1.2
「なぜ、手を止めている! 休みを許した覚えはないぞ」
髭を伸ばした三十半ばの男が現れ、青年たちは安堵の息をつく。ポリュボスは舌打ちして仕方なさそうに太刀をしまった。
緊張の糸が切れて、ネクタルは急に自分の体を支えられなくなった。倒れかけながらも槍を杖にして何とか踏みとどまる。遅れてやって来た恐怖が足を震わせる。身体の節々が痛んだ。口に広がる血は悔しさの味がした。
「さあ、並べ!」
広場の前方の一段高くなった台に上り、髭の男は手に持った杖を掲げた。黒い巻き毛を短く刈りこんだ丸顔の男だった。
男は上下の繋がった毛織物の服を着ている。肩も太ももも露出していた。それは奇妙な装いではない。この国の戦士の格好であった。
「平民といえど死んだら面倒だ」
「儀式の邪魔になりかねん」
「そうだな、やるとしたら、もっと人目につかぬ場所が良い」
「どちらにせよ、面倒ごとはごめんだ」
そう愚痴を漏らしながら貴族の青年たちは列に並ぶ。ポリュボスとネクタルは二人離れた列に入り、皆が台上の男を眺めた。
「諸君らは、ヘラスの誇り高き島国、イタケ国の中でも特に由緒正しき武士の血を引くものである。さて、諸君らがなぜ集ったか、答えられるものはおるか」
若者たちは小笑いして、知っていて当然の問いを答えるのに照れて、周りのものとだべっている。ただ一人、ポリュボスが雄々しく手を挙げ前に出た。髭面の男から発言者の証である杖を手渡され、大音声でこう語る。
「今より十ヶ月後、ヘラス人総勢が出場するオリュンピア大祭の、ある競技に参加するため、身体を鍛えるために集っております。我らが目指すは『武装競争』。神の御力をお借りし、武器と武器を交え、力を競う競技。ヘラスの中でもイタケがどれだけ優れているか知らしめ、国の誇りとなるために、最も力優れた若者を決めるために集まったのです」
力強く、それでいて流々とした語りに皆が聞き入った。髭面の男に杖を返し、ポリュボスは列に戻る。尊敬の眼差しを浴び、それが自分に相応しいものと言うような堂々とした足取りだ。自分よりも二回りも大きい若者に負けじと丸顔の男も声を張り上げる。
「うむ。その通りだ。お主等もポリュボスを見習うがよい。腕っ節も重要ではあるが、我がイタケ国の古の王オデュッセウス様が知略縦横であったように、国の誇りとなるには知力と弁舌も欠かしてはならぬぞ」
遡ること救世主が産まれる数百年、西欧のある地域では小さな国々が独自の法に従いながら、独立した政体を持っていた。そう、古代ギリシア、つまりはヘラスの都市国家である。
イオニア海に浮かぶ小島の都市国家、ここイタケでは古代トロイア戦争の英雄オデュッセウス王が強く崇められていた。青年たちの誰もがその名を聞いて眼を輝かす。ただ一人、ネクタルを除いて。
「さてお主等に重要な、そして待ち望んでいたであろう知らせがある」
若者たちは少年のように無邪気に騒ぎ始めた。髭面の男が低い声で彼らを叱りつけ一時は静まるも、囁きは絶ない。
「さあ、プリスカ! 皆を連れて参れ」
乾いた砂漠に涼しげな川が流れてくるようだった。男の声にあわせ、広間の奥から女の一群が現れる。背の高い三十代の女を先頭に二十名ほどの少女たちが着き従う。
頭に花をかたどった金のブローチをして、少女たちは皆、白い服を着ている。一枚の布をピンでとめたワンピースで、腰に革のベルトをし、滑らかなひだが作られていた。
筒にはられた皮が叩かれて、ぼんと音が飛び出る。奥に控えていた若い男の奴隷が太鼓で音頭をとれば笛と竪琴の音がそれに乗る。海の精霊が波に乗って舞うように、白い肌の少女たちは頬を桃色に染めながら男たちの間をすりぬける。いたずらっけのある笑みを浮かべながら、男とふれぬように寄せては返す。
