1.2
屋根のついた半円形の広場に貴族の青年たちに十人が集い、石でできた椅子に腰を下ろしている。その奥に長い外套を着た老人が一人ひかえていた。論語の先生だ。彼の講義が終わり、自由討論の時間になったのか青年たちは意気揚々と語り合っていた。
ネクタルは息荒くその場についた。輪に入ろうとして、外側にいたエルペノルと目が合った。彼はにやりと笑い、やせた頬に一筋のしわをつくった。
「おお、勇敢な平民のお出ましか! しかし君はひどい格好をしている。うちの奴隷より惨めに見えるよ」
「……衣服に関しては、申し訳ありません」
ネクタルにひと睨みされただけで、エルペノルはたじろぎ、身を引いた。そうして近くにいた他の青年へ話しかる。
「それよりも君。この前、用あってドゥキリオン島に行ったんだが、とても美しい女性を見かけた。巫女のような格好だったが、オリュンポスより降り立ったアルテミスと言っても差し支えないほどだったよ……」
彼の話しを聞き流し、ネクタルは輪の中心へ向かう。そこではポリュボスを中心に議論が盛り上がっていた。ネクタルは少し距離をおきながら、その話しに耳をかたむける。
『美女の話しは聞かんでいいのか?』
人ごみをすりぬけ、アンティクロスが彼の隣についた。道中確認したが、彼の言う通りネクタルにしか見えないらしい。周りに不審がられないように声量を落としネクタルは話す。
「ええ。こちらの討論に用がありました」
『はあ。若いのに淡白なもんじゃ。さてはて、彼らは何について語り合ってるのじゃ?』
「ホメロスの歌ったトロイア戦争についてです」
ホメロス、それは全ヘラスに名の轟く偉大な詩人である。彼の作であるトロイア戦争を歌った叙事詩『イリアス』は、ヘラス人にとってただの物語ではなかった。それは教科書であり、百科事典であり、教典だった。多くの市民が長大なこの歌を暗唱できた。そして議論の題材にも当然なり得た。
「アキレウス王の従者が敵将に打ち取られた後、彼を弔うため王が催した競技祭の話しをしているようです……。おやどうされたのですか」
老人はぼろ布の外套で顔を隠した。その奥の瞳から雫が落ちる。して急に顔を上げ大声で叫ぶ。
『いやはや、わしは懐かしい!』
驚いて身を引き、ネクタルは隣の青年にぶつかった。舌打ちされ軽蔑の視線を浴びる。いつもは多少引きずる反応も、直ぐに老人の霊が忘れさせてくれた。
『ああ、わしの四肢に力溢れた若かりし日よ。戦場ではわしも多くの敵を討ち倒したものよ! 何百年経とうとも英雄の名誉は色あせぬものじゃな!』
「……ええ、トロイア戦争についてはヘラス中、産まれたばかりの赤児以外、誰もが存じております」
そう聞いて、アンティクロスはうきうきした様子でポリュボスたちの語らいを聞いた。ヘラスの二つの国の王、ディオメデスとアイアスが本物の武具をつけ力比べした話しをしている。どちらか命を落としかねないために途中で中断されたが、それが最後まで行われていたらどちらが勝利したか話していた。
「この伝説をふまえて、私が出ようとしている武装競争が始まったとされています」
『わしらの頃は運動競技は短距離走や円盤投げが盛んじゃった。拳闘やレスリングもしたが、武器を使った手合わせは野蛮に思える。命を奪えば相手の親族もただでは済まんじゃろう。敵国ならまだしも、同じ国民となればなおのこと災いは複雑なものとなる』
「そうですね。だから武器は木製ですし、相手の胸当てにつけた宝玉を砕くことで勝敗を決めております」
ざわっと、こちらに視線が集まるのにネクタルは気づく。独り言で目立ってしまったのか不安になる。顔を前に向ければポリュボスと目が合った。
