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ネクタル 〜神からつがれし者〜  作者: 周防 夕
第三歌 学びえるもの
24/26

2.2

 日が暮れた。まだ一番星は出ていないが、空は紫に染まっている。老人の顔にも影が落ち、どこか荘厳な雰囲気を発していた。

『わしはスパルタの名家に生まれ、メネラオス王に付き添いトロイアへと出航した。これが十年も続く戦争と知らずにな。もし、知っていたら貢ぎ物を出してでも戦を免除してもらったかもしれぬ。それというのも、わしは第一子を得たばかりで、妻も若く、美しい盛りじゃった。今でも思うぞ。あの時こそ、幸せに包まれていた時はないと』

 スパルタ生まれの彼がなぜ亡霊となりイタケを彷徨さまよっていたのか。ネクタルは老人の顔をうかがう。急かすなとも言いたげにアンティクロスはゆっくりと唇を動かした。

『九年、戦を続け、体には血がしみ込み、己の国を、妻子を守ろうとした敵将を殺戮し、戦利品を積み上げた。満足していた。己の力におごった。名の轟く英雄になれると信じていた。お主の知っている通り、わしは木馬の中で助けを求めようとした。外から懐かしく忘れかけてさえいた妻の声が聞こえたからじゃ。敵の罠とオデュッセウス殿が気づいたおかげで一難は避けることが出来たがな。……この時、目をくらませていた黄金や名声が無価値だとわしは知った。真の幸せとは、愛しい妻と暮らし、老いて子供に見送られることと気づいたのじゃ。わしはオデュッセウス殿へ誓った。戦を終えた時、必ずやイタケへ向かい、我が家に伝わる黄金のかなえを差し上げるとな』

 ホメロスの叙事詩ではアンティクロスについてトロイの木馬の件しか伝わっていない。どう没したのか、ネクタルは知らない。

『母国に帰り、やつれきった妻と、成長した息子に会った。せがれはわしを父だと気づかなかった。当然のことじゃ。どうにも居心地が悪く、家族と抱擁する間もなくイタケのオデュッセウス殿の宮殿へと向かった。妻子とのみぞは誓ったことを済ましていないから、それさえ終えれば全て良い方向に向かうだろう。そんな馬鹿げた空想を信じてな』

 馬鹿げた空想とは頑張れば報われるということだろうか。それとも……? ネクタルは相手の言葉を自分に当てはめて精一杯に考える。

『イタケへと向かう船旅は過酷じゃった。トロイを好んだポセイドンは怒りの波を我らが船にぶつけ、船は竜骨を残しばらばらになった。そうして海はわしを飲み込んだ』

 トロイア戦争ではオリュンポスの神々がトロイ派とヘラス派に分かれた。海の神ポセイドン、美の神アフロディーテ、鍛冶の神ヘパイストス、そして青春の神アポロンはトロイ側へ加護を与えた神たちだった。

『暗い海底へ沈み行く中、わしは悔やみ続けた。戦争へ向かい栄誉を授かる。オデュッセウス王と出会えば救われる。そういった妄念ばかりにとりつかれてきた事を。しっかりと考えもせず、間違いは犯していないと意地になった。確かにあの時は全力を尽くした。だが、それは果たして正しかったのだろうか』

 死人の後悔は心に迫るものがあった。その疑問はそのまま青年に突き刺さる。

『わしが本当に得たかったもの、家族との暖かな幸せを得るにはもっと他のすべがあった。にも関わらず、過去の選択を過ちと認められず目をそらした。……若者には同じ後悔をして欲しくないものじゃ』

 自分もまた問題から目を背けているのだろうか。すべきこと。何を求めていたのか。強さ。力。それは、何のために?

『老人の語りは退屈じゃったな。わしも若い頃、ネストル老の話をよく聞き流したものじゃ』

「いえ、そんなことは……」

『お主は何を悩んでおる?』

 誤った選択と聞いて、まず頭に浮かぶのは少女へぶつけた言葉。けれど今振り返っても、伝えたかった気持ちに間違いは見つけられなかった。仕方のないことに思えた。

「なにも……。口にして解決することではありません」

『お主は己を愚かと言っておきながら、判断には自信を持っておるのか? 言って楽になることもあるぞ』

 老人の微笑みを見ていると、青年の緊張は自然とほどけた。けれど女性のことを口にするのに照れて、別の悩みを打ち明けた。

「……私は、私は不安なのです。貴族の彼らが言うことが正しく、自分が浅ましい男にすぎないと思えてしまう。私は誇りをすて、決闘を挑んで来た貴族の方に頭を下げるべきでしょうか?」

『お主はアガメムノン王を知っておるかの?』

「お話だけは。大戦でヘラス総勢を指揮したミケーネ王、王の中の王と聞いております」

『ふむ。確かにそれだけの器の男じゃった。じゃが、彼はなぜ、ヘラスの大将となれたと思う?』

「どういう意味でしょう」

『戦の腕では、アキレウスやアイアス、ディオメデスの方が優れていた。知略ならばネストル老や、誉れ高いオデュッセウス、これらの王が勝っていた。そのように伝わっておらぬか?』

「ええ。でしたら私はこう答えます。トロイア戦争は、トロイ王子パリスがスパルタから王妃をさらったことが発端と聞いております。アガメムノンがスパルタ王の兄だったからでは?」

