1.1
ずしりと頭が重かった。喉が乾き、血がどろどろして全身がだるい。ネクタルはいわゆる二日酔いで目覚めた。
日は頂上まで登りかけていた。辺りを見回し、ずきずきと痛むひたいを押させる。転がる瓶を目にして深くため息をつく。服を見れば酒のせいで固まった血のように赤黒く染まっていた。
立ち上がり、井戸にむかい頭から水をかぶる。秋も近く空気は冷たい。肌から湯気があがる。鋭い冷たさで肌が痛むほどだったが、それが飲み過ぎた自分への罰にはちょうど良かった。
火が燃えているように体の内側から熱を感じる。眠気が覚めてきた。一度寝たことで昨日の悩みはどこか他人事のようだった。奇妙な幻想を見たのを思い出すも記憶はあやふやだ。酒の怖さを感じながら、間抜けに大きくあくびをした。その時、背筋に悪寒が走る。背後に気配を感じふり返った。
『こんな季節に水浴びとは。お主は寒さを感じぬのか? わしはこのままでも風邪をひいてしまいそうじゃよ』
うおっとネクタルは間抜けな声を漏らして肩をあげた。体の透き通った老人の亡霊が親しげに微笑みながらそこにいた。
「お、おはようございます。アンティクロスさま?」
どうやら昨晩のことは夢ではなかったらしい。両ほほを叩き「気を確かに」とネクタルはつぶやく。
『なにを驚いているのじゃ』
「昨晩のことが……どうにも夢のように思えて。……それにしても、あなたは生きているようにしか見えませんね」
はげ頭をさするアンティクロスの息は白い。日が反射して頭頂部が輝き、ネクタルは片手で目をおおう。
『それでも、わしが見えるのは、お主だけじゃ。お主に稽古を付けるために参ったのじゃからな。さて、今一度問おう。お主は何故あれほどまで力を願った? しらふの内にも聞いておきたい』
「……決闘をする予定なのです。貴族の方々はオリュンピア大祭に平民が出ようとするのがお気に召さないようで。出場を賭して手合わせすることになりました」
不思議と亡霊を受け入れられた。相手の正体など分からない。けれど、以前助言してくれたのも彼のような気がした。だから、ネクタルは数少ない自分の味方を信じることにした。
『オリュンピア大祭? 武装競争? なんじゃそれは?』
それらはヘラス人にとっての常識と考えていたのでネクタルは不思議そうに首を傾げる。
「ご存じないのですか?」
アンティクロスの顔は怒りを表すように赤くなる。まるでゆでダコのようだ。
『わしの頭がぼけているとでも言いたいのか!』
ネクタルは強く首を振る。老人がトロイア戦争時代の霊であるならば、その数百年後に始められたオリュンピア大祭について知らないのもおかしくはなかった。
ネクタルは頭を下げ、丁寧に説明を始めた。
「イタケ島から海を渡り、ペロポネソス半島の西側にゼウスを祀るオリュンピアと言う神域がございます。そこで、四年に一度、ヘラス総勢の猛者が集結し、さまざまな競技で競い合います。『武装競争』はその競技の一つです」
ペロポネソスはヘラス本土の南に位置する半島で、ギリシア随一の軍事国家、ラケダイモン、またの名をスパルタがこの南部にあった。エリスは半島北部に位置する都市国家で、その国民が神官としてオリュンピア大祭を取り仕切るならわしだった。
『ほお、腕試しか。わしも若い頃は異国にて円盤投げや槍投げで腕を競ったものじゃ』
ヘラスでは太古の昔から体育競技が盛んであり、トロイア戦争の起きた時代、いわば英雄時代から、円盤投げ、幅跳び、拳闘、プロレス、戦車競走などが行われていた。中でも歴史の古いものは短距離走であり、第一回のオリュンピア大祭ではこの競技のみが行われたとされる。
「『武装競争』は前々回から、ドドナの神託により導入されました。新しい競技ですし、今はとても注目されています」
ドドナはオリュンポスと同じく、ゼウスを祀る神域である。神のお告げを賜る神託所としてとても深い歴史があった。
