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ネクタル 〜神からつがれし者〜  作者: 周防 夕
第二歌 譲れぬもの
20/26

3.1

 降り出した雨は弱く、酔いを覚ましてはくれなかった。サンドラとリュラ、二人の金髪の少女、今日の別れが、過去のそれと重なる。

『あなた様は、まっすぐで、とても強い。そのお言葉も、考え方も』

 澄んだ声は鋭い刃物のように彼の心をえぐる。胸の内に反響する叫び。俺は強くない。弱い自分を偽り隠そうとする卑怯者だ。

 頭を抱え、彼は熱病にかかったように、荒々しくも小声でつぶやく。汗と雨が混じり、髪はひたいにはりついた。目の下には暗い影が落ちる。

「リュラに言ったことも、サンドラからの借り物……。まるで我がもののように、ほざきおって。一人きりの俺を、彼女は救ってくれた。一緒にオリュンピア大祭に出る。その夢は俺に命を吹き込んでくれた。でも、彼女ももういない」

 荒々しくかめから酒をすくい、一度に飲み干す。せきこみ、口から赤い水を吐く。語る声は大きくなり、哀れな言葉は誰にも触れず静かな森を通りぬける。

「俺は、なぜ大祭に出たがる? ペイライオス様の言うことは正しい。俺は、俺は! 家族を見殺しにした弱い自分を無かったことにしたくて、そのために意地をはっているだけだ!」

 姉がしてくれたように、身内を助けるために命を捧げられる者こそ、強く正しい。助けすら呼ばず、逃げ続けた自分は、何より、弱く、醜い。

 青年を拒絶するように冷たい風がふいた。外套に顔をうずめる。寒さに体が震えた。もう荒々しい声は出ない。それでも言わなければ胸の内に閉じ込めた考えが己を切り裂きかねなかった。必死にかすれ声を絞り出す。

「リュラを思っているような口ぶりも上っ面だけ。中身はどうだ? 強くあらねばならぬという尖った考えを押し付け、彼女を傷つけた。自分の考えを強制するのは己に自信がないからだろう……?」

 体中から力が抜け、ネクタルは倒れ空を見上げた。星はみな雲に隠されている。

「真に傲慢なのは、俺だ! そして、裁かれるのも……俺なのだろうか」

 初めて勝利した日、自分を取り囲んだ嫌悪の瞳を思い出す。あれは正しい非難だったのか。自分は間違っているのか。考えは底に沈んでいく。

 手に当たり瓶が倒れた。葡萄酒の水たまりが彼を浸していく。まるで、血に濡れたしかばねのように。


 全ての母である大地ゲーに身を預けながら、ネクタルは甘い吐息で近よる眠気を追い払い、一人苦悶を追い回していた。

 そんなことを繰り返している内に、自分が彼女と別れてからまるで成長していないと気づいた。確固とした意思がないのが恥ずかしく、情けなかった。

『おぬしは……』

 耳元から低い男の声が聞こえた。初めは聞き間違いだと思った。けれど虚ろな声は確かに彼に届いた。

『お主は、何故なにゆえ男が肉体を鍛える場所で子どものように泣きわめくのか』

「自分の情けなさに嫌気がさした。ああ、俺は強くなりたい」

 酔いは彼を素直にし、深く考えもせず心情を吐露させる。

『なぜ、そう願う』

「父さんも母さんも、姉さんも、誰一人救えなかった。……大事な人を失いたくない。力には、力で抗わなくてはならない」

 胸の内が焼けるように熱かった。何かにひどく飢えていた。獰猛な獣を思わせる目つき。ネクタルは強く拳を握る。

「俺は強くなりたい。正しきことを行える力が、過ちを正す力が欲しい」

『その為に何をする』

「何をすべきか、分からない。……なんと俺は愚かなんだ」

『真に愚かな者は、己の過ちをかえりみぬものよ。若造、今のお主は、のろまで、ぐずで、うじうじしているだけの、どうしようもない阿呆かもしれん』

 罵倒されて朦朧もうろうとしていた意識が叩き起こされた。身体を起こし、辺りを見回す。誰の姿も見つけられない。

『じゃが、変われる。お主は変われるだろう』

「貴方は……? オリュンポスに住まう神であろうか? それとも、人を見守る神霊ダイモーンであろうか」

 その声は笑った。顔が見えなくてもそれは分かった。

『いいや。お主などに誇り高き神々は訪れはしない。わしは、無念の為に彷徨さまよう六百年前の亡霊。トロイア戦争にて、城壁高きイーリオスを攻めた強者どもの一人……』

 衝撃ゆえに何が起きたのか分からなかった。まるで太陽が落ちたかのように強い光が青年の目を襲う。彼はその先に人影を見た。

『力求めるものよ。いにしえの英雄のごとき強さを求めるならば、わしが鍛えてしんぜよう。辛い訓練に耐える覚悟があるならば、その名を名乗れ!』

 迷いはなかった。強くなりたい。今の弱い自分から変わろう。他人を傷つけず、救うことができるように。光へと手を伸ばす。熱は感じない。光に包まれるほど自分の身体が軽くなっていくようだった。

「私は、ネクタル。覚悟はあります! けれど……あなたは一体?」

 光はかき消えた。影は抜け落ち、直立していた者の姿が露わになる。

『……わしは』

 風が吹いてボロ布のような外套がめくれた。足は枯れ木のごとく細く、ぷるぷると震えている。

『わしは、アンティクロス! トロイの木馬にも入った勇者じゃ!』

 先ほどまでの威厳は塵と消えた。幾重もしわがよった顔には、わずかばかりの髪が乗っている。目の前に現れたのはみすぼらしい格好の老人だった。

 ネクタルはぼうっと彼を見つめている。勝手に描いた理想像がくずれて、急に霊と直面していることを現実と認めた。熱っぽい酔いは覚めたが頭はうまく回らない。

『みっちり稽古を付けてしんぜよう! お主を強くする為に!』

 老人の霊が胸をはる。すると「ぼきっ」と間抜けな音が鳴った。痛みの声を漏らして老人は腰を曲げて杖をつく。更に顔にしわが寄って、どこが目さえも分からない。

 駆け寄ってネクタルは相手の腰をさすろうとした。手が空を切る。本当に霊なんだと納得しかけ、幽霊がぎっくり腰になることはあるのだろうかと小さく悩んだ。

『感謝するのだぞ! 若者よ!』

「は、はあ。ありがとうございます」

 この異様な状況が彼の苦悩を吹き飛ばした。目の端に涙を溜めながらも、彼は小さく微笑む。全ての厄災が己の両肩にのしかかるような時も、何かのきっかけで笑えれば、それが小さな悩みと知れる。

 日の出を浴びながら、ネクタルは無性に体の内にみなぎるものを感じていた。

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