2.1
槍を持ち鎧を身に着けた男の石像が飾られた石造りの門があった。高さは男二人分くらいだろうか。門番が二人ついている。横に石が並べられ、この神域を区切っていた。
男たちは面倒臭そうな顔をして訪問者を追い返した。ネクタルは最後の望みも絶たれて肩を落とす。
十二ある訓練所の全てを訪れたものの、ネクタルを受け入れてくれる場所はなかった。同じ平民の門番にさえも、分をわきまえろと彼は嘲られた。
縁石に腰を下ろし、彼は今後のことを考える。自宅には庭がなく訓練はできそうにない。広場はどうだ。迷惑がられないだろうか。男の大声に邪魔されて思考が途切れた。自然と道の向こうに意識が向かう。
杖に体重をあずける腰のまがった老人と、その従者か、質素な格好の女が行く手を塞がれて立ち止まっていた。壁となっているのはネクタルの見知った顔、ポリュボスだ。鎧を脱いだ彼が奴隷へ命じるように老人へ語りかけていた。
「爺よ。うまそうな肉と酒を持っているではないか。訓練で疲れた俺に譲ってくれ。相応の褒美は後に家から送ってやろうから」
その声に従わず、白髪頭の老人は兎の入ったかごを後ろに下げる。
「申し訳ない。これはアテナ様への供物なのじゃ。わしは沢山の豚を飼っておる。もっと大きな肉は後でお主へ贈ろう。けれど、この兎は神へ捧げさせておくれ。孫の健康を祈りたいのでな」
その言葉に嘘がないとネクタルは直ぐに分かった。決して良い生地ではないものの、身につけた麻の上着はしっかりと洗われているし、うぶ毛のように薄くなった髪も香油で整えられていた。従者の女が持つ器も神への祭儀用のものだ。
「騙されぬぞ。そうやって俺を言いくるめたつもりか? ごたごた言わずにそれを渡せ! 汚らわしい豚飼いめ」
自尊心が傷付けられたためか、ポリュボスは激しい怒りをあらわにした。手を伸ばし老人の胸ぐらを掴む。足は地から離れ、老人は苦しそうに咳きこむ。
「よしておくれ、若者よ。老人をいじめて何になる」
「ふん。お前の態度が悪いからだ」
手を離して乱雑に老人を地面へ落とした。ポリュボスは一歩踏み出し籠へ手をやる。従者の女はあたりを見回すだけで何もできない。豪華な装いから相手が貴族ということは誰でも見て分かる。太刀が腰に下げられていた。平民が逆らえばただでは済まないだろう。
そちらに足を向けながら、ネクタルは第一歩を迷った。有力者の息子といさかいを起こして更に立場を悪くして良いものか。小さい頃からの夢をぶち壊してしまなわないか。それはもっともな迷いだ。
豚飼いは杖を振り回し、捧げものを守ろうとした。棒は男の胸当てにかすり、小さく音を立てた。
「爺め! 俺の鎧を汚したな! 肉くらいでは許さんぞ!」
腰にさげた剣へとポリュボスの手が向かう。その時、彼の視界から老人は消えた。
「……なんだ、貴様は?」
自然な足どりでネクタルは老人と男の間に立った。迷いを蹴飛ばしてネクタルは駆けた。国の有力者よりも正義の神ディケーに従ったのだ。
「老人に手をあげるのは止しましょう。ましてや強盗のまねごとなど。その鎧の傷は先ほど私がつけたものでは? もし賠償をせしめるならば、私のもとへ」
いまだ顔にこびりついている鼻血など気にせずネクタルは言葉を続ける。
「ただ、訓練とはいえ、戦って鎧が傷つくのが嫌ならば家に飾っておくと良い。すれば汚れはしない。あなたもそれを豪華な屋敷で眺めていれば、なお良い」
金を稼ぐため海の向こうで商売したこともある。そのおかげで口は鍛えられていた。
「がはははははは!」
