はマスターの研究室から出て行く。
数分後の全く同じ仕立ての上等スーツを着て、研究室に戻り水を飲んで一言。
「そうか。冷静に考えたら彼は長生きとはいえ普通の人間だった…いや、人間やめてるけど人間らしすぎるんだった」
「どうも誰かの逆鱗に触れて拷問されたらしいな。老獪になったとは言え、まだまだ甘い男だな」
「で、なんで君はそれを知ることができたということだけど…」
「青い血の人外にはメル友という概念がないのか?」
最もその単語が似合わないであろう女性からその単語が飛び出した場合、男性はどう反応するのだろうか。
青頭千里は浮かべた笑顔が強張って固まるのを感じながら、男性としての反応ではなく自分らしい反応をすることにした。
まずマスターという存在を一般的な女性として扱うのは失礼だと思われたからだ。
「メル友という概念うんぬんは抜きにして、クローバー博士は無事なのかい?」
「無事だったらメールを送らないだろう。といっても代理人を立ててのメールだから意外と切羽詰まっているらしいがな」
「僕達への影響は?」
「…甚大。どうやら刺客というのを拷問相手は送ったらしい…誰を狙っているか不明な、刺客」
青頭千里は口だけで微笑みを作り、目だけは冷徹な光を宿らせる。
青い血という存在は常に人間社会の中に溶け込みつつ、表に出すことはなかった。
それは悠久なる過去未来全てにおいて予定として組み上がった、むしろ本能に近い生存方法である。
だから青頭千里がBlueBlood社の社長として一般人に狙われるのは承知している。
困るのは青い血の一族である青頭千里が狙われるということである。
そこまで考えて青頭千里は誰を狙っているかはわからないという点で、ポジティブになる。
青い血は秘匿されている。多少世界の端っこで暴れたり自由気ままに過ごしていたとしても、それがアニマルデータのように世界規模で騒がれることはない。
かつて地底遊園地に混乱をもたらしたジョージ・ブルースでさえ、世界の表舞台に立つことはない。青い血とはそういう生き物なのである。
だから十三人いる青い血の一族が何をやらかしたとしても、青い血を殺すための刺客を送られるという確率は低い。
なので青頭千里がBlueBlood社の社長として狙われるくらいなら何も問題はない。
次に浮上する問題は、その刺客が狙う相手が一般人である場合だ。
青頭千里に認知してない人間が死ぬことなど日常茶飯事である。新聞でも死亡記事など毎日のように綴られる。
しかし認知している人間、アニマルデータに関わっている子供が狙われるとしたら青頭千里も黙っていられない。
NYRON大会が迫り、これからさらにアニマルデータが広がっていく最中での不祥事は望んでいない。
そこで青頭千里はマスターに尋ねる。
「刺客の絞り込みはできるよね」
「ああ。人間ならな」
「……………どういうことだい?」
「送られた刺客が人間ではない可能性が大きいってことだよ、人外」
扇動岐路は北エリアにある玄武明良の家で悩み続けていた。
試作機SUZUKAの公開がNYRON大会と同日に決まったのだ。
通称ANROBOT、アンドロイドではなくロボットの一面を強調した名前だ。
カタカナで発音するならアンロボット。アンドロイドが有力候補ではあったが、それではある携帯端末の名称と被るため却下されたのだ。
本来人型の人工知能を有する機械をアンドロイドと昔からSF世界作品で使われてきたが、現代では全く違う物として捉えられてしまうのでややこしい。
なんにせよアンロボットの公開のため、中に入るアニマルデータもしくは高度な人工知能を求められたのだ。
しかし大分前から扇動岐路はその中身について悩んでいた。そしてアニマルデータでも人工知能でもいれるなら一つの名前しか浮かばない。
病弱な娘のために作った最初のアンドールに入れた人工知能クラリス。女王クラリスとは違い、こちらは現代の技術だけで作られていたデータである。
元は人間であるアニマルデータに比べれば受け答えも不自由で、詰め込める容量も少なかったので感情も無に近かった。
それでも人工知能クラリスは扇動涼香の友達として、たくさんの時間を過ごしてきた。
途中では女王クラリスのデータと統合してしまったので、女王クラリスの消失と共に消えてしまったであろうデータ。
扇動岐路はどうしてもそのデータを入れたかった。アニマルデータは有限のデータであり、一億あるとはいえいつかは尽きてしまう。
そして減る一方となるアニマルデータに代わる、次世代に相応しい人工知能が必要になってくる。病弱な子供に笑顔を与えられる、友達のようなデータ。
それこそが人間とロボット、果てはアニマルデータに必要な未来だと扇動岐路は信じている。
しかしどんなに信じていても、消えた物は戻ってこない。だからこそ悩み続けても意味がないとわかっていた。
諦めきれない気持ちをどこかにしまい込んで、不服ながら他のデータで代用するしかないと決意しかけたその時であった。
一通の送信元不明のメールが扇動岐路のパソコンに送られてきた。
宛名はクローバー博士の代理人。それは地底遊園地で協力したことがある人物と重なる。
パソコン上のやり取りで声しか聴いたことないが、確かに助けてくれた人物の名である。
扇動岐路は誘われるようにメールを開封し、内容の文に目を通す。
「…!?クラリス……」
その名前はかつて消失文明を導いた女王クラリスを指す物ではない。
娘のためだけに作った友達を意識した人工知能クラリスを指す名前だった。