『ならば、スパルタ王が指揮をすべきじゃ』

「それは、そうですが……」

『アガメムノン王がもっとも優れていたのは、その土地と金、そして配下の数じゃ。わしはかの王を馬鹿にするわけではない。じゃが、皆が従ったのは奴の腕でも、才知でもなく、その権力と断言する』

 少年の頃、アガメムノン王にも憧れていたのでネクタルは自然と反感を抱いた。眉間にしわをよせて聞き返す。

「つまりは権力、ペイライオス様に従えと言いたいので?」

『若者は答えを急いでならんな。わしが言いたいのはそんな事ではない』

 ひょうひょうとした態度でアンティクロスは相手の怒りをひらりとかわす。

『アガメムノン王の最後を知っておるか? わしは冥界で彼に会って話しを聞いた。戦に勝った王は、帰国した先で妻に殺された。権力こそ虚ろなものじゃ。もし、お主が何かに成功して名誉や権力を得たとしよう。そうすれば、砂糖に集まる蟻のように多くのものが群がる。しかし、そのうちで己がひんしたときに助けてくれるもの、苦さを共有してくれるものが幾人おるじゃろう? 権力は移ろうもの、恐れてはならぬ』

「……はい!」

 霊の声はすとんと彼の胸に届いた。ネクタルはしっかり吟味した上で、その言葉を信じる。

『今一度、考えよ。何も持たない今のお主を助けてくれるものはおらぬのか?』

 まぶたを落とせば、涙に包帯をぬらす少女の苦しげな顔が思い浮かぶ。目を開き、ずっと認められなかった言葉をひねり出す。

「……います」

『その者こそ真に頼りになるもの。心より大事にすべきじゃ。お主が浮かない顔をしているわけは相手と喧嘩をしたからじゃろう?』

「喧嘩ではありません!」

『子供は図星をつかれると、すぐ声を荒げるの』

「子供扱いしないでください。彼女のことは尊敬しています。しかし、考え方が違う。そんな二人が近くにいても、いつかは考えをぶつけて分かれるだけ。それが早いか遅いか、そういう話でしょう」

 彼女を大事な人と認めきれないのは、奴隷だから? それもある。でも何より特別な人をつくることを彼は恐れていた。失う悲しみを経験しているからこそ。

『ほー、女か。女とはのお。確かに子供じゃないかもしれんのお』

 にやにやと笑われて、ネクタルは耳を真っ赤に染める。顔をしかめてアンティクロスをじと目で見る。

『そう睨むな。きちんと話しはしたのか? トロイアへ向かう我らヘラスを繋いだのもの言葉じゃった。会話は大事じゃ』

 雑多な国が集まり違う言葉を話したトロイ連合軍に対し、ヘラス勢は方言こそあれ同じ言葉を話した。だからこそ連携がとれた。

「お互いの境遇や考えは話せたと思います」

『ただ、言葉をぶつけるのを話すとは言わんぞ。尖った言葉をぶつけても、その真意には気づけまい。固い殻に包まれた甘い果物があるとする。甘い実があることを知らなければ、それを贈られても困るだけじゃ』

「どういうことでしょう? 私は本当のことを言った。嘘をつけとでも?」

『嘘も必要ならすべきじゃが、今勧めるのはそうではない。言い方と言うものを学べ。大切なのは、伝えたいことを伝えること。子供にものを教えようとして難しい言葉を並べても仕方がない。分かるように伝え、相手の話すことを分かろうとせよ』

「……はい、あなたのおっしゃる通りです」

 相手に同情をし、上から目線で厚意を押し付けたと青年は深く恥じる。

『思い描くのじゃ。自分が、そして大事な人が救われる未来を』

「……ええ」

『お主は力が欲しいと言った。決闘に勝つための「力」を望み、わしを呼んだ。一人前になるための「力」を求めて、体を鍛えると言った。お主が望むのは、本当にそのためだけの力か?』

「……正直、分かりません。私は、私が求める力をうまく口にできない。それはおかしなことでしょうか?」

『決しておかしくはない。自分の行動や欲望を一から百まで説明できるのは学者ぐらいじゃ。それでも後回しにせず考えよ。何を求めているのか分からぬうちは、目先のことを一つ一つ済ますのじゃ。じゃが、求めるものが分かった時、その『力』に向かい汗を流せ。がむしゃらに体をいじめるのは愚かなことじゃ。鍛え方はわしがこれから教えてしんぜよう』

「はい! アンティクロス様!」

『良い返事じゃ。じゃが、一つ直してほしい。アンティクロス様などと呼ばれるのは何だか他人行儀じゃ』

「では、どのようにお呼びすれば……?」

『そうじゃの。先生と言うのはどうじゃろう? わしはお主に教えるためにやって来たのだから』

「はい、先生! ……その、それでは、私は彼女に会いにいこうと思います。今度こそ、しっかりと会話するために」

 人と話すことが楽しいと思えるのは初めてだった。乾燥した心に潤いが与えられる。眼前の迷いは晴れた。

『うむ。行動と判断の迅速さは、お主の美点じゃの』

 それでも、安心はできない。己の問題をより明確にネクタルは知る。それでも恐れず、前へ進むため、一歩を踏み出した。

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