2.3
背の低い草むらが風に揺られ、黄金色の光を浴びてつややかな毛皮のように輝く。海沿いの切り立った崖だ。その先に海神をまつる小さな神域があった。
少女は膝を曲げ、祭壇に向かいかしづいている。頭巾を下ろしてあらわになった金髪に夕日の橙が映えて焼けた鉄のように色づく。
その姿をようやく見つけ、ネクタルは静かに向かう。風にのった少女の声が彼の耳をくすぐる。
「……お願いいたします。あのお方が無事に決闘から帰ってきますように」
足が止まる。薄い外套を着た小さな背中を彼は眺めた。
「ネクタル様……どうか、ご無事で」
「……リュラ」
自然とその名を呼んでいた。少女がふりかえり、二人は向き合う。たった数日会っていないだけなのに長い間離れていたような気がした。
「すまない。盗み聞きするつもりではなかったんだ」
リュラは頭を下げて、駆け出そうとした。ネクタルはその肌にふれず、ゆっくりと声をかける。
「話しを、聞いてくれないか」
彼女は足を止め、ネクタルへと顔を向けた。けれど何も語らず、口は閉ざしたまま。
「ありがとう。……先日は済まなかった。あまりにも勝手な言葉を君にぶつけてしまった」
「謝らないでください。……あなたの仰ったことは正しいことです。間違っているのはわたしですから……」
「『間違った力には逆らわなければならない』私はそう言った。正しい響きだと私も思うよ。……でも、『俺』は、そこまで出来た人間じゃない」
ネクタルは崖の先の海原を眺める。かっこつけた嘘は止めた。伝えたいことを相手に届けるため必死に言葉を探し続ける。
「小さい頃はそうなれると思っていた。オデュッセウス王みたいに強く賢くなって、敵が来たらやっつけられると信じていた」
ネクタルは石を拾って海へと投げた。リュラは無言で彼の話しを聞く。
「親父も、おふくろも、姉も、夜中に海からきた海賊に殺された。古の王の加護なんてまるでなく、俺の勇気もありゃしない。でも姉さんは俺と違った」
自分の弱さを認めることから始めよう。ずっと強がりの上にいろんなものを積み重ねた。だから、自分の地力が分からなくなった。
「姉さんは自分を犠牲にして俺を逃がしてくれた。俺は助けを呼べば良かったのに、怖くて朝になるまで隠れて丸まっていた。臆病で、強さとはまるで縁がない」
「……それは仕方ないでしょう。幼い頃にそんな経験をしては……」
「ああ、ごめん。違うんだ」
互いの過去を慰め合うだけの関係にはなりたくなかった。ネクタルは微笑む。
「臆病だったのは確かだ。そんな、臆病な自分から変わりたかった。……いいや、変わりたいんだ」
リュラは一歩前に出た。彼は動かず、話しを続ける。
「間違った力に抗うには、それ以上の力がいる。そう教えてくれた人がいた。おれもそう思う。いつか、もし悪いことが起きた時、逃げずに立ち向かえるようになるため、俺はあがいてるに過ぎない」
「ネクタル様はお強い。もうご立派に変わられております」
「まだ、だ! いつかはそうなる。自分勝手な言葉で人を傷つけるような、弱い男から成長しよう」
ネクタルは優しげにリュラを見つめる。少女は顔をそらさず、ゆっくりとうつむいた。
「あなたなら、ぜったいになれると思います」
少女が切なげに笑うのを見て、ネクタルも彼女へ近づいた。リュラは退かず、距離は縮まる。
「……なあ、リュラ。君は自分のことを呪われていると言う。俺はやっぱりそうは思えない」
どうすれば伝わるだろう? 選定の儀に参加してからは貴族へ意地を張った話ばかりしてきた。下働きの頃は仕事の話しだけだった。子供の頃は伝え方を考えたこともなかった。自分の想いを伝える難しさをネクタルはひしひしと感じていた。
「俺は自分のことを強いと思わないが、君はそう考えているらしい。どうにも、あべこべじゃないか?」
難しく考えていたあれこれが頭の隅へ寄せられていく。ただ笑ってほしかった。少女の笑顔を見たいと思った。
「そうですね」
だからリュラがくすっと笑った時、ネクタルは今までにない喜びを味わった。
「どうだろう? このあべこべを正してみないか」
リュラは青年の顔を覗きこむ。ネクタルはもつれそうな舌を必死に操る。
「俺は、ペイライオス様に勝とう。そうしたら、俺も自分のことを多少強くなったと認められる。弱い者が強くなれると証明できる。……そうしたら、人は変われるのだと信じてほしい。過去に災難に見舞われようと、諦めず正しいことを続ければ幸せが得られる。俺はそう信じる。いつか、君にも、そう想ってほしい。俺は君に、ここに居てほしい」
ネクタルは静かにそう告げた。一呼吸をおき、こめかみにたれる汗をぬぐう。
「勝手で一方的な物言いだ。ただ、頭の片隅に入れてくれないか」
リュラは静かにうなずいた。
「……話しを聞いてくれてありがとう。君の祈りのおかげで俺も頑張れる」
二人は小さくお辞儀をした。それ以上何も告げず、ネクタルはその場を後にする。頭の中は真っ白で、どうやって旧訓練場についたか覚えていない。自分の内側で暴れる力を彼は感じてやまなかった。




