3.1
乾いた地面が広がる一角に、木と日干し煉瓦で階段状の観客席が設けられている。二十組の若い男女が腰を下ろし、広場中央でいま正に行われている『選定の儀』を観戦していた。
武器を構える一方はその後ろに小柄な女を従えた、やせ気味の青年だ。兜の下に赤茶けた髪と細い目がのぞく。鎧は不釣り合いなほど豪勢な装飾がされており、それがより彼の貧弱さを強調してしまっている。周りからの野次とも聞こえる声援で彼の名がエルペノルということが分かるだろう。
もう一方は呪わた復讐神のようにその名を誰にも呼ばれない。古びた防具を身につけ、不屈の炎を瞳に燃やす彼の名は、ネクタル。
ネクタルは力強く木の槍を振るう。背は低くとも、鍛えられた腕は丸太のように太い。力かなわず、エルペノルは甲羅にこもる亀のように大きな丸盾をつかい必死に我が身を守る。
優勢には違いなかった。だが決定力に欠け止めはさせなかった。勝敗を決する胸の宝玉は隠され、盾をはじく力もない。ネクタルは焦り、手数を増やし宝玉をねらう。けれど削られるのは、己の体力のみ。
「おい、エルペノル!」
緊張の網に捕われた二人の元へ、無遠慮な大声が割り込む。ポリュボスのその言葉はどちらも望むものではなかった。
「エルペノル! お前は当たりくじを引いた! 必ず勝ち星がつく相手だからな。まさかとは思うが、貴族にうまれたお主が負けるはずはない。いくら、やせ細り、鎧をつけた案山子のような出で立ちのお前でも!」
それを聞き、血走った眼でエルペノルは息荒く叫ぶ。ネクタルは危険を感じ、一歩ひいて距離をとった。
「ステロペーよ! 何を黙って座っている! 早く力を貸せ!」
離れて見守っていた彼の戦巫女、ステロペーは焦った様子で立ち上がり、手を組み天へと祈を捧げる。
「ゼウスとマイアの御子にして、翼ある靴はく伝令の神、アルゴス殺しの神、ヘルメスよ! その御力をエルペノルまでお貸しくだされ!」
盾の奥から緑の光が溢れるのをネクタルは目にした。光はエルペノルの足下で凝固し、それは翼が生えたサンダルへと変わる。
瞬間、エルペノルの姿が視界から消えた。あまりの素早い動きに、ネクタルの目に写るはその残像だけ。視線を迷わせ戸惑う彼に、エルペノルの声が届く。
「おい! どうした? 平民よ。まるで止まっているようじゃないか」
これこそ伝令の神ヘルメスの『神威』のなせる業だった。彼の神の持ち物とされるこの神器『タラリア』は身につけた者の足を速くし、空さえ飛べるようにする。メドゥーサを退治した太古の英雄ペルセウスにも貸された神器の写し身である。
一瞬で形勢が逆転した。ネクタルは慌てず対処しようと盾を構える。しかし、瞬きする間にエルペノルの槍が鼻先まで迫っていた。
「手を煩わせおって!」
突かれた槍はネクタルの盾の隙間をかいくぐり埋められた宝玉を叩き砕く。
「宝玉は壊れ、勝敗は決した! 栄光はエルペノルに与えられた!」
離れて戦況を見守っていた審判のアンティポスがそう宣言した。ネクタルはあっけなく負けた。
エルペノルに勝利を喜ぶ余裕はない。ひたいの汗をぬぐい、ステロペーを憎たらしそうに睨み、苦戦したのは彼女に責任があるように悪態をつく。
観客席ではポリュボスが立ち上がり、皆に聞こえるように大音声でこう語る。
「平民相手に神威を使うなど情けない。自力では勝てないと言っているようなもの。同じ貴族として恥ずかしいぞ。まあ、よい。俺がこいつを叩きのめす前に、動かぬ身体にされては困るからな」
拳を握りしめながらネクタルは地面を睨みつける。『選定の儀』が始まり、もう二戦目に入っていた。彼は繰り出される『神威』になす術もなく負け続けていたのだ。
勝敗が決まり、次の組の手合わせへと移る。奴隷に道具の片付けを命じてエルペノルはいそいそと観客席へ向かった。苛立から戦巫女に声をかけられても無視をしている。
防具を片付けをしようとして、ネクタルは自分の疲労に気づく。腕に力が入らずに胸当てを地面に落としてしまった。拾い上げようとする手が震える。エルペノルの奴隷に鼻で笑われて、ネクタルは自分の弱さが情けなくて胸が痛んだ。
二人が戻る前に、儀式を取り仕切るアンティポスが観客席の皆を集めた。兜に印のつけた石をいくつも入れて振るう。戦場で重要な決め事をする際に行われた籤を模したものだ。二つの石が飛び出る。その石を確かめて、アンティポスはにやりと笑った。
「ポリュボス! 安心しろ。お主の次の相手は今、ネクタルと決まったぞ」
周囲の男たちの肩を叩いてポリュボスは満足そうに笑った。席に戻ったばかりのエルペノルに声をかける。
「おい。エルペノル。貴様は『選定の儀』の勝敗の決し方を知っているか?」
「なんだい、今さら。僕が今したように、相手の宝玉を砕くか。参ったを言わせるかだろう?」
「まだ一つあるだろう。相手の骨を打ち砕き、動けぬ身体にした時よ」
ポリュボスが睨むのは、エルペノルの肩を通り越えた先、武具を抱えた小柄な青年。
「豚よ。足りぬ頭でも理解できたか? 俺はお前が降参するまで、なんでも出来るわけだ。七日後、お前は屠殺されるだろう。その刻はせめて、良い声を聞かせろよ。しょせん食えぬ肉だからな」
口をきつく締め、ネクタルは席に腰を下ろす。近くに座っていた少女たちは彼を避けてあからさまに距離をとり、こそこそと彼のみすぼらしい格好のことをなじった。
服は泥にまみれ、あらわになった肌を擦り傷と切り傷が埋め尽くしている。奴隷よりひどい格好だと馬鹿にされるのが聞こえても、ネクタルは平然と次の手合わせを見続けた。勝利の手がかりをひたすら求めて。