2.2
「本当にお怪我はありませんか?」
「ああ、大丈夫じゃ。……しかしお前さんは無茶をする。先ほどの若者は衣服からも良い血筋のものと分かるが、お主はどうも平民らしい。わしをかばったのは有り難いことじゃが、老いの閾をまたいだ老人のために若者が傷つくのは良いことではないぞ」
「つい熱くなってしまって、申し訳ない。面倒事にならないと良いですが」
「謝るでない。お主のおかげ助かった。神へ供物を捧げにゆく途中でな。何か恩返しがしたいが、望むことはあるか? だてに長く生きておらん。手助け出来ることもあるだろう」
見返りを求めたわけではない。そう老人に伝えかけて、ネクタルは自分の望みを思い出した。言いよどみながらも老人に願う。
「……もし、もしご存知でしたら、肉体を鍛えられる場所、槍や剣を自由に扱える場所を教えていただけないでしょうか?」
「いったい何をするつもりじゃ?」
「私は『選定の儀』に参加することを許されたものの、戦巫女はなく、十二神の訓練所を使えないのです。神威を使えずとも、せめて、武術だけは鍛えたいと思いまして……」
「全く持って無茶なことをする若者じゃ。しかしお主の言った場所に見当はある。ちょうどわしらの目的地の近くじゃ。よし、リュラよ。三人でアテナの祭壇まで向かうぞ」
老人の視線を追いかけて、ネクタルの目は少女へ行き着く。リュラと呼ばれた女の姿に違和感があった。見れば見るほどそれは強くなる。
彼女はネクタルと同じ十代半ばほどに見えた。あまり質の良くない麻の上着をはおり、顔を隠すように頭巾をしている。
「ほれ、何をしている。これ以上、面倒事が起こされるのはごめんだ。さっさと行くぞ」
違和感のわけを突き止める前に老人から促され、ネクタルはしぶしぶ歩き始めた。そうしている内に訓練への期待が少女のことを頭のはしに寄せていった。
戦神アレスの訓練所から雑草が生い茂る道を歩き進むと、ひらけた空き地についた。古びた丸太が三本、地面に埋められて直立している。剣や槍を振るうためのものだが、長い間放置されていることを表すように、その間に織物上手の蜘蛛の巣ができていた。
「ここはわしが若い頃、今の訓練所が建てられる前に使われていた場所じゃ。どうだろう? 望みを叶えるものかな」
ネクタルは辺りを見回した。茂みに囲まれるだけで邪魔するものはない。奥には小屋があり日陰で休むことも出来る。井戸もあった。それらを確認して、彼は今日初めて笑顔になった。
「ありがとうございます。私には充分すぎるほどの場所です」
「この先には技巧の女神アテナが祀られた古い祭壇がある。皆は新設の神殿へ祈りにいくが、わしは昔からこっちに来てるもんでな。では、健闘を祈る」
二人と別れる前から彼の意識は丸太に向かって止まなかった。一人になり我慢する理由もなくなれば、木製の小刀を手にとり凛と構える。先ほど振るえなかったその力を、全力で発揮する。
古びた木材に描くは傲慢な貴族ポリュボスの顔。一日の鬱憤を晴らすようにネクタルは日が暮れても剣を振るい続けた。
ヘラスの夏は雨が降らず乾燥し、何より火傷するほど日差しが強い。けれど太陽神ヘリオスが沈めば涼しい風が吹く。夜空に沢山の星が浮かび、古代の人々の悲劇を描く。ネクタルは仰向けになり、輝くものを瞳に写しながら地面に寝ころんでいた。
訓練へ夢中となり、日が沈んだのも気づかなかった。孤児の彼は何もない家に帰る気にもなれず、ここ旧訓練場で『選定の儀』について思いを巡らしていたのだ。
『選定の儀』では出場を望む若者同士が、戦巫女から神威を受けながら木の武器で手合わせをする。胸当てにつけた目玉ほどの大きさの宝玉を砕かれるか、降参するか、もしくは戦えない身体になった時、勝敗が決する。毎度の相手は籤により事前に決定するならわしだった。
初戦はもう七日後に迫っていた。恐れがないわけではない。それでも、胸の内の期待と不安を秤にかけて、前者の方が重いことをネクタルは認めた。
疲労が心地よいまどろみを呼んだ。ぼやけた視界で、光る点と点が結ばれ、美しい女神の横顔が描かれていく。しかし、それは急に歪み、憎たらしいポリュボスの顔に変わった。先ほど丸太に投影しものがまぶたに焼き付いてしまったらしい。眠気は霧と散り、彼は立ち上がる。
「寝ている暇などない。自分の鼻を守り、ポリュボスの鼻を明かすためにも……」
つぶやきながらも、既に剣を握っていた。肌に浮かぶ水玉に小さな月が閉じ込められる。木刀と丸太がぶつかる聞き慣れぬ音に周囲の獣たちは迷惑顔だ。ついには朝まで眠りを邪魔された。
強い日差しを浴びている。あふれる汗で自らの体が溶けてしまいそうだ。そう感じながらもネクタルは起き上がれなかった。頭が痛み、考えもまとまらず、ただ何かしなくてはならないという義務感だけが思い浮かんでは消えてゆく。
