2.1
『おい! ネクタルよ! あの若者がほざいたことを説明せぬか! なぜわしが腰抜け扱いされておる』
旧訓練所に戻るやいなや、ネクタルは老人につめ寄られた。人ごみの中では答えられないと彼を待たせていたのだ。
青年は腰を下ろし、木に寄りかかる。どう切り出していいか迷ったすえ、素直に伝えることにした。
「それはホメロスと言う盲目の詩人が……」
途中で言いよどみ、彼はアテナの祭壇を見つめた。盲目の詩人と言う響きが少女の似姿を彼の頭に描かせる。痛みに胸がうずく。弱さを見せないように笑顔をつくり言葉を続ける。
「偉大な詩聖が残したトロイア戦争の詩に、貴方のことが歌われているからです」
『いったいどのように歌われておる? お主の知ってる事を全て語るのじゃ!』
「では、ご存知のこともあるとは思いますが、私の知っていることを語らせていただきます。トロイア戦争終局、ヘラス勢は敵国の強固な城壁を破ることが出来ず、攻めきれずにいたと伝えられております」
『ああ、そうじゃった。わしらは十年近くもトロイアを攻め落とせず、つらく厳しい戦いを続けたのじゃ』
「そこでヘラス勢は帰国したふりをして相手の油断をつくことを考えました。大海の主ポセイドンへの貢ぎ物として巨大な木馬を作った振りをし、それを後に残し、船団を敵の目につかない沖へと退かせました」
幼い頃、夢中になった物語なので、するすると説明が出来た。参加した本人に語るのは不思議な感覚だったが、相手がうなずいてくれるたび、自分の知識が正しかったと認められるようでネクタルは嬉しかった。
『あれもまた、知略縦横たるオデュッセウス殿の提案じゃったな』
「トロイア人たちはまんまと騙され、ヘラス屈指の戦士が潜んだ木馬をめでたいものとして都の中へ運んだと伝わっております」
『奴らは喜びながら死を招き入れたのじゃった。子供らは殺され、女は奴隷へと身を落とし、絢爛たる都は一夜にして灰と化した。人の幸せなど、死ぬ寸前まで分からぬものよ』
過去の惨劇を思い出し、ネクタルの言葉がつまる。不変たる神と異なり、人が持てるものは全て虚ろなもの。物だけではない。人と人とのつながりだって同じだ。青年はそう考える。
『ああ、済まぬ。思い出に浸ってしもうた。さあ、続きを語っておくれ』
「……はい。アンティクロス様の名が伝わっているのは木馬の中に潜んだ時のことです。恐怖に負け、声を漏らしかけ、オデュッセウス王に口を塞がれたと伝わっております」
ぽーんと目玉が飛び出んばかりに老人はまぶたを開く。首を大きく振りながら、両手で薄い頭をかきむしる。
『ああ! なんたる恥辱じゃ! わしはもう死んでしまいたい!』
「もう死んでおられるのでは?」
『知っておるわ!』
子供のようにいじけて、アンティクロスはうつむいて小石を蹴ろうとしている。けれど指先は透けて空ぶるばかり。
『……全てが語り残されるわけではないのじゃな。どうにも、偏った事柄だけが後に残される』
アンティクロスはどこか寂しげに笑った。どう声をかけていいか分からずにネクタルは老人を見守る。
『ネクタルよ、お主がテルシテスと呼ばれるのは貴族から嫌われているからか』
亡霊ははっきりとした口調で尋ねた。その雰囲気の変化にネクタルは戸惑う。
「ええ」
『そうか。貴族と決闘があると言っていたな。どういう予定じゃ?』
「十三日後、屈強な若君ペイライオス様と真剣にて手合わせします」
『その決闘は避けられぬのか』
「曲げられません」
『勝つ見込みは? 相手の実力はいかほどか』
「分かりません。ただ己の地力を上げるため努力するのみです」
『……そうか』
「では、訓練させていただきます」
『うむ。励むと良い』
ネクタルは走り始めた。途中、振り向いたが老人の姿は見当たらない。深く気にせず、足を進める。まずは自分が出来ることをするのが一番だと思った。
独りになると、欠けたものを実感した。走り終えても彼女は待っていない。こちらの姿を見つけ、小さく微笑んでいそいそと食事の支度をしてくれた彼女はいないのだ。
リュラが捧げてくれた優しさの一つ一つが、共に過ごした時間が、甘い痛みとなってネクタルを襲う。交わした言葉はわずかで内容の薄いものだったが、それでも、二人の時間だけは彼に安らぎを与えてくれたのだ。
頭が回りすぎる。無駄なことを考える暇はない。彼は頭をふった。そうして己へこう語る。走れ。走り続けろ。心の痛みを、肉体の痛みが上書きしてくれるまで。
遠くの世界は、空気の塵に立体感を奪われ、切り絵のように平面的だ。赤く染まる空にとがった山の影が沈んでいる。飛ぶ鳥は岩肌あらわな山道に小さな影を見つけた。乾いた土の上をへろへろと走るネクタルだった。
太ももが石のように固くなり足を上げることができない。引きずるように進む。足がもつれネクタルは倒れる。仰向けになり、暗くなり始めた空を眺める。冷たい空気が灰に充満するのが気持ちよかった。空の奥を眺めていると何も考えずに済んだ。
茜空を後ろに透かしながら、険しい顔つきの老人が彼を見下ろす。
『……さて、気は済んだかの』
「なにが、ですか?」
老人は背を向けた。ネクタルは慌てて体を起こす。失礼なことをしたのか不安になった。
『お主が強さを求めないならば、わしは冥界に帰らせてもらうぞ』
「……なぜ、そう思うのでしょう? 私は今まさに強くなるため、汗を流しているではありませんか」
『老人の目がぼやけていると、お主はそう言いたいのか?』
強い目力に耐えられず、ネクタルは目をそらす。間違いをしたつもりはないのに、なぜかずるをしたような気分だった。
『わしには雑念を追い払うために体をいじめているようにしか見えぬぞ』
「そんなことは! ……うっ」
咳き込み、口を押さえる。胃液が暴れて口から出ようとしていた。
『自分を追い込むことは時に力を生むだろう。しかし、それは仮初めの力にしか過ぎぬ』
「だからこそ、毎日、体を鍛えております!」
『そんなもの、子供の言い訳にしか過ぎん』
ネクタルは立ち上がる。その目は弱々しく潤んでいる。
「確かに私は愚かで、それは自分でも認めております。けれど、だからと言って、それに甘えていては何も変わらないでしょう?」
老人は振り返り、柔和に微笑む。
『怒りを抑えよ、我が息子よ』
ネクタルの息が止まる。年長者が若者へ語る時、血縁関係がなくても親しみを込めて息子と呼ぶことがあった。それでも、ネクタルがそう呼ばれるのは父を失くして以来初めてのことだった。
今まで必死に築いてきた心の城壁、その弱点を一撃で突かれた。壁はぼろぼろと崩れ、青年の険しい顔が幼子のように変わる。
『腰を下ろせ。少し休むがよい。暇潰しにわしの生まれを聞いてみてはどうじゃ。年寄りの話しは退屈じゃろうが、得るものも少なからずあるはずじゃ』
言われるままに腰を下ろし、彼は幾重のしわの奥に潜む優しげな目を見つめた。




