1.3
「しかし、その振る舞いはどうだろう? 処女神をまつる神殿の横で奴隷女と不貞をかわす男が、よくもぬけぬけと神への信仰を語れたものだ」
自然と足を踏み出していた。ネクタルはいきり立ち、相手を睨み返す。
「何を見て不貞とおっしゃるのです! 彼女はあるじの許しを得て私に食事を届けているだけだ! 侮辱しないでください!」
「奴隷ごときを強くかばうのが証明していよう。あれが身につけているのもお前の上着だろう? ……しかし、リュラと言ったか。お前はまことに厄災しか運ばぬ女よ」
振り向けば、リュラは腰から力が抜けてへたりこんでいた。ネクタルはペイライオスへ向き直る。
「彼女をご存じなのですか?」
「お間は呪いの口もつ、この女に何も聞いていないのだな。そやつは我が盟友、この国の王子たるテーレマコスが異国から買った奴隷だ。彼は誰にでもほどこしを与える慈悲深い男だった。門戸を開く優しさが、破滅をも呼び込んだのだが。トラキア王家の見せ物とされていたこの女を哀れみ、彼は……」
頭の中で小さな雷がばちばちと弾けているように思えた。自分の知らない少女のことを語られるのがネクタルを無性に苛立たせた。
「あるじに頼み汚らわしい女を追放してもらおう。これ以上、この国に呪いを振りまかれては困る」
「……私は彼女の過去を知らない。だが、悪事を働いていないのに権力に任せて追放することが間違っているとは分かる。なぜ、あなたのように聡明な方が過ちを犯そうとするのか」
「知ったような口をきくでない。余の心は決まった。たとえ主人が首を振ろうとも、長老たちを味方にひきこめばことは進む。お主はそれに、逆らうつもりか?」
ネクタルの喉が音をふるわす前に、その奥に座っていた少女が立ち上がる。
「良いのです。ネクタル様。そのお方のおっしゃることに間違いはございません」
「私にはそうは思えない。君は何もしていないじゃないか」
リュラの元へ歩き、ネクタルは彼女の右肩に手を置いた。少女を安心させようと笑みをつくる。そうして、ペイライオスを真っ正面から見つめた。
「私は、それを止めるのに全力を尽くすでしょう」
力任せに正しさが歪められることをネクタルは何より憎む。刃向かわずにはいられない。
「お主に何ができる? 表向きには、そんな権力があようには思えぬが」
「……私は……」
ペイラオスの視線に耐えるので精一杯だった。気持ちばかりが高ぶり、言い返す言葉は用意できない。
「……神はしかるべき者へ、しかるべき物を与える。そういった己の言葉に二言はないか?」
ネクタルの言葉は遮られ、ペイライオスの堂々とした語りがそれを継ぐ。その問いに青年はうなずく。
「ならば、我らが武器をぶつけ合い、答えを出そうではないか。正義の女神ディケーが勝者へ正しさを証明してくださるだろう」
少女はネクタルの足下へしゃがみこみ、救いを求める嘆願者のように、枯れた声で訴える。
「ネクタル様! おやめください。ペイライオス様と戦うなど……。わたしのことなど気にならさず、お忘れください」
ネクタルはリュラへ目を向けずに、息荒く、おびえる様子もなくこう言い返す。
「ええ、承知しました。その勝負、お受けしましょう」
「勝敗は『選定の儀』と同じ決し方、武器は血を食らう本物を使おう。それとも、木製の玩具がお好みか?」
「……ならば真剣で手合わせを」
「男二人がぶつかり合い、空手で帰るのも示しがつかぬ。勝者に与えられる褒美を決めよう。主が勝てば、余は主の言うことを何なりと聞こう。だが、余が勝てば、お主は儀から去る。それでどうだ?」
「ネクタル様! お断りください。あなたは、あれだけ努力し、やっと勝利を重ね始めたところではありませんか! それを危機にさらす必要がどこにあるのです?」
「ペイライオス様のその申し出、承知しました」
相手に乗せられてる自覚がありながらも、ネクタルは抵抗しなかった。ペイライオスの言葉が正しく聞こえたからこそ断る理由がなかった。彼は極力、正しくあろうとした。瀆神者と思われたくなかった。
「……さて、ペイライオス様。争いの神エリスは誓いの神ホルコスの母とされています。争うことが決まった私達も、互いの言葉がくつがえらぬよう、神に誓いあいましょう」
「お主は退かぬのか? 神に誓えば最後だ。それを破れば、知らぬわけではあるまい」
「ええ、承知の上で」
「……ネクタル様」
青年の目で燃える炎は、どんな想いであろう。曖昧な考えからでた言葉ではない。少女の言葉を耳から閉め出した。その鋭い目つきは、彼が一人戦うときのものとよく似ている。
「よかろう。……クロノスの子、ゼウスよ。たった今、我が歯垣から飛んだ言葉が必ずや行われることを誓おう。たとえ、父や長老、国の誰に止められようと。誓約が反故された時はその愚者が雷火により焼き尽くされんことを!」
「私も誓います。今と同じことを」
「……場所は我が庭園にて行おう。日はお主が決めるが良い」
「ならば、月の満つる十五日後の、『選定の儀』のないその昼に」
「すべて決められ、余がここにいる理由もなくなった」
外套をひるがえし、ペイライオスは小さき平民を背を向ける。主人を守るように従者が前に出た。この怪しい平民は不意打ちすらしかねないと思われているらしい。
「もし、戦うに足りぬものがあるのならば、余の館を訪れるがよい。必要な物はなんなりとやろう。後でなにが足りぬから負けた。不正だ。などと言い訳をされるのも面倒だ」
そう言葉を残し、国一番の勇士は、国一番の腫れ物と別れた。こんな応酬を経ても勇士への憧れは変わらず、ネクタルは彼が去るとき丁寧に頭を下げた。その後ろで額を地面につけて涙を流す少女へ目も向けずに。