『お主も晴れの舞台での活躍を望んでいるわけじゃ』
ネクタルは一瞬、視線をそらし、うなずく。確かに、大祭に優勝すれば英雄として迎えられ、相応の官職を得ることができるだろう。けれど以前のように素直にオリュンピア大祭出場を彼は望むことができなかった。
「……ええ。ですので、稽古をしております。見ていただけますか?」
うじうじと考えるのを止め、体を動かすことにした。疲れが悩みを追い払うことを彼は期待していた。
『うむ。楽しみじゃ』
アンティクロスはのんきに何度もうなずく。ネクタルは亡霊にうさん臭さを感じながらも、数少ない自分の味方に敬意を払い、厳かに一礼した。老人に背を向け、武器へ手を伸ばす。亡霊はぼーっとした目つきでその背中を見る。
『まずは何をするつもりじゃ』
「走り込みをして体を慣らし、丸太へと木刀を振るう訓練をします」
小屋の下に並べられて武具を指差し、アンティクロスはこう尋ねる。
『なぜ、木のものを使う? 本物の刀も持っているではないか』
「丸太が切れてしまうのは困るので」
『ほお。お主は丸太を両断できるのか』
「その程度なら可能かと」
『ならば見せてくれんかの。久しぶりに太刀の煌めきを目にしたい。三本あるし、一本くらいなくなっても困らんじゃろう』
不可解そうに口を開けた後、ネクタルは男らしくうなずいた。
「ええ、ではご覧下さい」
筋肉をほぐして、ネクタルは深く息を吐いた。三日月のように反った青銅の刀を手に持つ。木の葉型のものと異なり、切るための刀だ。力を込め、丸太へ向かう。
どん、と鈍い音がした。太刀は丸太に切り込みをつくるも、指一本分ぐらいのものだ。ネクタルは肩を落とし剣を引き抜く。
「……失礼しました」
試したことはなかったが、自分の力なら当然切れるものと思い込んでいた。相手に失望されたと感じネクタルの気も沈む。
老人は気にもかけず、鼻の下を延ばし間抜けな顔をしている。
『何を謝ることがある。切れぬのが悔しいなら、もう一度やってみるといい』
「はい!」
次こそは切れるはず。ネクタルは更に力を込めて、丸太を切る。けれど結果は先に同じ。二つの傷跡が残るだけ。
『おー、残念じゃったな』
「でまかせを言ってしまい申し訳ありません。私は……」
ネクタルはすがるように老人を見つめた。アンティクロスはあご髭をなでながら、こう答える。
『わしには謝る理由が分からんの。さて、一つ聞かせておくれ。どうしてお主は二つの訓練をしているのじゃ』
「自分に強さが、体力と筋力が足らないために」
『ふむ。何に対して足らぬのじゃ?』
「すみません。どういう意味でしょう」
『なら言い換えよう。どこまで強くなればお主は満足する?』
そう聞かれて、ネクタルは直ぐに答えられなかった。ただがむしゃらに力を求めていたような気がした。けれど、他に目指すものがあるように思えた。そうして浮かぶは父の姿だった。
「……私は、一人前の男になりたいのです。丸太も切れぬ程の貧弱な自分から変わりたいのです」
『なるほど。それが主の望みならもっともな訓練じゃ。健全な男児は体を鍛えてこそ、心も真っ当なものになるからの』
老人の霊はそう言って深々と頷く。
「それでは次の訓練に……」
走り込みを始めようとして、ネクタルはあることに気づき天を見上げた。はっとして、口を間抜けに開いたままだ。
「失礼しました! 今日は答弁の集いの日でした。議会所に向かってもよろしいでしょうか? 遅れてしまえば若君たちは私を非難するでしょうから」
『いちいち霊のわしに許可をとらず好きにするといい。今の若者たちが何を語るのか、わしも興味があるもんでの。息子たちの成長を見るのは年寄りの数少ない楽しみじゃからな』 ふわふわと浮かぶ老人の霊を連れながら、ネクタルはすばやく駆け出した。途中、いつになくほおの疲れを感じた。こんなに誰かとたくさん話したのが久しぶりと言うことに彼は気づいた。




