2.2
あれだけ騒がしかった夏の虫は秋の寒さに枯れ死んだ。静寂は暗闇によく馴染んだ。真夜中、白い吐息が浮かぶ。ネクタルは膝を抱え木に寄りかかっていた。その手の杯には赤い水が波打っている。
水で割られていない生酒をあおった。酒の飲み方を知らないわけではない。苦手な市場に行ってまで手に入れたのは、寂しさをごまかせるものが欲しかったから。
語らい合う友もなく、笑い合う家族もない。だから彼は星を眺めた。一年中、夜を照らし、船人たちの道しるべとなる星座を見つける。親子熊の星座だ。吐息が薄い雲をつくろうと強い輝きは隠せない。
幼少のころ知って以来、長らく忘れていた物語が頭に浮かんだ。埃をかぶっていた記憶をはたき物語を解きほどく。
狩猟の女神、アルテミスの侍女の精霊の一人、カリストは主人の女神ばかり尊敬して、ほかの女とともに男との交際を嫌って過ごしてきた。
神の王たるゼウスは美しい少女に心奪われ、妻の目を盗んで、彼女の元へ逢い引きとしけこむ。けれど神の王たる面目も立たず、カリストに拒絶された。
全権担うゼウスがそれで諦めるはずもない。自分の娘であるアルテミスの姿に変身し、真夜中に少女の元へ向かった。無垢な憧れを利用して何も分からぬ少女と情事をかわす。
ネクタルは思い出す。その話しをしてくれた幼なじみの少女のことを。まだ二人とも八歳だった。その行為を理解していなかったけれど、少女は相手を騙す卑怯なふるまいに不満そうだった。神の王はそんな事はしないと口を尖らせて呟いた。彼女は、不正とか、騙すとか、卑怯なことが大嫌いだった。
その後、カリストの腹はふくらみ、男嫌いの女の集まりから追放された。ゼウスと子をもうけたことが妻のヘラに知られれば、嫉妬の呪いをかけられ、美しかった姿も毛むくじゃらの獣に変えられてしまう。
幸いにも息子は親切な者に引き取られ、森で一人暮らす母の祈りが届いたのか、病一つせず青年まで育った。けれど母がいない寂しさは、彼、アルカスをいち早く立派な男になろうと焦らした。その想いは彼を山へ向かわせる。
母の瞳は茂みの奥から近づいてくる男が、己の腹を痛めた子だとすぐに見抜いた。ずっと一人で耐えてきた切なさが理性を打ち倒す。息子を抱きかかえようと、両手を上げて、彼へと駆ける。
けれど、子の瞳に写るは二本足で立つ獰猛な獣。立派な獲物を狩って一人前な男だと皆を認めさせようと気がはやる。弓をひき、矢を放つ。獣の悲鳴を聞いても攻め手はゆるまず、生き物を殺めるための道具を母へ向ける。
この話しを耳にした時、自分の境遇と重なって泣きかけたことをネクタルは思い出す。それでも好きな少女の前だったから必死にこらえた。
冷たくなって、ようやくカリストの呪いは解かれた。そうして、息子はそれが母と知る。彼はその後に母の苦しみを知った。
自分の父たるゼウスへ、アルカスは嘆く。好き勝手に女を抱き、孕ませた子を苦しめる。これが法を司る王の振るまいかと。時は戻らない。ならば、せめて、これからは彼女を一人にしないでほしい。自分がずっと母の隣にいる。母を寂しくさせたくない。そう息子は願った。
ゼウスは願いを叶えた。母カリストと子アルカスを夜空に浮かべ、一年中輝く星とした。それこそが「おおぐま座」と「こぐま座」である。
幼なじみの少女、サンドラは沢山の昔話をネクタルへ教えてくれた。甘い酒のつまは、甘い思い出。酒に浸るほど、彼の意識も過去へと沈んでいく。




