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ネクタル 〜神からつがれし者〜  作者: 周防 夕
第二歌 譲れぬもの
18/26

2.3

「アルカスはゼウスを許したのかな?」

 少年は尋ねる。少女は考えるときの癖で、くちびるをとがらせた。間を置いて、こちらの目を見て微笑んだ。ネクタルは照れてそっぽをむく。

 八年前の夏の夜、ネクタルはサンドラと家をぬけだして夜空を見にいった。草むらに寝ころぶ。隣に顔を向ければ少女の金髪が月の明かりをうけて燃えるように輝いていた。何故か見てはいけないもののように思えた。

「それは、分からない。でもね、私はこう思う」

 サンドラは精霊ニンフのように美しい少女だった。輝かしい金髪、白い肌、そして金色の澄んだ瞳。どれもが爛漫らんまんと輝く。夜の闇は彼女に幻想的な化粧をした。

「神の王だって全てが自由になるわけじゃないの。トロイア戦争だって、トロイを応援する神さまと、ヘラス側の神さまに挟まれて、ゼウスはしぶしぶ色んなくわだてをしてた」

「うん」

 その振る舞いも、話す内容も、年に似合わず大人びていた。少女に憧れていたからこそ、彼は強い引け目を感じずにはいられなかった。

「でも、出来うる限り、神様は、正しいことをしてくれる。正しい訴えには答えてくれる。それが少し遅くなるかもしれない。でも、だからといって、やけになって卑怯なことをしちゃだめ。正しいことをしていれば、いつかは報われる。しかるべき者に、しかるべき物を与えてくれる……。アルカスも、そこは理解してくれるんじゃないかな」

「……ねえ、サンドラ? 一つ聞いて良い?」

 母に悪事を報告する子どものように声を震わせてネクタルは尋ねる。アルカスが母を殺める赤い情景が彼の脳裏にこびりついて離れなかった。

「なあに、ネクタル?」

 少女は嬉しそうに顔をほころばす。サンドラは少年に頼られるといつも得意げなな顔をした。その顔を見て彼の気持ちはしぼむ。女の子に頼るのが男として情けなかった。

「……ううん。なんでもない。言うこと忘れちゃった!」

「そっか。思い出したら聞いてね」

 背の低い牧草が広がる空き地から、二人を預かっている羊飼いの家へ戻った。利発な少女が計画さえすれば大人の目をかいくぐるのも容易だった。

 いつもと同じようにサンドラと同じ部屋で寝た。暖かい布団に包まれれば直ぐに眠れるはずだった。けれど忍び寄る赤が邪魔をする。血のつながった家族と暮らしていた日々が呼び起こされる。


 太陽がぎらぎらと輝く中、広場の台上で老いた詩人がトロイア戦争の叙事詩『イーリアス』を歌っている。数少ない娯楽を満喫しようと数十名の群衆が詩人を囲む。その中でじっと耳を澄ます少年がいた。小さな手で握った大きな手のことも忘れて集中している。

 語られるはヘラス勢。王の中の王、莫大な兵引き連れしアガメムノン。その弟にしてスパルタ王、巧みな槍の使い手メネラオス。神さえ倒さんばかり、猛将ディオメデス。よわいは百を越しながら、策略つきぬ老将ネストル。そして、知略縦横、才気煥発、城さえ屠りし、イタケ王オデュッセウス。

 立ち向かうはトロイア連合軍。トロイア王子、神と見まがう勇将ヘクトル。その弟にして美しき王子、弓の使い手パリス。エティオピアの王たるメムノーン。アマゾネスの女王ペンテシレイア。部隊ごとに話す言語が違うほど、様々な異語族バルバロイが集う。

 詩人が杖をふりあげ高らかに歌えば、少年の瞳には英雄が槍を振るう姿が鮮明に描かれる。血が飛び散り、首が断たれる。数々の兵士の瞳が暗闇に染められてゆく。青銅の剣が命を刈り取る残酷な場面にじけながらも、少年の心は雄々しい闘いに惹かれていく。