ふと、頭から重みがなくなり、唇に冷たいものが触れた。わずかな力で薄く開くまぶた、金色の髪と白い肌を目にする。
「……サンドラ」
思い浮かぶは、遠い日の面影、美しい少女。求めるように彼女の名を呼んだ。
「大丈夫ですか?」
視界は揺れている。それでも、その声で、手の届く近さにいる女性が夢見た相手ではないと彼は気づかされた。こんな優しげではない。彼女はもっと気の強そうな喋り方だった。
「いったい、どうなされたのです」
話しかけられても答えられない。喉が、口の中が乾き切っていた。目の前に出された革袋に口をつければ舌に甘い潤いが伝わった。夢中になって水を求める。
一息をつき、彼は置かれた状況を把握しようとつとめた。誰か女性が座りながら自分の頭を膝に乗せてくれているらしい。
「すまない。私は何をしていたんだろう?」
「すみません。私が見たときは、すでに苦しそうに地面に倒れておりました」
そこでネクタルは昨夜からずっと剣を振っていたことを思い出した。脱水症状を起こして倒れたようだ。少しずつ頭が回りだし、考えもまとまっていく。
「親切な君はどなただろう? 遅れてしまったが、お礼を言うべき恩人の名を教えてほしい」
「リュラと申します。あるじに命じられ、あなたにお食事を届けに参りました。昨日のお礼とのことです」
「そうか、君は昨日の……」
少女の声は清流のせせらぎのように美しかった。目をつむり、耳を通るそれに癒されながら、ネクタルは相手を豚飼いの従者の少女と認めた。
「大丈夫でしょうか? とても顔色が悪いように感じますが」
目を開ければ、霧が晴れたように視界がはっきりしていた。彼は少女の顔を見入る。白い肌、淡い桜色の唇、どれも素朴な美しさがあった。そうして、あの時の違和感の理由に彼は気づく。
普通、人と人が出会えば一度は目が合うだろう。けれど彼は少女の瞳の色を知らなかった。頭巾の下の両目は包帯に覆い隠されていたのだ。
「……あの? お医者様をお呼びしましょうか?」
「その必要はないです。鍛錬に夢中になりすぎただけらしい」
気軽に尋ねていいことか分からず、ネクタルは視線をそらす。
「もう、昼ですか。さて、休んでいられない。続きをせねば……」
足に力を入れるも、立ちくらみが起きて彼は少女に支えられた。
「さしでがましい言葉をお許しください。誰にも休みは必要だと思われます。神々でさえ食事をし、床につくでしょう。何も食べられていないのでは? 空腹ならば食欲を追い払うのも良きことかと。幸いあるじが用意したものもありますので……」
リュラは膝の横に置いてあったカゴの中身を彼に見せた。パンにチーズ、干し肉が所狭しと詰め込まれている。美味しそうな臭いをかげば、青年の口に唾液がたまり、胃袋が食い物を求めて鳴きわめく。
「あなたの言うことはもっともだ。身体を鍛えるつもりで、壊してしまっては元も子もない。リュラ様とそのあるじに甘えさせていただこう」
その言葉にうなずき、リュラは手早く準備をすまして彼の前に食事を並べた。膝をついて、頭を下げる。
「……はした女ごときを、様などと呼ばないでください。役立たずの奴隷にはふさわしくないお言葉です」
「……君は、奴隷なのか?」
「はい」
確認されたことが不思議なように少女は首を傾げた。普通に考えれば奴隷でないはずがなかった。鼻の高い顔つきは異国人のものだし、その衣服も奴隷の着るような貧相なもの。名前だってそうだ。『琴』のように物から奴隷を命名することは多々あった。
けれど、背筋の伸びた優雅な立ち振る舞い、巫女のような独特な雰囲気は、彼のもつ奴隷の印象からかけ離れていた。だから老人の親戚などとネクタルは漠然と考えていたのだ。
「……ならばリュラと呼ばせてもらおう。私はネクタルと申します」
奴隷と知ってネクタルは態度を変えざるを得ない。この国に育てば当然のことだ。奴隷は異国から金で買われ、無償で労働をさせられる家畜と変わらぬものだった。
「……いつか、ご恩はお返しします」
けれど、例え相手がどんな立場であろうと、彼はこの恩は忘れないと胸に誓った。
「これらは主よりの恩返しです。気にせず召し上がってほしいと仰っていました。……では、私は他の仕事に向かわせていただきます」
眼を布で覆い隠しているにも関わらず少女はつまずかず静かに歩いてゆく。不思議な後ろ姿を見送りながら、彼は少女のことを探ろうとする好奇心を必死に押さえた。他人のことを考える余裕など今の彼にはないのだ。
腹は満ちた。血潮が巡り、筋肉に力が入る。これからは睡眠と食事をおろそかにしないと心に決め、青年は刀を握る。