3.2
日暮れ前、広場の市場にてネクタルは買い物を済ませた。街の中心とも言えるここは、皆が集う交流場であり、物や情報が盛んに行き交う場所でもある。
久しぶりの人ごみに圧倒されながら、彼は何とかお目当てのものを手に入れた。そして、今はもう暮らし慣れたと言ってもよい旧訓練所へ戻ってきた。
小屋の前に防具を置き、手に入れたばかりの品物を持って奥へ向かう。そこで別の道を通ってきた少女と出会った。
「やあ、リュラ。今日もお祈りか」
「はい。……申し訳ありません」
「何を謝ることがある?」
少女はいつものように、質の悪い服で身を包み、頭巾で顔を隠していた。ここで訓練をするようになってから直ぐにネクタルは彼女が毎日お祈りしていることに気づいた。神を敬う心、彼女の敬虔さを彼は素直に尊敬していた。
「一つ頼みたいことがあるんだが、時間はあるかな?」
「……私にできることなら、なんなりと」
「神へこの肉を捧げたいのだが、正しい方法が分からなくてな」
ネクタルは市場で買ってきた兎を彼女に見せた。神の生け贄として牛が最も喜ばれるものと知りながらも、彼にそれを買う金はなかったのだ。
「神殿へ祈を御捧げください。肉を焼けばその煙が神々の住まう高天たるオリュンポス山まで届くでしょう。もっとも上質な部分をひとかけら更にのせ、神へお供えください。あとは、ご自身でお食べになって結構です」
「ありがとう。リュラ。そのようにしよう」
生粋のヘラス人であるネクタルがその作法を知らないわけがなかった。間違ってないか確かめるための問いだったかもしれないが、それだけではないだろう。
集めた薪にネクタルは火をおこす。兎をさばき、その血を神殿へと注ぐ。肉を切り分け、串に刺し、火であぶる。一等良い臓器は別の皿に取り分けた。立ち上がる煙が空へと登っていく。地上の料理を口せずとも、神はその煙は味わうとされていた。
「……っ」
煙が傷に触れ、ネクタルは痛みの声を上げた。リュラは彼に近づき、その傷を見つめた。
「怪我されているではありませんか!」
「ああ、手合わせでついたのものだ」
「……ポリュボス様と戦われたのですか?」
「彼と戦うのは七日後の次の試合だ。これから祈るのもその勝負のため。ポリュボスは私を殺す気でかかるだろうからな」
「それは、避けられないのですか?」
「まだ勝負は決まっていない。私にも退けない理由がある」
リュラさえも自分が負ける前提で話すのがネクタルの癇に障った。彼女がたじろいでいるのを見て、彼は自分の語気が荒くなっていることに気づく。
「すまない。つまらない話しをしたな」
「……いえ、そんなことは」
うつむく彼女を、ネクタルはじっと見つめる。
「布で眼を覆っているのに、君は私の傷に気がついたな。眼が見えないわけではないのか?」
「私は、ただの盲目の奴隷です。……次の仕事がありますので、失礼させていただきます」
リュラは足早に彼から去った。言葉は思いもよらぬ効果を与え、他人を遠ざける。取り残された男は情けない笑みを浮かべ、余計なことをほざいた口を呪った。しばらく間を置き、こんなことで惑うなと己を鼓舞した。
炙られて脂のしたたる肉を天へ掲げる。
「オリュンポスに住まう、ゼウスが姫君、戦術の神パラス・アテナよ! 貴族のかたがたに比べ僅かではありましょうが、この肉を捧げます。どうか、私に勝利を御与えください。その折には、私が手に入れられる最上の肉を捧げとうございます」
そう語らい終えると、旨そうな匂いのする肉に塩をふりかけ、串にかぶりつく。食欲を追い払い、一息をつき、訓練を始めた。
槍を振るうたびに筋肉は痛んだ。汗が全身をつたい、顔は苦しげに歪む。けれどその痛みに耐えさえすれば、明日には今食べた肉が血となりさらに大きな筋肉となる。努力できるのは、いつだか得られるものがあると今は信じられているから――