 歌は終った。呆然としている少年の手を、その父がひいた。

「ネクタル、きちんと話し分かったか?」

「うん、やっぱりディオメデスがかっこよかった! でも、やっぱりオデュッセウスが一番好き!」

「オデュッセウスはこの島に生まれ、トロイア戦争だけでなく、化け物とさえも戦い抜き、富を得てきたのだ。今こうやって私たちが暮らせるのも、彼のおかげなんだぞ」

 父が腕をまくり、山のように膨らんだ力こぶを見せつける。

「我らには彼の優秀な従者の血が流れている! だから負けないし、ヘラスの中でも強い一族なんだぞ!」

「うん!」

 農作業で岩のように固くなった手で父はネクタルの頬をなでた。少年の興奮をおさえるように優しく語りかける。

「だが、お前もこれだけは覚えておけ。神様の掟は守るのだ。例えば、ゼウスは客人を守ってくださる神様だ。だが、客も礼儀をもたなければならない。トロイアの王子パリスは、スパルタの客人になった時、掟を守らず王の妻を奪った。その過ちが神によって罰せられ、トロイアは滅びたのだ。お前も神を敬い間違ったことをしてはならんぞ。一人の罪が、国を滅ぼすことだってあるのだから」

「分かってるって! ぼくも強くなって悪い奴を倒すんだ!」

「ちゃんと聞いていたのか? おい?」

 父の手をにぎって市場を歩く。オリーブ油に魚や豚、周りのもの全てが宝物に見えた。物欲しそうにしていると父が屋台のお菓子を買ってくれた。母と姉には内緒の『男同士の秘密』という言葉が嬉しかった。

 ネクタルの背は父ゆずりで、友達にちび親子とよく馬鹿にされた。けれど、優しくて、力強くて、誰よりも頼れる父が少年は大好きだった。

 毎日、畑仕事を手伝って麦を育てた。小さな農地だったが、実れば黄金の海原があらわれた。この風景がネクタルは大好きだった。

 それでも、少年が何より憧れるのは男同士の戦いだ。友達と毎日ちゃんばらして切り傷をつくった。戦争が起きることを望みさえした。赤に染まめられたあの日までは――


 夜中、たくさんの敵を打ち倒す夢を見ている彼を、陶器が砕ける音が起こした。目をこすりながら布団から出て音のした方へと少年は向かう。

 母の悲鳴が聞こえた。苦手な虫でも出たのかな? 自分がやっつけてあげよう。彼は寝ぼけながら、いまだ英雄気どりで居間へ入った。

 化け物のように大きな影がうごめいていた。のちに知ったことによると、それらは異語族バルバロイの海賊たちだった。少年が望んだ悪党、打つべき敵である。

 母が二人の男に押さえられていた。必死に抗っている。急に力が抜けたように後ろに倒れた。少年は呆然と一歩前に出る。

 ぴちゃぴちゃと水たまりができていた。母はこれに足をすべらせたんだろう。何かこぼしちゃったんだ。下を向けば、赤い水たまりがあった。酒瓶さけがめを倒したのかな。

 父がうつぶせで寝ていた。母がその上にかぶさる。腹から血がどくどくと流れ、その手には小さな刃物が握られていた。月明かりにぎらつく刃を少年はぼうっと見つめた。

「助けて」姉が叫んでいた。男が三人掛かりで十代半ばの少女を取り押さえている。彼女と目が合った。姉は叫ぶのを止めた。声を出さずに口を動かし「逃げて」と弟に伝えた。

 走った。走って家を出た。足についた液体が気持ち悪かった。これは夢だと自分に言い聞かせる。走る。走って、走ってさえいれば、深いことを考えないで済む。いずれ朝が来て目が覚めるはず。けれど彼の願いは叶わず、その悪夢が覚めることはなかった。

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