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ネクタル 〜神からつがれし者〜  作者: 周防 夕
第一歌 捧げられるもの
9/26

4.1

 水たまりに浮かぶ落ち葉のように、十数の木造船が緩やかな波に揺られている。ここはイタケ国のもっとも大きな港。山が多いために平地が少なく家畜を育てづらいこの島国では漁業が盛んだった。揺られるそれらのほとんどは漁船である。

 夏は漁と貿易の季節だった。海上に冷たい風が吹き荒れる冬に航海することは難しい。けれど、穏やかな夏は海上を多くの船が行き交った。ヘラスの人々は海を『ポントス《人々を結ぶ橋》』と呼んでいた。

 貿易が盛んとなれば、交通の便が良い所に物も金が集まる。ギリシア本土、アッティカ半島にある都市国家アテナイでは正にそのように貿易により富が集い始めていた。特産のオリーブとワインを輸出し、減らすでは貴重な金属を手に入れた。不便な位置にあるイタケでは異国人が訪れることも少なく、国庫が潤うことはなかった。それは決して立地だけが理由ではないだろう。

 肉と肉がぶつかる鈍い音がした。人混みから離れ、異国のヘラス人四名が何かを取り囲んでいる。汗が飛び散り、風を切る。日に焼けた男が革のバンドを巻いた拳で相手を殴る。それを見据え、小柄な青年は上半身だけをわずかに動かし、素早くよける。

「しかし、物好きな男もいるものだ。五日も拳闘を挑み続けるなど。それ、いまだ! やれ、アリステイデス!」

「やつは俺が昨日相手した時よりも、俊敏に動くな。人は痛みをうければ、それに過敏になるものだ。しかしアリステイデスは手強いぞ。ああ、奴の拳が腹に入る!」

 物見の異国人たちは勝敗が決するのを感じた。けれど、向かう小柄な青年は腰をねじり紙一重で拳をかわす。そうして、ネクタルは全力で相手の腹を殴った。横腹に手痛い一撃をお見舞いする。相手はよろけ、倒れかけながらもこらえる。

 彼、アリステイデスは腹をおさえながら、けらけらと笑った。

「見事! 俺の負けだ。これ以上やれば、船旅に影響がでるやもしれん! いやはや、よくぞここまで上達したものよ」

「皆様のご協力のおかげです」

 ネクタルは深々と頭を下げる。アテナイの船員たちは照れ笑いしてそれを受ける。航海に失敗しイタケへ流れ着いた彼らがネクタルの願いを聞き入れたのは、復路の準備が終るまでの余興に過ぎなかった。けれど、この偶然にネクタルは救われた。

「ボイオティア産のものには負けますが、良いうなぎを仕入れました。ぜひ、お召し上がりください」

 アテナイ人が魚好きで、その中でも特に鰻を好んでいると聞いていたので、ネクタルは昔のつてを使って貴重な鰻を用意した。五日間、自分の訓練を手伝ってくれた感謝の意を異国の船員らに伝えたかったのだ。

 彼の頬はひどく腫れている。笑えば口の中が痛んだ。横腹は軟膏をぬるほどひどい青あざができていた。けれど、それらの痛みも忘れて彼はある喜びを全身で感じていた。


 沈みゆく夕日が岩道を燃やさんばかりに朱く染める。岩肌あらわなネリトン山のごつごつとした山道をネクタルはひたすら走る。息は切れ、横腹は槍が刺さったように痛む。楽をしたがる甘えた心に鞭を打って走らす。あと一歩、もう一歩。ここで甘えた心になだめられ、休むのは負けだ。そう己を叱咤しったする。


 技巧の女神アテナに織物の勝負を挑んだ無謀な女、アリアドネは神に勝てるはずもなく、負けて自分の首を吊った。けれど優しき神は優秀な糸の紬手つむぎてである彼女を、小さきものへ変えた。その子孫である蜘蛛がつくった織物が月明かりになめらかに照らされている。

 暗闇に染まる雑木林から獣たちが奇妙な動きをする奴を見る。枯れた木に長い棒を叩きつける二本足で立つものを。夜も昼もたがわず、ネクタルは訓練にいそしんだ。

 頃を計らい、手を止めた。地面に羊毛の絨毯を引き、目をつむれば、すぐに眠りが訪れる。彼に不安は訪れていないのだろうか。ポリュボスとの決戦が明日と迫っていた。


 薔薇ばら色の指を持つあけぼのの女神イーオスが現れ、夜が明ける。その頃、ネクタルは河で水浴びをしていた。わずかばかり残っていたオリーブ油を石鹸のように使い、汗と汚れを洗い落としていた。

 毛織物の一枚布を体に巻き、腰に革のベルを巻く。丈は膝上、兵士用のキトンと呼ばれる服である。この時のため仕立てて来た新品だった。

 敬虔けいけんな心を内に秘め、早朝の静寂が広がるアテナの神域へ彼は向かった。あさひを受け、アテナの木像に後光が差す。供物を捧げ、彼は鎧に身を包む女神へ今日の勝利を再び祈る。そののち、別に用意した肉を掲げ、こう言葉を加えた。

「どこのどなたかは存じませぬが、私に助言を下さった方にはこちらを捧げます。願わくば私に勝利が与えられんことを。そうすれば、私を馬鹿にする輩も少しは減るでしょうから」

 ネクタルは天を見上げる。青空は晴れ渡り、雲一つ見えない。迷いはなかった。正しいと思うことを全てしてきたのだから。

 胃を満たし、食欲を追い払う。踏み行く足に力が入る。そうして、屈強なる男とのいくさに彼は向かった。

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