ポリュボスは腹を抱えて笑った。老人と従者の女はおびえて一歩後ろに下がる。突如、ポリュボスの顔が憎悪に歪み、殺気こもる恐ろしい目つきでネクタルを見下ろした。
「豚めが。正体を現したな。主人の豚飼いをかばおうとは。……だが俺を愚弄して許されると思うなよ」
「先に侮辱したのは貴方だろう?」
「せっかく命拾いしたのに阿呆な奴だ」
ポリュボスは大ぶりの太刀を抜く。戦士の家系に生まれ育った男児の構えは力強く、木の葉型の剣先は死を欲するように鋭く光る。
ネクタルも小刀を抜いた。根元がぐらつき、刃自体もさびかけている。それでも、そった刃はしっかりと相手の喉元を狙う。
二人がつくる影の大きさはあまりにも違う。子どもと大人の差ほどある。力もまたそうだろう。
「そんなガラクタ、お前の腕ごと叩き切ってやろう」
「安物だろうと剣は剣だ。あなたの肌を切り裂き、血を流すことは出来る」
けれど、ネクタルは退かない。両腕に力を込め剣を握り、二人共に強く土を踏む。そして――
「何をしているの! ポリュボス!」
少女の叫びが二人を止めた。門の奥から金髪の少女がこちらへ向かって走ってきている。
「二人とも剣を収めなさい。『選定の儀』に参加するもの同士が他のことで争うことは禁じられています!」
ポリュボスの隣につき、彼女は息を切らしながら言葉を続ける。彼の戦巫女の少女だ。
「見つかれば罰を与えられ、儀の参加も許されないでしょう。ポリュボス、あなたもそれは望んでいないでしょう?」
すがるように少女から見つめられ、ポリュボスは大きくため息をつく。怒りに震える手を必死に押さえ、太刀を鞘へ収める。
「女は何故こうもやかましいのだろう。鳴くのは臥所だけで充分というのに。まあ、お前の言うことも一理ある。つまらぬ平民のために約束された名誉が損なわれてはならぬからな。……なるほど、二度も裁きを邪魔されたのは、ゼウスが大祭にて俺を待っているからか」
向けられたままの切先を気にもせず、ポリュボスはこう言い放つ。
「豚よ。主人をかばえて安堵しているか? だが、覚悟しておけ。『選定の儀』ではお主の骨という骨を叩き砕き、蛸のようにしてやろう。たとえ木だけの槍だろうと、戦神アレスの加護さえあれば命を奪うのも容易きことよ」
戦神アレス、神の王ゼウスと正妻ヘラの子にして、進む先に鮮血まき散らす神。恐慌と敗走を引き連れるその『神威』はもちろん人殺しの力。
「手合わせの最中ならば力を振るうのも禁じられてはいまい。なるほど。それこそが神の望むことか」
傲慢な笑みを浮かべながらこう語り、ポリュボスは門を通の奥へと去った。残された少女はネクタルと老人を交互に見やった。
「私は彼の戦巫女のエイレーネと申します。ご迷惑をおかけしました」
ここに来て初めて礼儀正しく接され、ネクタルはどう返すべきか分からずに戸惑う。
「あなたが謝ることでは……」
「いえ、そんなことはありません。そちら年配の方も大丈夫でしょうか? 何かありましたら……」
「いや、わしのことは気にせんでおくれ」
従者の女に支えられながら、年老いた豚飼いは立ち上がる。大事そうに籠を抱えた。おどおどとして少女と目を合わせられもしない。
「誠に申し訳ありません。彼にもしっかり言っておきますので、なにとぞご内密に……。それでは、失礼させていただきます」
去り行く少女の後ろ姿をネクタルは寂しげに見送る。もし自分の戦巫女だったならば、もっと大事にしたなどと考えているのだ。自分の愚かな空想を鼻で笑い、彼は老人へふり向いた。