パソコンの中でデータである人工知能クラリスはネットを通じて多くのことを学んだ。
もっとも多く学んだのはアニマルデータについて。消失文明と女王クラリス、そして死んでしまった扇動涼香のこと。
何度も何度も調べて学んで変わらない事実を目の当たりにする。もう女王クラリスや扇動涼香には会えないこと。
二度と大切な友達には会えない、たったそれだけの真実。人工知能クラリスはそれをデータとして受け取った。
泣くことはない、嘆くことはない、悔やむことはない。ただ受け止めて認識するだけだ。
感情として処理する段階まで、人工知能クラリスは到達できていなかった。
「…やはり、貴方も感情は理解できませんか?」
<…貴方もそうなのかしら…柊>
ニット帽を目深にかぶり、手の甲を覆うほどの長そでを来た少年らしき人物に人工知能クラリスは問いかける。
柊と呼ばれた少年らしき人物は、静かに頷く。それをパソコンのカメラを使って映像データとして受け取る。
今の人工知能クラリスはパソコンに付属されているカメラで周囲の状況を確かめることしかできない。
そのカメラに映るのは雪が降る外を隔てる窓と薄暗い部屋、そして柊だけだった。
世界の全てではなかったが、今の人工知能クラリスにとって視界の全てがそれだった。
「…僕が感情を知れたら…あの雪を美しいと思ったのかと…考えるんです」
<今はどう考えているの?>
「人工降雪による事象の一部と捉えています」
<雪が溶けたら…>
人工知能クラリスは雪で一つのデータ、古い会話データをバックアップする。
白い病室で冬の日に熱を出して寝込んでいた扇動涼香とした会話。
音を吸収してしまう雪のおかげでその会話は鮮明にデータとして残っている。
<雪が溶けたら…どうなるか知っている?>
「自然的に言えば水になります。もしくは感傷的な例文として春になりますも存在します。どうですか?」
<私の知っている答えと違うわ>
「…では教えてください。その答えを」
<雪が溶けたら…雪はなくなってしまうの。だから次の冬を待つの…また雪を見るために>
少しでも長く生きたかったであろう少女。長くは生きられないと知っていた少女。
雪が溶けたら水になってしまう。雪はどこにもなくて無惨にも春がやってくる。時間の経過を教えにやってくる。
あと何度見れるかわからない少女は、雪が溶けた後は友達のクラリスに笑顔で告げる。
また次の冬、一緒に雪を見ようねと。震える声で言うのだ、暖かいはずなのに体も震えていた。
クラリスは、人工知能クラリスはそれに了解の意だけを見せた。それがおそらく二人で見た最後の雪と春。
そこで人工知能クラリスはデータにはない言葉を音声に出した。
<約束…してたのに…>
大切な少女の友達とはもう二度と会えない。何度も繰り返した認識。
しかし人工知能クラリスは、今までとは違う受け取り方と不可解なデータの発生を感じた。
北エリアの雪降る道路はおおむね除雪車や最先端の雪解け薬の実験で普通の道路と変わらない様子である。
そんな北エリアの道路でも除雪車が通れない路地裏などは雪が降り積もって凍っている。そのためゴミ箱が置かれることはない。
車が通ることもなく、滑るため人通りも少ない。排水のためのマンホールすら雪で隠れている。
ある路地裏の雪が三センチ積もった場所。三センチ積もるだけで雪の重さはかなりの重量になる。
もしマンホールを押し上げて地上に出ようとしても、普通の人間では足場の不安定さも兼ね合わせてほぼ無理と言ってもいい。
しかしその三センチの雪が降り積もったマンホールを押し上げて、地上に出てきた人物がいる。
少年らしき人物で、口元まで覆うハイネックで長袖もぶかぶかで指先くらいしか見えない。
銀髪に褐色の肌から外人と思わせるような、むしろコスプレの類かと思わせるような容姿をしていた。
その少年らしき人物は滑りやすい道を難なく歩いていく。人間の動きに似ているような、どこか常に計算されているような歩き方だ。
少年らしき人物が目指すは中央エリアの時計台。かつて多くの事件とキーワードが絡まって集結した因縁の場所。
雪舞う風の中でハイネックが少しずれて首元が見える。バーコードと数字、楓という名前が刺青のように刻印されていた。
クローバー博士は塗るつく液体の中で横たわっていた。床にはその液体がどんどん広がっていく。
しかもその液体はクローバー博士の体の中から次々溢れていた。普通の人間だったら出血多量で死んでしまう程である。
だが液体は人間の血ではない。ロボットの体を動かすための循環液、黒いオイルである。
「い、てて…アダムスも形振り構っていられなくなったか…僕の部下一人を奪取した上にこの仕打ち…」
電気信号で送られてくる痛覚に半笑いで受け止めつつ、クローバーは少しずつ立ち上がる。
だが広がったオイルのせいで支えにしていた腕が滑って、改めて床に体を打ち付ける。
下手に動くと火花で引火しかねない危険な状況のため、クローバーは立ち上がりたいのではない。
アダムスが奪った部下の一人、楓という名前を付けた存在は護衛用、つまり戦闘に特化した存在である。
もう一人の部下である柊がオールマイティな存在であるため、戦うとなったら勝算は楓に分がある。
だから柊に連絡するために起き上がりたいのだ。しかしそれは柊に攻略法を教えるためではない。
「ロボット三箇条を忘れたのか…アダムス…っ!」
楓に殺人という任務を止めさせるためである。