「勇敢なる平民、テルシテスよ。何をぼそぼそ言っておる。さてお前の意見も聞いてみたい。喋るのは大得意なことだろう?」
「……どなたに話しかけておられるのでしょうか」
「分かっているからこそ返事したのだろう? 名高き平民、テルシテスよ」
青年たちは大きく笑う。ネクタルは悔しげに顔をゆがめる。アンティクロスは首を傾げ、眉間に深くしわを寄せている。
『テルシテス……どこかで聞いたことがあるのお』
相手の格を皆に周知したことで目的を果たしたのか、ポリュボスはネクタルに背を向け囲う男たちに話しかけた。
「相棒とも言えるディオメデスとオデュッセウスが真剣勝負をしたら、どちらが勝っていただろうか。これは難題だ」
『ほほう。さすがイタケの民、オデュッセウス殿のことを崇めているようじゃ』
ネクタルは王の名を聞いて不満そうに口を曲げた。
「私は好きではありません。妻や父に嘘を言い騙す男のことは。戦術の女神アテナが彼を加護していたと伝えられていますが、それよりふさわしいのは盗人と偽誓の神、ヘルメスだと思います」
『王のことが嫌いなようじゃな。それよりアンティクロスのことは語らんのか。わしとてトロイの木馬に入った猛者の一人じゃぞ』
老人の霊は見て分かるほどそわそわとしていた。胸をはり、悲鳴を上げて腰を押さえる。ネクタルのさする手はまたも空を切った。
「……残念ですが、あまり話しは残っていないようで」
ネクタルは目を合わせず答える。彼と同名の戦士の話しを知っているものの、それを本人に言うのは気が引けた。
『そうか、それなら仕方ない……』
悲しげにうつむく老人を見て、ネクタルは後ろめい気分になった。
青年たちは議論を終えて解散し始める。議論の講習だけで選定の儀はない日だった。去ろうとしたネクタルの右肩に強い痛みが走る。振りむけばポリュボスに肩をつかまれていた。
「テルシテスよ。何処に去ろうとしている?」
「体を鍛えに向かおうと」
「そんな不満げな顔をするでない。もっともな渾名が気に食わぬか? アンティクロスと並び、平民ではひときわ名高い二人ではないか」
悲しみに沈んでいた老人が、喜びにあたまを輝かせながら顔を上げた。笑いながら何度もうなずく。
『おお。褒めてくれるとは、良き若者じゃ!』
ポリュボスの肩を叩こうとして、老人の手は何度も空を切る。しかし、ぴたりと止まり、じわじわと顔が赤らんでいく。
『……いや、テルシテスと言う男を思い出したぞ。皆の集まる集会で王に戯言をほざき、オデュッッセウス王にこっぴどく叱られたハゲ男のことではないか! なぜ、それがわしと同列に……!』
アンティクロスの声など聞こえぬポリュボスは、にやにやとネクタルを見ながら話しを続けた。
「ああ、俺は十三日後が楽しみでならぬ。しかし、戦いは起きぬかもしれんな。俺にはやすやすと想像できる。トロイの木馬の中で、恐れのあまり声を漏らしかけたアンティクロスのように救いを乞う無様なお前の姿が」
『……若造! わしを馬鹿にしておるのか! 侮辱したな! 剣をぬけ!』
老人は真っ赤な顔で杖を構える。けれど、霊の体は生きているものに触れられはしない。
「だんまりか。まあ良い。早く鍛えに行けばよい。それでペイライオス様に近づけるとは思えんがな」
そういってポリュボスは背を向けた。アンティクロスは憎たらしげにその背中を睨みつける。けれどネクタルの視線は冷ややかなものだった。
ペイライオスが出向いたのは、長老である祖父をポリュボスが利用したからだと彼は察した。父の名を子につけるのはヘラスではよくあることだ。その繋がりに驚くよりも、熱しやすい自分がいつになく冷静に状況判断できていることを彼は不思議がっていた。




