2.1
地面にうずくまる少女へ寄り、ネクタルはかがみこんで肩をさする。
「なぜ、そう涙する? 顔を上げてわけを教えてくれないか」
「……あなたさまは、どうして、あのお方と戦おうなどと……。ネクタル様だってご存じでしょう! ペイライオス様は前オリュンピア大祭にて活躍された勇士だと!」
少女は吠えるように彼にすがる。両目に巻かれた帯には涙のしみが浮かんでいた。震えた声を耳にしてもネクタルの表情は変わらない。
「知っているさ。私とて、あの方とテレコーマス様に憧れてきたのだから」
三年前、ネクタルがまだ商人の元で下働きしていた頃、二人の英雄の凱旋を目にした。それから彼の持つ理想像はその両雄を材料にしたものとなった。
一人はイタケ王家の子息、テーレマコス。『武装競争』にて上位入賞を果たした。並び立つはイタケきっての名家の主アイギュプティオスの一人息子、ペイライオス。『五種競技』にて五位を得た。
従者を引き連れて勇ましく広場を行進する二人の姿は変わらずネクタルのまぶたに鮮明に焼き付いていた。
「なぜ、あのような誓いを……」
「傲慢なことに従うしかできないのは、それこそ豚と変わらない。間違ったと思うなら、抗わなければならない」
自分の体と触れないように、リュラはごつごつした青年の手をはらった。羽織っていた外套を静かに地面へ置いて立ち上がる。それを追ってネクタルも腰を上げた。
「賢いあなた様を、わたしの呪いが狂わせてしまった。ネクタル様、まことに申し訳ありません。わたしは……呪われている」
「なぜ謝る? そう泣いていないで、理由を教えてくれないか」
「わたしには、謝ることしか出来ません」
過ぎ去ろうとした少女の手をネクタルは掴まずにはいられなかった。思い起こすは幼いころの少女との別れ、切ない痛み。
「お願いだ。なにも告げずに去らないでくれ」
立ち止まったまま、リュラはうつむき、口をつぐむ。ネクタルのほうへ向きなおり、ゆっくり顔を上げた。
「……ならば語らせていただきましょう。わたしに流れる赤い水が、どれだけ汚れているかを」
少女は決意を表すように両手を胸に寄せた。その澄んだ声は親しい人の死を嘆く歌のようにネクタルの胸に哀みを奮い起こさせる。
「わたしの父は、詩人として名のしれたタミュリスと申します。幼き頃、光を失う前、わたしは父と母にしたがって各地を放浪したものでした。ヘラスを飛び越え、海の先、アシアまで。今も各国の情景を想い描くことができます」
少女は寂しげに笑った。けれど直ぐにその笑顔は曇り、顔色さえ悪くなる。
「仲むつまじかった両親はわたしに琴と歌を教えてくださいました。タミュリスの神を敬う詩は、異国トラキアにて王の気に入るところになり、わたしたちの家族はお屋敷付きの詩人として迎えられました」
吟遊詩人は神々や太古の英雄を物語りながら各地を放浪した。町の有力者に歌を披露し、その代価として衣食住をまかなってもらうのだ。
「けれど父は誉れを喜ぶあまり、もっとも尊ぶべきことを疎かにしました。すなわち、詩神に加護をうけながらも、神を蔑ろにしたのです」
詩人とは自分で詩の技術を学ぶものではない。神からの天恵により、太古のことを知り、歌にする。だからこそ個人の技量を誇るより先に神への感謝が必要なのだ。
少女は小さな肩をより縮めて、吹雪に襲われているかのように体を震わす。すすり泣きながらも、彼の求めに応えるため話を続ける。
「父は、自分が裕福になるため、わたしを貴族のかたに嫁がせようとしました。持参金の代わりに神の加護が与えられると大声で嘘を叫びさえして。しかし、ことは、うまくいかず、父は娘を恨みました。その時、すでにゼウスは父に怒りを感じていたのでしょう」
ネクタルはじっと聞き続けた。彼女のことを知りたかった。助けてくれた恩も、迷惑をかけてしまった引け目もある。けれど、彼女を想う気持ちはそういった義務から発するものだけでは決してなかった。