ネクタルも彼女らの甘い香りをかいだ。美しい金髪の少女や、青く澄んだ瞳をした少女、彼女らのまとう白い布が腕をくすぐった。
それらの流れはだんだんと緩やかになり、そして音と共に静まった。少女たちは一人一人別の青年の前で片足をつき頭を下げた。
「知っての通り『武装競争』では二人一組で競技を行う。武器をぶつけ合う戦士と、神の加護を捧げる戦巫女が力を合わせる。今、目の前にいるものこそ、諸君等の加護者である。相手も高貴な生まれということを忘れず、礼節もって接するのだぞ」
髭面の男がこう告げると、先ほどの背の高い女が彼の隣でその言葉を継いだ。
「さあ、みなさん。お顔をあげて。貴女がたが守り、守られる殿方たちの顔をしっかりと目にするのです」
戦巫女たちは立ち上がり、戦士たちと目を合わせた。愛らしくはにかむ少女をみて、青年たちの耳も赤くなる。
憧れた少女が目の前に来ることをネクタルは淡く夢見ていた。どんな相手が自分と組むのか直前まで知らされない決まりだった。彼は今自分の置かれた状況に戸惑っている。壇上の男が杖を掲げ、質問する機会を逃した。
「この後、皆には二人を加護する神々を占ってもらう取り決めとなっている。その前に、守護神が与える人を越えた力『神威』を、私アンティポスがお見せしよう。さあ、我が戦巫女プリスカよ、その力を発揮せよ」
プリスカと呼ばれた背の高い女は目をつむり、手を組んだ。アンティポスは腰につけた剣を抜き、空へ掲げる。プリスカは歌うようにこう語る。
「ゼウスとヘラの元に生まれし、足なえの神、ヘパイストスよ! 炎を操り、青銅を鍛える、その御力をアンティポスへ授けたまえ!」
その瞬間、天に向けられた太刀が青い炎に包まれた。ごうごうと燃える炎は粘土のように剣をひしゃぎ、その形を自在に変えさせる。
炎が消えた。黄金のように強い輝きを放ち刀身が現れる。アンティポスが剣を振るえば、風が断たれ、触れてもいない地面が割れる。ごうっと強風と音が遅れて届き、青年たちが歓声を上げた。
「諸君らはこの『神威』を習熟してもらう。君らを選ぶ守護神により、得られる力は違う。そして、半年の間『選定の儀』として得た力をぶつけ合い、その手合わせの結果、勝ち星の多かった三名を代表候補とする。そして、更なる選定の末、一名を、たった一名を国の代表とする。最後の一名になれるよう励むことを期待する」
アンティポスの語りに、若者たちは熱気こもる大声で返す。先頭の列に居たポリュボスは一人冷めた様子だ。戦巫女に不満げに囁く。
「弱々しい『神威』を自慢して恥ずかしい男だ。鍛冶の神など戦場の後ろに控えていればよい。俺が目指すのは戦神アレス。彼の加護さえあれば、あの男を打ち倒し、髭をむしるのだって容易いこと」
「滅多な事を言うべきではありません。神々はもちろんのこと、年上の方は敬うべきです。アンティポスはこの儀式を取り仕切っているのですから」
何も答えず、ポリュボスは苛立ちに身体をゆする。慣れきったように語らう二人を、ネクタルは呆然と眺めていた。
「我が戦巫女の案内に従い、ゼウスの神殿へ向かうがよい。その後は各々《おのおの》の神の訓練所で腕を磨くのだ。いち早く『神威』を使いこなせるようにな」
アンティポスがこう語ると、彼の戦巫女プリスカが広場の外へと歩き始めた。ふと、その脚が止まる。鷹にまぎれた雀のように、貴族に囲まれた場違いな平民、ネクタルが手を挙げていた。