2.4
その後、孤児となったネクタルは父の仕事仲間の羊飼いに引き取られた。そこで、親戚の都合で預けられていた異国の少女、サンドラと共に暮らすことになった。
ずっと口もきかず、ふさぎ込んでいた彼に少女は優しく接してくれた。いつしか彼女に心を開き、自然と話せるようになっていた。
それでも胸の奥の恐怖は時たま顔を出して少年をひどく嚇し付けた。この日も過ちから家族の命を奪いながらも、その代償に自分の命を犠牲にした少年の話しを聞いて彼はひどく怖くなった。
『しかるべき者へ、しかるべき物を。ならば、家族を見捨てた卑怯な者へ、贈られる物はなんだろう?』
彼女にその答えを聞きたくて、それでいて耳にしたくなかった。いつか家族を見捨てて逃げた卑怯者に神罰が降りかかる。それは余りにも当然のことに思えた。
「ねえ、ネクタル。まだ起きてる?」
暗い想像は少女の一声に断ち切られた。泣き顔を見せたくなくて、少年は寝返りをして背を向ける。
「うん」
「どうしたの? 泣いてるの?」
振り向くと、彼女はすぐ鼻先まで歩いてきていた。申し訳なさそうに少年の顔をのぞきこむ。いつもと同じ、気の強そうで、美しい顔。
「わたしの話しのせい?」
「違う。ただ、昔を思い出してさ」
「昔のこと?」
卑怯者と嫌われるのが怖くて、ネクタルはサンドラに過去を話したことがなかった。けれど黙ったまま相手の優しさに甘えるのが少年には罪深いことに思えた。
「ぼくはね、サンドラ、家族が盗賊に襲われているのに逃げたんだ。そのせいでみんな死んじゃった。ひどいやつだろ」
彼女に嫌悪されることこそ自分にふさわしい。どうせ、いつしか嫌われるのなら早いほうが良い。幼いネクタルはそんな風に考えている。
「ぼろぼろ泣いちゃって」
背筋をぴしっと伸ばして立ち上がり、サンドラは丸まる少年に声をかける。
「ネクタル。さっき私はこう言ったじゃない? ゼウスだって全て自由に正しいことをできないって。だから、わたしたち人間なんてもっとそう。どうしても、正しいふるまいが出来ないときはある」
「でも、ひどいことをした人は必ず、ひどい目にあうんだ」
「そうね。でも、それで諦めていいの? わたしはこう思う。悪事をおかしたなら、その分、善行をしなきゃいけないの。だから、グズグズすねるのは止めなさい」
「……ごめん」
「わたしに謝ったって何にもならない」
そう言って、サンドラは自分の布団に戻った。少年はうじうじと悩み続け、自分のすべきことを考えた。いくら思考を巡らせようと、自分の尾を追う犬のように目的のものは得られなかった。正しいこととは何だろう。自分にそんなことが出来るのだろうか。その答えを出すには、ネクタルはまだ幼すぎた。
「ねえ、ネクタル。もうちょっと話しをしましょ」
少年を助けるのは、いつだってサンドラだった。彼の布団にもぐりこみ、目を見つめていたずらっぽく微笑んだ。
「二人だけの秘密の話しをしてあげる」
「……うん」
「わたしはね、遠くの王族の血を引いてるの。でも、親戚が悪いことをして国を追放されたんだ。しょうがないことかもしれない。でも、わたしは、それでめげない。正しいことをする」
いつもと同じ大人びた口調。けれど、彼女の瞳が不安そうに揺れ、救いを求めるように潤んでいるのに彼は気づく。
「邪魔する人もいるの。力ずくで、大事なものを奪う人たち。彼らは神様なんて信じない。ううん。都合よく、神様のせいにする。そうして力まかせに正しさが歪められる。……でも、それで泣くのはやめにしましょう。ね? わたしたちの力をあわせて!」
「どういうこと?」
「強くなるの。傲慢な力を正せるくらいに。そして強さをみなに認めさせれば、戦わなくても、みんな正しさに従うはず」
「どうやるのさ?」
いつもサンドラの思いつきに振り回されてばかりだった。でも、それが心地よかった。彼女と二人、それだけで誇らしくなれた。しぼんでいた胸に元気が胸にあふれてくる。
「この前のオリュンピア大祭で『武装競争』っていう競技が始まったじゃない? それに二人で出よう! あれなら女でも出られるし」
「できるかな。ぼくは農民だし、弱いもの……」
「ネクタルなら出来るよ。弱いなら鍛えればいい。まだ八年もあるもの。わたしが戦巫女になるから!」
「……うん。強くなる。ずっと、もっと」
その夜、血塗られた復讐神に脅かされる日々に光が射した。ネクタルは少女と大祭に出場することを心に決めた。卑怯な自分から変わり、過ちを正して罪をあがなうため、そして自分を助けてくれた少女を助けるために。サンドラと別れてもなお、その想いは彼の胸にまだ宿っていた。