「母は、不貞をはたらきました。婚姻を申し込まれ、その甘い言葉に説得されて貴族の殿方と交わりました。愚かにも結婚を司る神、ゼウスの妻ヘラを侮辱したのです。邪魔ものである父と私に偽りの罪をかぶせ、牢獄へ入れる手引きをしました。その求婚もまた偽物と知らずに」
少女は祈るように、助けを乞うように、天へ向けて手を組む。降りかかる痛みに耐えるかのように口はまっすぐ結ばれた。ゆっくり、青ざめた唇を動かす。
「牢獄で真実を知り、父は母を呪いながら、冥界の王ハデスの元へ向かいました。愚かな母はたちまち病にかかり、私を呪ううわごとを吐きながら、冷たくなりました」
声は震え、涙は布からあふれて白い肌を流れ落ちる。
「神を侮辱する汚れた二人を結ぶのは、呪い。それが、わたし、わたしこそ呪いそのものなのです」
「……つらい話をさせた」
ネクタルはゆっくりとリュラの頬に手を伸ばす。けれど掌がつかむのは空気だけ。彼女は彼から逃げるように後ずさる。緊張に強ばった頬をネクタルは必死に動かす。
「だが、リュラ。それで君が呪われていると決まったわけではないだろう。二人が、たとえ、神の怒りにより亡くなったとしても……君はまだ生きている。それは神に許されているからこそ。私はそう思う」
伝えたかった想いを十全言葉にすることなど出来なかった。当たり障りのない曖昧なものにしかならない。それがもどかしくて、つらかった。
「盲目の詩人には霊感が宿り、また穴を防ぐことで穢れが漏れなくなる、そう言われ、わたしは王族の方々に目を焼かれ、見せ物とされました。そこをお救いになられたのは、各国を周遊していたイタケの王子テーレマコス様でした。しかし、わたしは、愚かにも恩を仇で返したのです。それこそが、この身の呪いの何よりの証拠でしょう」
「テーレマコス様が数年前から行方不明になっていることは耳にしている。だが、リュラ、それに君が関係してるのか?」
つめよるネクタルからリュラは距離をとる。青ざめた唇を指でなぞり、悲しげに笑った。
「呪いとは、目から、耳から、そして何より口から流れ出るものだそうです。イタケまで送り届けてくれたテーレマコス様は次の出航の前にわたしの歌を望まれました。海の魔女のようだとお褒めになってくださいましたが、それはまさしく不幸を呼ぶ歌でした。あの方は船出してから三年たった今も戻られておりません。すべからず、この呪いのせいです」
「……そうと決まったわけではない」
リュラは頭を下げた。汗にしめる手で、ぐしゃぐしゃにしわが寄るほど強く服をつかむ。平静な声を精一杯つくり、こう告げる。
「語るべきことは語りました。身内が呪いあうことを、復讐神の恐ろしさを知らしるため、運命の三女神はわたしに放浪の人生をつむがれた。今日、そのことに気づきました」
「……間違ってる。それは神のせいにして逃げているだけだ!」
彼女が望んで進もうとする道がネクタルには正しいものとは思えなかった。リュラの考えがどうにも許せなかった。ほとばしる想いが、塞き止められずに言葉となる。
「今日のことも君のためにしたのではない。強い力に一度屈すれば、首はもたげ、天を見上げられなくなる。だが、その力が誤ったものならば、痛みを耐え、そして逆らわなければならない! 再び叩かれるのを恐れていれば、二度と空は見れなくなる。間違った力には抗わばければならない!」
その言葉は少女へどう聞こえただろうか。頭巾の下に隠れた表情は分からない。
「あなた様は、まっすぐで、とても強い。そのお言葉も、考え方も」
「そんなことはない……」
「のどかな日々が呪いを薄くすることはないのですね。みなさんに甘えて、わたしは忘れた気になっていた。けれどあの御方のおっしゃるとおり。これ以上、あなた様にも、あるじにも迷惑をおかけするわけにはいきません」
そう言い終えて、少女は深く頭を下げた。ゆっくりと一歩一歩彼から離れてゆく。その背にかける言葉を見つけられず、ネクタルは口を半開きにして立ち尽くすしかできない。
そうして、寂れた空き地に青年が一人残された。彼は己に問う。間違ったことをしたのかと。答えは出ない。槍を手に取り、渾身の力を込めて丸太へと叩き付けた。それで憤りが失せるはずもないのに。




