1.3
顔をしかめながら顎髭をさすりアンティポスは口を開く。
「何の用だ?」
「私の元に巫女がまだ来ていないようですが……」
その言葉に一同がくすくすと笑った。ネクタルは戸惑い、せわしなく首をふり辺りを見る。ポリュボスと目が合った。
「お前は愚かだ。長老たちに贈り物をしたようだが、巫女の父には渡さなかったのか? 今からでも遅くない、藁と糞を買って、裏にある豚小屋へ向かうがよい」
青年たちはこらえきれずに大声で笑った。少女たちは無言ながらも、むしろより軽蔑をこめた冷たい視線をネクタルへ浴びせる。
「ポリュボス! そのように馬鹿にするのは褒められた事ではありません!」
自分を注意する戦巫女をつまらなそうに眺めてから、ポリュボスは前へ向き直った。どうしてこうまでも馬鹿にされるか分からず、ネクタルは悔しさに歯を食いしばる。
アンティポスが杖を掲げ、皆の注目を集めた。
「皆はプリスカの後へついてゆけ。彼には私から説明しよう」
プリスカに従って青年少女たちが歩き行けば、広場の奥に控えていた奴隷たちも主の武具を抱えてその後をつけてゆく。広場に残るはネクタルとアンティポスの二名のみ。
アンティポスは台から降りて、青年の前に立った。威厳を演出するかのように胸をはる。ネクタルの血まみれの顔にはふれず低い声でこう告げた。
「……ネクタル、と言ったか。お前と組もうとする乙女が誰もいなかったのだ。諦めよ」
「ポリュボス殿の言葉からするに、事前に親に贈り物をすべきだったのでしょうか? しかし、それはおかしくありませんか。この儀式の直前の占いにて戦巫女は決まる事になっている。規則に従えば、ありえないことだ」
「建前というものを知れ。うつけが」
アンティポスの眼つきも青年たちのそれと変わらなかった。侮蔑をぶつけられようとネクタルはくじけない。
「……ですが!」
「黙れ。よもや、お前は『選定の儀』に出るつもりではないだろう? ならば戦巫女も必要ない」
「私はオリュンピア大祭に出場するため、ここへ参りました。代表となるために儀の参加が必要ならば、そのつもりです」
苦虫を嚙みつぶしたようにアンティポスの顔が歪む。
「愚か者め……。若殿たちに混じろうとは。勉学と運動は彼らと一緒に学ぶがよい。それだけでも平民のお主には過ぎたことよ」
「……なるほど、承知しました」
貴族は、神々の血をひいたた太古の王族の裔と考えられていた。武力により国を守り民を導いた者として、その血族は特権的な立場にある。『武装競争』もまた明言こそされていないが貴族が出場するものとされていた。
「今日は家へ帰れ。もし、お前が高貴な生まれの彼らの手伝いをし、縁を結びたいと言うのなら、取り計らってやってもよいぞ。……相応のものは必要だが」
懐柔するような卑しい笑み、それを受ける青年は、力強い眼差しで、はっきりとこう告げる。
「私は長老がたに神へ宣誓した上で、貴族と変わらず扱われる許しをいただいた。ですので、代表選手を決める『選定の儀』に出る権利はあります。数が合わず、私に戦巫女がいないとしても、参加は可能でしょう?」
予想だにしない言葉に、アンティポスは鼻の穴を大きくし、息荒く語る。
「愚かなことを……。腕っ節で若殿に勝てず、神の加護を与える戦巫女もおらぬ。お主の負けは既に決まっておる。もともと、若君たちは全てを決めたもう神々にことさら愛されているからな」
「それでも、行う前から諦められません。『武装競争』に出るのは幼き頃からの夢なので」
「これ以上お前にかける言葉はない。大怪我をしてから泣き言をほざくなよ。ここ体育場では十二の守護神ごとに訓練所が決まっておる。お主は巫女がおらぬから、神の加護もなく鍛錬する場所もないのだ。さあ、気が済んだか? 私は彼らの指導をせなばならん。無駄に時間は使えぬのだ」
そうまくしたてると、アンティポスは腹立たしさを地面にぶつけるように荒々しく歩き去った。
屋根のない広場には変わらず強い日差しが注がれている。ネクタルの額から大粒の汗がたれ落ちて、麻の胸当ての土汚れが広がった。それを買ったときの想いが彼の胸で蘇る。
十三歳の頃から働き得たもののほとんどを長老たちに貢いだ。朝は畑を耕し、夜は港で重い荷物を運送した。時に自分が耕してきたものでは足りず、命をかけて海を渡り、異国との貿易をして金を稼いだ。そうしてようやく許可を得て、わずかばかり残った金でどうにかして集めた武具だった。
昨夜、初めてその防具を身につけた時、古の英雄のような気分になれた。汚れた防具を何とか磨けば、夢もまた輝いた。明日が生き生きとした希望に満ちていた。ゼウス、アテナ、ポセイドン、どの守護神に選ばれ、どんな『神威』が使えるようになるか、楽しみでならなかった。しかし、今日待っていたものは何であろう。
貴族たちが自分を対等扱いしないとしても、人並みには接してくれると思っていた。長老たちは偉いからこそ、正しく取り扱ってくれると信じていた。ネクタルは首をもたげる。日が強ければ、落とす影もまた強い。
その腕に血管が浮き出た。筋肉が膨れ上がる。腰に下がる小刀の柄が強く握られ、ぎりりと悲鳴をもらす。青年は勢いよく顔を上げた。髪から汗が散り、宝玉のように輝く。
「……これで諦めてなるものか」
彼に従う奴隷などいない。笑いあう友も、支えてくれる女もいない。けれど、よろけながらも堂々とネクタルは独り歩き進む。